マグロ先輩「さよならだ」
水が冷たくなっていることを光沢があるその肌で感じていた。
周りを見渡せば魚がいた。それこそ数えきれない種類の、数えきれない数の魚達が悠々自適に泳いでいた。少し群れから離れて勢いをつけ、群れからハグレていた一匹のサバを勢いよく口へと捉える。そして自分がいまのサバの二の舞いにならないように、急いで自分の群れへと戻る。
獲物を捉えた満足感を得ながら群れへ戻るが先輩はいつものように俺のことを褒めてはくれなかった。ただ群れの前方を見つめ、一心不乱に泳ぎ続けるのみだ。
思えばこの海域に入ってから群れの様子はおかしかった。何匹かのマグロは何かに備えるようにピリピリと気を張り、自分を含む他のマグロたちは餌の多さに完全に浮かれていた
先輩は前者だった。まるで何かに警戒するように辺りに気を張り巡らせているのが遠くからでもわかる。
先輩たちは何をそんなに警戒しているのだろうか。たまに視界の端を通るサメのことか? 確かに一度襲いかかってきたことがあったが、大した損害にはならなかった。それともこの後の産卵のことでも考えているのだろうか?
いくら考えても答えはでない。僕は群れの中を掻い潜り、先輩の方に近寄った。
「先輩。どうしてそんなにピリピリしてるんですか?」
僕の問いに先輩は、
「なんでもないよ。気にすんな」
そっけなくそう返すのだった。どうして教えてくれないんだろう。
「ああああああああああああああああああああああ」
少し遠くで名前も知らないアホな魚が奇声を発しながら釣り上げられた。水上では泡を吹き出しながら1つの影が遠くへと向かっていく。
嫌な気配はしていた。嫌な予感がしていた。
不吉なことが起こると、どこかで予想はできていた。
なのに、僕は、どうしても
それを見てみぬ振りをしようとしていたのだ。
気づかないでいようと、したのだ。
大きな音が、大きな振動が、波となって僕達に襲いかかってきた。
一瞬、視界が真っ暗になった。慌てて目を必至に開けてみると、群れは散り散りになっている。何が起こっていたのか、まったくわからなかったけれど、
目の前にある巨大な網が、僕と先輩のことを隔てていることだけは分かった。
「先輩! マグロ先輩!」
僕は必至に先輩に呼びかける。先輩は僕のことを向こうとせず、尾と背ビレを見せながら僕に言葉を返してくれる。
「よかったぜ。お前だけは守れたみたいだ」
「何言ってるんですか先輩! それよりもこれはいったい……」
「これは……巻き網漁だ!」
「巻き網漁!?!?!?」
「ああ。大型の網を繋いだ2隻の船で魚の群れごと網で囲んで獲っちまう、釣りとは比べ物にならないほどの恐ろしい漁だ」
「そんな……! 先輩、今助けに行きます!」
「来るんじゃねぇ!!!」
先輩を囲む大きな網に向かって突撃しようとする。そんな僕に、先輩は怒声で返してきた。
「さっきも言っただろ。お前『だけ』は守れたって」
僕はその先輩の言葉に、あることを察してしまった。さっき僕が意識を失った一瞬。きっと先輩は僕のことを押してくれたんだ。僕のことを巻き網漁から助けるために。
「先輩……なんで僕のことを……。僕のことを放っておけば、先輩は助かったんじゃないんですか……?」
僕の言葉に、先輩は照れくさそうに背びれを揺らしながら、それでいて優しい声を僕に返してくれる。
「お前を守れてよかった」
先輩の言葉に、僕は余計にムキになる。尊敬していた先輩が危険を犯してまで僕のことを救ってくれたんだ。
「さあ、早く逃げな。俺達が捕まっている間はここは平和なはずだ」
「僕、先輩がいたからここまで来れたんですよ! 何も知らない僕に色んなことを教えてくれたのは先輩じゃないですか! そんな先輩をおいて、一人で逃げるなんて……」
できるわけ、ないじゃないですか。
そう言いたかったのに。僕の喉からは言葉が出てこなかった。
胸の中を埋め尽くしている感情が、悲しさなのか、それとも後悔なのか。僕にはわからなかった。
だってマグロだし。
「そうだな。お前は何にも知らなかった。でも、今は違うだろう?」
「お前はたくさん知ったじゃないか。カツオが泳ぐことが早いことも知ったよな? 目の前に餌が突然現れても、食いついちゃいけないって知ったよな?」
「今度は、お前が教えてやる番じゃないのか?」
先輩の言葉に、僕はなんて言葉を返していいのかわからなかった。
僕にはまだ無理です。
先輩がいないとダメなんです。
僕一人でどうすればいいっていうんですか。
どんなに必死に考えた言葉も、違う気がした。
「さよならだ」
僕の答えを待たないで、先輩を囲んでいた網は徐々に引き上げられていく。
僕は目の前で引き上げられていく網を
なにもしないで、ただそこで見送ることしかできなかった。
眠いので今日はねます。