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泳げぬ魚は夢を見る

作者: 皐月 満

 俺は昔から、この場所が好きだった。


 青い水槽の中を、銀色の魚たちが巨大な魚群となって泳いで行く。時折集団で方向を転換しながら、それは高い水槽を、一匹も逸れることなく上へ上へと上っていく。


 首をもたげてそれを眺めながら、俺は耳を澄ました。誰もいない、昼過ぎの水族館。そろそろ、ここに目的の人間が入ってくるはずだった。


 魚群が遥か上方へと消え、見えなくなった頃、俺はそっと目を閉じた。微かに風が動いた気配がする。全く何の音もしなかった。


「よう、あんたが請負人だろ」


 俺は目を閉じたまま、思わず笑ってしまった。


「やっぱり、さすがだな。これだけ静かでも、分からなかった」


 言いながら、俺は目を開けて首を捻った。


 そこには、俺と同じくらいの男が立っている。青い水槽の色を片頬に映しながら、そいつは俺をじっと見下ろしていた。


 男にしては色白な肌、どことなく頼りない感じのする細い手足、派手ではないが端正な顔立ち。この仕事には似つかわしくない容姿だが、その方が、仕事の遂行には都合がいいのかもしれない。


「いえ、僕はまだ未熟者です」


 そいつは困ったように笑うと、穏やかな表情で軽く頭を下げた。


「初めまして、江田(えだ)京介(きょうすけ)さん。柏崎(かしわざき)(とおる)です」


 黒い前髪が、頭を下げた拍子にさらっと動いた。俺はまた笑ってしまいそうになるのを堪えながら、頷いた。


「依頼は、事前に頼んでおいた通りだ。俺の周りに、(あわい)から来たモノがいる。詳しくは言えないが、俺に害をなしてくるもんでね。ほら、この通りだ」


 俺は自分の脚をぱんぱんと軽く叩いた。それは、車椅子の上でブランケットを被っている。俺がこの透に見下ろされているのは、これのせいだった。


「とても歩ける状態じゃなくてな。ぜひ、この元凶を殺して(・・・)欲しいんだ」


 殺して、とはっきり言って、俺はそいつに笑いかけた。この、虫を叩き殺すのも躊躇いそうな透が、どんな反応をするか見ものだった。


 だが、透は涼しい顔ですんなりと


「はい、分かりました」


 と答え、再び穏やかな笑みを浮かべた。こいつからすれば、そんな依頼は日常茶飯事、別段気にするようなことでもないのだろう。


 ──こいつなら、やってくれそうだな。


 俺は車椅子の肘掛けに頬杖をついて、笑い出しそうになるのを誤魔化しながら、透を見上げて言った。


「それから、一つ頼みがある」


 透が眉をあげて不思議そうな顔をする。これが演技か、素なのかは、俺にはまだ見破れない。


「俺は十七だ。お前は?」


「僕も十七、です」


「だったら、敬語は無しにしよう。そうだな、友達ごっこでもしてると思ってくれればいい、普通に喋ってくれ」


 すると、透はほっとしたように息を吐き、にっこりと笑った。


「──じゃあ、そうさせてもらうよ。京介君、でいいかな」


「ああ、俺も透って呼ばせてもらう。よそよそしいのは嫌なんでね」


 笑って頷く透を見ながら、俺は期待に胸を膨らませた。これで、ようやく積年の思いを晴らすことができる。願いが叶いそうな予感がした。





 親切に願い出た透の言葉に甘えて、車椅子をゆっくりと押されながら、俺は透と他愛もないことを話した。


 こいつの本業は、表向きは高校生だった。高校の名前を聞くと、それなりに有名な公立高校の名前を口にする。どうやら、表向きの本業もそこそこの成績のようだ。


 しかし、透の真の本業は高校生ではない。


 この世とあの世の狭間と言われる『(あわい)』、そこから来る、人に害なすモノを秘密裏に抹消する仕事が、透の真の本業だ。(あわい)()りと呼ばれる彼らは、誰がどこで糸を引いているのか知れない、謎だらけの組織だ。ほとんどの人間が、その存在を知らずに生きている。


 彼らが抹消する対象は、俺もよくは知らないが、基本的に人間に紛れて生きているモノが多いらしい。失敗したという話を聞かないあたり、依頼すれば、恐らくはどんな標的もきちんと抹消するのだろう。ますます期待できる。


 透は、俺が見ている限りでは、やはり間守りには似つかわしくなかった。段差を越えるとき、それがどれだけ小さな段差でも苦痛になることを、こいつは分かっているようだった。必ず、ゆっくりと前輪を持ち上げてから段差を越えたり、その度に俺の様子を確認しては、安心したように頷いている。間から来たモノを『殺す』ような人間がすることではないだろう。


 ただ、本当に依頼が遂行されるかどうかについては、俺は全く心配していなかった。足音もさせずに近づいてきたのだ。俺も気配を読むのは得意な方だが、それでも接近するまで気づけなかった。普通の標的ならば、そのまま刺し殺されていてもおかしくない。依頼したとおり、組織は技量の高い間守りを派遣してくれたようだ。


 透を案内して家まで送ってもらい、帰り際、俺は透に向けて手を上げた。


「今日はありがとうな。送ってもらえて助かった」


「別にいいよ、僕は京介君と話せて楽しかったから。じゃあ、明日」


「ああ」


 透はにこやかに手を振り返して踵を返した。


 部屋に戻り、車椅子からベッドに移動するという慣れた作業を終えて、俺はため息をついた。


 透は、明日から俺の周りを調査することになっていた。直接的に俺と接触するというわけではないが、間から来たモノの気配を追うのだろう。彼らが一体どうやって捜索するのかは興味がないが、どれほど早く見つけ出してくれるのかは大いに楽しみだ。


 俺は自分の脚に絡みついたブランケットを剥いだ。


 そこにあるのは、普通の人間の脚ではない。脚の末端にいくに連れて濃く鮮やかになっている青い鱗。人間の脚のような形をしてはいるが、指の間は水掻きで埋まり、鱗の浮いた肌は、人間の肌の感触とは明らかに違う。使わないがために細く退化したその脚は、人魚と人間の血が互いに濃く現れた、醜い異形のものだった。


「……はっ」


 あまりの気持ち悪さに、思わず自分で笑ってしまう。人間のものでも、人魚のものでもないこの脚を、できることなら切断してもいい。


 幼い頃、自分が歩けないことが腹立たしくて、一度歩いてみたことがあった。だが、あれは今でも思い出すだけで鳥肌が立つ。地面を踏みしめたあのとき、俺は叫び出したくなるような激痛を感じた。人間でいう、足の甲で立つようなことだろうか。要するに、この脚は立って歩くようには作られていないのだ。


 俺は脚から視線を外してベッドに横になり、向こうの壁際に置いてある水槽をぼんやりと眺めた。


 水槽の中には、熱帯魚が数匹泳いでいる。様々な種を入れてあるせいか、カラフルに見える。部屋の壁を一つ埋め尽くすほど大きな水槽は、この部屋全体に青い色を落としていた。


 熱帯魚はそれほど泳ぎが得意ではないことが多い。穏やかな海に住んでいるせいだと、俺は勝手に思っているが、実際はどうなのか知らない。だが、その熱帯魚よりも泳ぎが下手な人魚は、海の中では生きられない。俺が脚を使うことができる場所は、この世界のどこにも存在しない。


 ゆらゆらと泳ぐ熱帯魚を見ながら、俺は数日前にきいた話を思い出した。


 それは、人魚の肉に不老不死をもたらす力があるという話だった。人魚の肉を口にすれば、不老不死の肉体を得ることができるとか。そんな噂だ。


 当然、俺がその話を知らないわけがなかった。だが、人間の間でそのことがそれほど広まっているとも思っていなかった。現代、不老不死に憧れるような夢想家がいるのか疑問だが、人魚の肉を研究したいとか言い出す科学者はいそうだ。まあ、証明するまでもなく、人魚の肉は不老不死をもたらしてくれる。


 だが、不老不死をもたらすのは肉に限らない。俺は、随分前、もう数えるのもやめてしまったが、本当に十七だったときに、自分の血を舐めてしまったことがある。たしか、指を切ったとか、原因はそんな些細なことだった。そのときに舐めた一滴にも満たない血のせいで、俺はこの通り、不老不死だ。


 俺は、自分で選んだわけでもなく、不快極まりない肉体を持って生きてきたというわけだ。


 仲間の人魚はもういなくなってしまった。不老不死の肉を持っていても、人魚が不老不死だというわけではないからだ。それに、この脚のせいで、人間と深く関わることを避けてきた俺には、もう既に友人らしい友人はほとんどいない。わずかに残った旧友も、きっとじきに死を迎える。


 俺が望んだのは、不老不死でも、不便で醜い脚でもない。特別何があるわけでもないが、平穏な日常が欲しかった。だが、今さらそれを願ったところで、何も変わらないということはよく知っている。


 だから、俺は組織に依頼をしたのだ。





 翌日、俺はまた、昨日と同じ場所にいた。


 特に人気というわけでもないが、この水族館には、それなりの客が入る。だが、そうは言っても最奥まで来る客はそれほどいない。何しろ、俺が好むこの場所は、この水族館の目玉である、柱状の巨大水槽の足元だ。上から下りながら観覧するようにできているので、ここまで来なくても、この水槽を中心にしてつくられた螺旋状の回廊を数階分下りれば、水族たちは十分堪能できる。最下部まで来る人間は本当に稀だ。


 この水族館をそれほど騒がしいと思ったことはないが、俺は他の物音が聞こえないほどの静寂が好きだった。初めはこの巨大水槽の周りをぐるぐると下りて来ていたが、そのうちそれが面倒になって、エレベーターでここまで一息に来るようになった。


 今日も水槽の真横に車椅子をつけて上を見上げながら、俺は魚群を目で追っていた。


 いつからここに通うようになったのか、はっきりとは覚えていない。ただ、この静かな場所で魚群を眺めて過ごす時間を、俺は長年、飽きることなく満喫している。もちろん、自分が曖昧な生物だということを忘れるわけではなかった。感傷に浸りたくて来るわけではない。薄暗く演出された静寂の中で、ひたすら魚を眺めるのが好きなだけだ。


 餌の時間になったのか、俺が追っていた魚群が、凄まじい勢いで上へと消えた。俺はそこで初めて、腕時計に目を落とす。既に昼過ぎだった。


 俺は再び、水槽を見上げた。


 濃紺の影が顔に落ちる。名前を知らないエイのようなものが、俺の上を通ったらしい。俺は一匹で泳ぐ遠いエイを見て、ふと透のことを思い出した。


 あいつは、どういう環境で生きているのだろう。俺を魚群からはぐれた出来損ないの奇形児だとして、あいつは魚群の中で生きているのだろうか。


 昨日、俺の車椅子を押しながら談笑していた姿が蘇った。傍目に見れば分からないかもしれないが、あいつが放つ雰囲気は、普通の人間とは異なっている。


 それの正体が何なのかは、一日喋っただけの俺には知りようもない。知ったところで、俺がどうすることもできない。そういうものだ。俺は痛いほど知っている。だが、久しぶりにまともに接した人間だからか、他に考えることもないからか、俺には少し気になった。





 透から連絡が入ったのは、それから二日後のことだった。


『もしもし、京介君』


 透は先日と同じように穏やかな声で俺に告げた。


『大方の目星がついたよ。ソレがどんなものか、何を目的にしているのか』


「そうか、じゃあ、これから殺りに行くのか」


『ううん、ごめん、それはまだなんだ。──ねえ、京介君、今からそっちに行ってもいいかな。いくつか訊きたいことがあるんだ』


 俺は無意識に緩みかけた口元を引き締めた。


「ああ、もちろんだ。楽しみに待ってるよ」


 電話を切ると、俺は笑いを堪えきれなくなって、声を出して笑った。


 ようやく、遠かった願望が目の前にやって来る。願いが叶うことを想像しただけで、俺は笑いが止まらなかった。


 あまり経たないうちに、透はやってきた。ソファに行儀よく座ったまま、透は言い切った。


「京介君の脚を壊したのは、紛れもなく間からきたモノだった」


 偶然冷蔵庫にあったコーラを渡してやる。春先とはいえ、もうだいぶ暖かくなってきている。これくらい冷たいものを飲んでも、寒くはならないだろう。透は嬉しそうにそれを受け取ると、一口それを飲んだ。


「最近はあまり見かけなくなったって、師匠は言っていたんだ。でも、まさかここで遭遇するなんてね」


 透は特に感情のない表情を浮かべて言った。


「元凶は、人魚だよ」


 透が持つグラスの中で、氷がカランと音を立てた。


 俺は必死に笑いを堪えながら訊いた。


「人魚? そんな現実離れしたモノがいるのかよ」


「いるよ。本当にその辺りにね」


 透はさも当たり前のことのように答え、コーラを飲んだ。


「京介君だって分かってるはずだよ。組織に依頼したんだから。そういうものがいることを知らない人間が、組織の存在を知るはずない」


「そうだったな」


 俺は透の無表情な顔を見ながら、この状況の緊迫感を一人密かに楽しんでいた。透はどこまで分かっている? 人魚が目の前にいることに気づいているのか? 分かっているとしたら、相当な役者だ。


 ふいに、透が向かいに座る俺を見た。


 初めて正面から見る、黒い瞳と目が合う。


 ほんの一瞬だったのだろうが、とても長く感じた。


 透はゆっくりと穏やかな笑みを浮かべた。


「大丈夫だよ、心配しなくても。次に京介君に被害が及ぶ前に、必ずやるから」


 俺に向けられたその目からは、感情は読み取れない。俺は頷いて、透がゆっくりとコーラを飲み様子をじっと見ていた。


「そうか。それは嬉しいな」


 俺は自分の分のコーラを飲んで、一つため息をついた。


「それで、京介君。いくつか訊いてもいいかな」


「ああ」


 透が、また俺をまっすぐに見る。


「京介君は、人魚の肉の話を知ってる?」


「食うと不老不死を得られるってやつだろう。くだらないな」


「京介君らしいね。確かに、不老不死なんてくだらないことだと思うよ。でも、それを欲しがる人間は、結構いるんだ」


「へえ。酔狂なやつだ」


「人魚の肉はね、売れるんだ」


 透の言葉に、俺はグラスを口に運ぶ手を止めた。


「公には取引されないけど、相当の高値がつく。組織にはそういう取引を潰す人間もいるから、無事に不老不死を得られた人間は、聞いたことがないけど」


 長年人魚として生きてきても、これは初耳だ。背筋が薄ら寒くなった。


 人魚の肉を売る。半人魚でも、不老不死の効果がある肉は高値で売れるだろう。俺の肉にも、それほどの価値があるというわけだ。


 ──皮肉な話だな。


 透は続けた。


「そういう取引目当ての人間に見つからないように、迷惑な細工をする人魚がいるんだ」


 透の柔らかな視線が、躊躇いがちに俺の脚に向けられる。異形の脚は、いつも通りブランケットを被って外側からは見ることができない。


「人魚の肉を取引する人間は、人魚だと思ったらその肉をそのまま取引に出す。本当に効果があるかなんて、確認しないんだ。だから、普通の人間を人魚のように見せかけることさえできれば、人魚自身はしばらく安泰な生活を得ることができる」


 俺はなるほど、と呟いた。


「じゃあ、人魚が脚を壊したのは、俺を人魚に見せかけるため、ということか」


「僕はそう考えてる。京介君から、なんとなく人魚が接触したような気配がするから」


 透のいう『気配』がどんなものか、俺には分からない。だが、透が俺に人魚の影を感じていたと聞いて、俺は胸の高鳴りを感じた。さすがだ、としか言いようがない。俺はにやけを隠すように口元に手を当てた。


「それに、この辺りに人魚の取引をするやつがいるって聞いたんだ。多分、京介君の脚を壊した人魚を追っているんだと思う。京介君は人魚らしく見えないから、取引するやつらも京介君が人魚じゃないって分かってるんだ」


 人魚らしく見えない。これには笑いを堪えきれなかった。俺は笑いながら言った。


「そりゃよかった。取引のために間違って殺されるなんざ、たまったもんじゃねえ」


 透がつられて少し笑みをこぼす。控えめに笑う透をじっと見ながら、俺はコーラを一気に飲み干した。


「それで、もう一つ訊きたいんだけど」


「構わないぜ」


「これが大事な質問。京介君がよく行く場所を知りたいんだ。覚えている限りでいいから、京介君が頻繁に行った場所を教えてくれないかな」


 俺は正直に、自分が頻繁に向かう場所を答えた。水族館、海沿いの公園、近所のコンビニ、スーパー……。水族館に毎日通い詰めている点を除けば、至って普通の行動しかしていない。自称十七歳で学校に通っていないのは事実だが、俺には行く意味があまりないのだ。勉強なら、したいときにいつでもできる。


 透は俺が答えた場所を一通りメモに書き込み、確認のために、一度俺の前で読み上げた。


「たくさん人がいる場所ばかりだね。水族館以外は、人魚の特定にはあまり使いたくないけど……」


 透が少し苦い顔をする。人の出入りが多い場所は、『気配』を追いにくいのかもしれない。


「水族館といっても、俺がいるのはお前と待ち合わせをした場所がほとんどだ。覚えてるだろ、あの通り、人はほとんど来ないところだ。水族館内で人魚と接触するような場所には、あまり心当たりがない」


 俺が言うと、透はさらに何度か頷いて、すっかり氷が溶けて薄まってしまったコーラを飲んだ。


「分かった。じゃあ、こればっかりは時間をかけないと分からないな」


 透が呟くように言う。俺は少し気になって、透に「なあ」と声をかけた。


「俺の脚を壊した後でも、人魚は俺につきまとってくるもんなのか? 俺を身代わりに立てたんじゃないのかよ」


 透がペンの頭を白い額につけながら唸る。真っ黒な、男らしくない前髪が、またさらっと流れた。


「それが、今回の不可解な点なんだ。京介君からは確かに、人魚の気配がする。でも、京介君が車椅子生活に慣れていることからして、人魚が京介君に接触したのは最近じゃない」


 透はぎゅっと眉根を寄せて目を閉じた。


「人魚が京介君みたいに、車椅子生活をしているってことはありえる。人魚の例としては多い方なんだ。ただ、京介君と頻繁に接触できるような場所に、車椅子を使う人は住んでいなかった」


 俺は感心しながら透の話を聞いていた。組織が絡むとそこまで調べられるのだ。他人の情報を洗うなど、相当な後ろ盾がなければできることではない。


 透は深いため息の後、ゆっくりと目を開けた。


「とにかく、また何日か調べてみるよ。もう少し調べれば、分かるはずなんだ。京介君の脚を壊した人魚が、どこにいるのか」





 電車で来たと言う透を、俺は送ってやることにした。透は、どうやらこのあたりの地理には明るくないらしく、車椅子の俺に案内させないようにするためか、こっそりケータイの地図機能を使って駅までの道を検索していた。特に用もなく、今日は水族館にもいっていなかった俺は、自ら案内をすることにした。


 しかし、俺にただ案内するのは気が引けるのか、やはり俺は透に車椅子を押される形になった。俺は気を遣われるのが嫌で、透を振り仰いで不満を表現する。


「案内をしてやるって言ったんだ。俺一人でも漕いで行ける」


「嫌だよ。僕一人、京介君を差し置いて身軽に歩きたくない」


「これじゃあ案内にならないだろうが」


「僕が押したいんだからいいんだよ」


 どう言っても押すと言い張るので、仕方なく俺が折れてやることにした。大げさにため息を吐いて見せると、透は可笑しそうに笑った。


「頑固なやつだな」


「京介君に言われたくないよ。ほら、行こう」


 透は俺の車椅子をゆっくりと押し始める。肉体的には同年齢の俺が乗っているのだから、決して軽くはないはずだった。だが、透からは他の人間にありがちな、障害者に対する興味から手伝ってやるといった驕りは感じられない。


 俺は大人しく車椅子を押されながら、深く背もたれにもたれた。


 しばらく歩いて人通りが少ない道に入ると、透はそれを見計らったかのように、突然口を開いた。


「……でも、よかったよ」


 あまり大きくない声だった。他人に聞かれたくないのだろう。


「なんの話だ」


「僕は、間から来たモノの抹消は、これまで数え切れないほどやった。小さいときから、何度も。でも、こうして組織から依頼を回されるのは、今回が初めてなんだ」


 それは意外だった。透のこれまでの言動の全てを、特に不自然だとは思わなかったし、仕事をこなすのも、俺が思っていた時間よりはるかに速い。俺はすっかり、透のことを、既に成熟した間守りなのだと思っていた。


「そんな風には見えなかったが」


 素直な感想を口にすると、透が首を振った。


「気を張っていただけだよ。あれでも、すごく緊張してたんだ。でも、京介君は見た目よりずっといい人だったから、最初の依頼が京介君で本当によかった」


「そりゃどうも。だが、そんなに厳しそうな見た目か?」


 俺が訊くと、透は俺の前に来て大きく頷いた。


「だって、京介君は目がきついから。それに、初対面で足音の話なんかされたら、こっちはたまらないよ」


 目がきついのは昔からだ。生まれつきの顔に文句を言われても困る。足音をさせずに近づいて来たことは、感心したから口に出したというだけで、別に透を萎縮させるつもりはなかった。


「足音の件は、褒めたつもりだったんだがな」


「知ってるよ。だから、京介君でよかったって言ってるんだ」


 透は縁石に乗り上げそうになった車椅子を軌道修正しながら言う。駅に近づき、人通りが多くなる。俺は手で方向を示しながら、その話を聞いていた。


「こんなことを言うのもあれだけど、間から来たモノに好かれる人は決まってるんだ。依頼者のほとんどがそう。だから、間守りは同じ依頼者と長く付き合うことになる」


「へえ、じゃあ俺も後々、またお前に依頼をするんじゃないかってことか」


「そう。今後ともよろしく、京介君」


 透は俺の方を覗き込んで、いたずらっぽく歯を見せて笑った。


 そんなことは、何があっても絶対にありえない。明日の朝になったら、俺の脚が人間の健全な脚に変わっている、なんていう奇跡と同じくらいありえないことだ。俺はそう思ったが、言わないでおいた。


 俺にはなんとなく分かっていた。こいつは、間から来たモノを抹消(・・)するという仕事をするには、十分な技量と才能を持っているが、間守りという冷徹な人間にはなりきれていない。この性格だ、なりきれないのだろう。だが、こいつはおそらく、本当は冷徹にならなければならないことを知っている。


 間守りについては、知名度の低い都市伝説のように語られることがある。ネットで見た中には、『間守りは生涯、その仕事から完全に離れることはできない』という趣旨の記載もあった。生涯間守りとして生きるしか道がないのなら、透が冷徹になりたいと思うことにも無理はない。何しろ、相手は人型、感覚としては殺人に近いはずだ。


 どちらにもなりきれない点においては、こいつは俺とよく似ている。あまり理解したくはないが、どっちつかずで、曖昧なほど、自分の存在意義に意味を感じなくなる。俺と透では、もちろん程度の差はあるが、『なりきれない』ことの辛さは、痛いほど分かる。


 ──こいつが、本当に冷徹な間守りになることを望んでるんだったら、俺の依頼は、お(あつら)え向きだな。


 構内へ向かうエレベーターの中で、俺はまた肘掛けに頬杖をついて、口元の歪みを隠した。


 ──信用してるぜ、透。


 そんな俺の脳内など露知らず、透は穏やかな笑顔を浮かべて、俺に手を振りながら帰っていった。





 その日が、ついにやって来た。


 俺が、ちょうどサイズの大きいスウェットに異形の脚を通した頃、玄関のチャイムが鳴った。音はいつもと変わらなかったが、どことなく乱暴にチャイムを鳴らしたのが分かる。俺はリビングに設置された、応答用のマイクに向かって言った。


「入れよ、透」


 俺は至って平然とした声が出たことに、自分でも少し驚いた。まあ、それだけ待ち望んでいたということだろう。


 前回よりゆっくりとした足取りで、透はリビングに入って来た。当然、ほとんど足音はしない。


「計七日、か。俺は半月以上かかるものだと思っていたんだが、あれよあれよという間に、これで一件落着だな」


 俺は車椅子を漕いで、無表情で入り口に立ち尽くす透の前に止まった。自分を指差して、俺は言う。


「さあ、やれよ透。依頼人の江田京介は、俺の脚を壊したモノを殺す(・・)ように頼んだんだ。今、お前の目の前にいるモノが、殺すべき対象だ」


 今回は隠すことなく笑ってやった。俺はこれまでの人生で味わったことのないような正体不明の興奮に包まれながら、透と共に死を見つめていた。





「人魚がどんな風に死ぬか、知ってるか」


 いつになく上機嫌な俺とは対象的に、透は無表情のままを貫き通している。そんな透には構わず、俺は続けた。


「西洋のおとぎ話同様、泡になって死ぬんだと。俺みたいな半人魚も同じだ。なかなか気持ち良さそうだよな」


 俺は身体を捻って、背後にある大きな水槽に目を向けた。派手な色の熱帯魚がゆったりと泳いでいるのが見える。


「完全な人魚じゃない俺にも、人魚として死ぬ権利はあるらしい。俺はこの唯一の完全な共通点に、長年憧れてきたんだ」


 透が下を向いたのが分かった。死に憧れる酔狂な人魚の思考が、純粋な人間の透に理解できなくても仕方ない。


「だがな、あいにく俺は自分の血を舐めちまった。不老不死の身だ。そうなると、もう簡単には死ねない。なんたって不死だからな。だから間守りに殺して貰おうと考えた。確実に命を絶つ方法がそれしかなかった」


 俺は、初めて間守りの存在を知ったときの感動を思い出した。長年人間に紛れ、人魚との親交も少ないまま生きてきた俺は、間から来たモノが皆、幼い頃から恐怖の対象として知っている間守りを知らなかった。あのときは、本当に歓声をあげそうになった。俺を殺してくれるやつがいる。そう分かっただけで、僅かな希望が見えた気がした。


「依頼料は安かなかったさ。だが、そのために金を貯めるのは、全く苦痛じゃなかった。飲まず食わずでも死なないんでね、金はあっさり貯まったよ。で、折角の依頼だ、腕のいいやつをと思って、組織にそう頼んだら、お前が来た」


 俺は再び透の方に向き直って、その顔を見上げた。


「初めは、お前とも大した関わりを持たずに、大人しく殺されるつもりだったんだぜ。でもな、お前と喋るのが、俺は嫌いじゃない。そのうち、お前のために(・・・・・・)殺されてやってもいい、と思えるようになったんだ」


 俺の視線からは、透の手がよく見えた。硬く握り締められたその細い手は、力が入りすぎて震えている。そのせいで、ただでさえ白い手が余計に白くなっていた。俺はそれを目の端に捉えながら、透の顔をじっと見据える。


「俺を殺せなけりゃ、お前は間守りとして生きていけない。ちょっとした試験だとでも思えばいい。簡単なことだ。これまで何度もやってきたんだろう」


 俺は片脚のスウェットを、膝までまくりあげた。人間のものでも、人魚のものでもない脚が、青い鱗の浮いた異様な形で露わになる。嫌という程何度も見てきた、醜い脚だった。


「気持ち悪い脚だよな。俺もそう思うさ。さっさとおさらばしたいところだね。幽霊は脚がないんだ、死ねばこれともお別れできる」


 俺は透の腕を掴んだ。同時に、まるで現実から目を背けるように、透が目を硬く閉ざす。


「これで俺が半人魚だという証明も、俺を殺す理由も完璧だ。依頼された通り人魚を殺した、それだけだろう。……ああ、金は前払いしておいたから、心配しなくていいぜ」


 俺はもう一度、透に頼む。


「頼むよ、透。早く、俺を泡にしてくれ」


 沈黙が流れる。俺は透の顔から目を逸らさなかった。


 しばらくして、透が絞り出すように言った。


「……京介君は、本当にずるいよ」


 俺は当然だ、と頷く。


「人魚なんてそんなものだ。自分の目的のためなら、どんな手段でも使う。アンデルセンの人魚姫なんていい例だろう」


「京介君の方が、ずっとタチが悪い」


「そいつは光栄だな。生粋人魚のお姫様なんかと一緒にされちゃ困る」


「……そうだね」


 透はそっと目を開けた。


「何か、僕に頼むことはある?」


「そこの水槽の魚の世話くらいだな。あとは……ああ、そうだ。俺が泡になったら、できたらでいい、盥にでも入れて、消える前にそこらへんの海にこぼしてくれ。下水道を流れるのはごめんだな」


 透は頷いた。


 俺はようやく透の腕を離すと、車椅子の背もたれに体重を預けた。


「間違っても、俺の血を舐めるなよ。お前はいいやつだからな、不老不死は似合わない。そういうのは、欲にまみれた科学者か、とんでもない悪役の仕事だ」


 俺はそう言って目を閉じた。


「じゃあ、よろしく頼む」





 *





 俺は水族館が好きだった。演出された静寂の中で、ひたすら魚を眺めるのが好きだった。


 だが、正直なことを言えば、自由に泳ぐ魚の姿に憧れていた。俺もああして泳いでみたいと思った。脚が使えない俺からすれば、あの狭い柱状水槽の中を泳ぎ回るつまらない魚たちの生涯さえ、輝かしく見えた。


 水族を見るとき、俺は『完全な人魚だったらよかった』と、何度か思うことがあった。しかし、半人魚でもよかったのではないかと、今では少しだけ思うこともできる。


 完全な人魚として透に会っていたら、おそらく初めから敵対していたに違いない。半人魚として生まれてよかったことなど、片手で数えられるほどしかないが、それでもなかったわけではないのだと、安心できる。


 ……まあ、今さらこんなことを考えても仕方がない。この思考を誰が覗くわけでもないし、アンデルセンの人魚姫によれば、人魚は生まれ変わらない。泡になって共に消えるまでだ。


 だが、もし人間の特性が濃く出て、生まれ変われるとしたら、今度は脚を存分に使える生物になることが夢だ。今度は間違っても血は舐めないようにして、普通に死を迎えよう。万に一つもない、もしもの話だが。

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