9 おしのは故郷を思い出した (幕間)
私が15歳になった誕生日のことだった。家族から背を押されて前に出た。そこで、嫁を受け取りに馬車で村に乗りつけた夫がいた。私は、夫の顔をちらっとみて、すぐに下を向いた。恥ずかしがるふりをして逃げ出した。裏山の奥に行って、茂みをみつけてそこで嘔吐した。胃の中には、ろくなものが入っていなかったが、それでも嘔吐は長い間続いた。その日、夫の馬車に乗せられて、オンドレの町に向かう間も、私はずっと青い顔をしていたが、それがそのときの拒絶感からくるものか、馬車の揺れによるものか、おそらく両方だったのだろう。
私の村は貧しかった。土地はやせ、税は高かった。魔物が襲ってくることも多かったから、耕せない田畑もかなりあった。食物庫が荒されることもあった。
村では、男の子たちはびっくりするくらい簡単に死んだ。男の身体は、肉を溜めておくことができない。全てを力に変えて、すぐに使い切ってしまうのだ。特に子供は弱い。幼いころから、飢えた冬が終わるたびに、死んだ子たちの数を数えたものだ。ときおり魔物が出て、迎え撃つ男たちは、何人も殺されていった。男というのは、弱くてすぐに死んでしまうものだということを、私たちは経験上知っていた。そんな男に恋愛とか、そういう軽い気持ちが生まれるはずはなかった。
女の値段は安かった。笑ってしまうほど簡単にあっちの村からこっちの村に、こっちからあっちに貰われていった。それをみて、不幸だとも不当だとも思わなかった。どこにいても同じ生活だった。
だから、私は男には何も期待していなかった。どうでもよかったのではない。良い男と悪い男の区別が村にはなかった。あるのは、運がよかったか悪かったかだけの違いだった。運の悪かった男は死んでいった。
だから、夫に対しても、生理的に受け付けないという意味で嘔吐したのではなかった。それに夫は当時もう50歳近かったはずだが、町の人間だけあって、やせこけた私たちの目には信じられないほどに肉付きよく見えた。着ているものも小奇麗で、泥で汚れてもなく、破れてもいなかった。お話に出てくる王様のように裕福にみえた。
受け付けなかったのは、現実だった。自分で選べない。今まで当たり前だと思っていた現実を初めて認識した。世の中が勝手に人間を動かしている。
うちの村は、オンドレの町の大きな商家と太い取引がずっとあった。対等な関係ではあるけど、助けられることが多くて、色々と頭があがらなかった。そんなとき、商家の3男坊が嫁を探しているという話が来て、多額の礼金を示されて、私が嫁ぐことになった。
いい条件だとは思わない。そんな大きな商家の息子が、こんな村から嫁を貰うということは、何か人間として問題があるんだろう。それは分かっていた。そういうことではなくて、村とか商家とか、そういう自分の上にある大きな存在のちょっとした思い付きで、自分という身が転がされるという現実が死ぬほど不快だった。
夫は、商家のできそこないだった。援助を受けて色々事業をしたが、全て失敗したと後日噂に聞いた。どこかに女に産ませた子供がいるとも聞いた。商家もほぼ見放していて、夫に宿屋を買ってやって、嫁を世話して、それを最後に縁を切るという状態だったらしい。
夫は、宿屋の亭主という仕事を心のそこから馬鹿にしていた。そんな仕事をしている自分を認めたくなかったから、いつも厨房に籠もっていた。お客さんの注文を聞くのも、給仕するのもお金を受け取るのも、全て私がやらなくてはならなかった。
夫はほとんどまともに料理をすることもできず、する気もなかったから、私が夜遅くまで下ごしらえをして、煮たり焼いたりすればすむように準備しなくてはならなかった。夫は、客の食べた皿に手を触れることは決してなかったから、お皿洗いも私の仕事だった。朝は早くからご飯を炊く仕事もあった。昼間は客室の掃除もしなくてはならなかった。
仕入れは夫の好きな仕事だった。お気に入りの出入りの業者を作って、注文をとりにこさせ、配達もさせていた。その分高くついたが、それでもお気に入りの業者だった。その業者は、ときおり夫を売春宿に連れて行ってたらしいが、私はそんなことはどうでもよかった。
生きている。それだけが大切だった。
私はお人形になろうと思った。お客さんには笑顔を絶やさず、近所の人とは仲良くした。お人形だったから、夫は私にすぐに飽きた。宿屋の仕事をさせられるだけの給料のない使用人のようなものだったが、全然構わなかった。
それから7年が過ぎた。
メンデス・池君が店の扉を開いて入ってきた。7年前の私ではないかと思った。
口先では中身のないことを喋る子だったが、心の中では深く考えている子だと思った。この町の人間も、村の人間も、生かされているだけ。運命を受け入れることに何も疑問を持っていない。でも私は、違う。運命は受け入れるけど、それに納得しない。ずっとそのことに腹を立てている。池君は、運命というものから自由に見えた。どんな世界でも、自分の道を探そうとする意思を感じた。私には外せなかった、人生の枷と闘う静かな気迫をたたえていた。
びっくりするほど綺麗な顔をした子だったけど、顔とかは関係なかった。
子供だと思ってたけど、お湯を持っていったときに見てしまった。大人の身体だった。村では男の半裸くらい、いくらでも見てたけど、こういうところで見ると、ドキドキした。目が離せなかった。
池君がいると、ずっと目で追ってしまう。どんどん気になってしまう。町兵と話していたのを聞いていて、すごい子だと思った。
まだ出会って一日も経ってないのに、私はどうしてしまったんだろう。
私は大人だ。池君はまだまだ若い。池君の人生は池君のものだ。私が勝手にその人生の上に私という存在ごと乗っかっていいはずがない。亭主がいるから、池君に嫌な思いをさせたり、迷惑を掛けたりすることになる。
池君に晩御飯は何を勧めようかって、その日の午後はずっと考えてた。それなのに、池君は用事ができたって、ちょっと顔を出してそれだけ言って、すぐに出かけてしまった。もうお友達ができたんだろうか。女の子かな。ティナちゃんかな。
遅くなっても帰ってこない。ずっと待ってたから、帰ってきたときには少し絡んでしまった。池君はお仕事の話をしていたらしい。でも香水の匂いもする。私は混乱してしまう。
なんか難しい話をしている池君の横顔が素敵だ。私は、池君が好きだ。私はお人形じゃない。
そのあと、嫌なことがあった。亭主が池君にとても失礼なことを言った。自分のことを言われたかのようにかっとした。申し訳なくて池君の顔を見ることができなかった。明日、ちゃんと謝ろうと思った。
朝の忙しい時間帯が終わった。ずっと気になっていたのに、池君は降りてこない。朝ごはんを持っていってあげようと思った。カウンターで手早くサンドウィッチを作って、池君の部屋に行った。いない。
夫に聞いてみた。厨房で座って、私が下ごしらえした串カツを勝手に焼いて食べていた。腹の立つことに、クズ肉を使った見栄えのしない串カツは残している。
「あいつか。昨日の夜、黙って出て行ったぜ。」
昨日の夜!なんでそんな大事なことをこのアホは黙っていたんだろう。何か事件にあっていたらどうするのか。
「どうでもいいだろ。あいつ、15歳なんだろ。子供じゃないんだから、勝手に外に出て勝手に死んでも俺の知ったことじゃねえさ。出て行くあいつが悪い。お前こそなんであいつのことそんなに気にしてるんだ。気があるのか。」
たしかに池君がすごく気になってる。亭主もそれを疑っていると思う。でも、やましいことは全然していない。いまはまだ何もしていない。こういうときは、強気に出るしかない。
「商工会議所から回して貰ったお客さんなのよ!何かあったらどう報告するの。子供を放り出したって言われたら、私が恥ずかしくて外を歩けないでしょ!ちょっと探してくるから。」