まだ始まりを知らない。
高校生なんてもはや遠い彼方の存在なやつが書いています。
12月14日
智樹恵美が学校出てすぐの自販機で甘い缶コーヒーを買っていると、遠くからひょろっとした奴が走ってくるのが見えた。
説明を省いて要点だけを記述すれば、蔵前大介は運動音痴である。
「よう!智樹。…川畑は?」
たかが数十メートル走っただけで息が上がっているくせに、偶然を装った体で大介が話しかけてくる。
ちょっとイラッとしたけれど、手に持った缶コーヒーで暖をとりながら恵美は「バイト」と短く答える。恵美の親友・川畑シズカはバイトの鬼なのだ。
「マジで!?智樹がいるから、まだいるかと思ったのに…」
「残念だったね」
大介は露骨に落胆するが、すぐに気を取り直し、カバンから封筒を取り出した。
「そういやコレいるか?」
「なんだっけ、それ…ああ、ランドの」
大介がクリスマスにシズカを誘おうとして用意したが、シズカがバイトだったために断念した因縁のチケットだ。
「いらないの?かなりレアなんじゃなかったっけ?」
「おう。なんでも世界に先駆けて日本で初めてやるイベントがあるらしくて、それを特等席で見れるって特典もあるからな。すげえ倍率の抽選で50名ペアだけ!」
「へえ~。…じゃあ売れば?」
「友達に頼んでゲットしてもらった手前、それもなんかなあ…」
「ふうん。大介のためなんかに奇特な人もいるもんだ」
「んだよ、その言い方…」
「別に、深い意味は無いよ。ん~、でもペアかあ…」
「なんだよ。家庭教師のあんちゃん誘わねえの?」
大介が不思議そうに首を傾げると、即座に頭の両側をガシッと掴まれ、恵美にタテに戻された。それでも恵美の腕の力は緩むことなく、チリチリと大介の頭蓋骨を圧迫する。
「あああああの…智樹さん?いたいたいたいいたい…」
「てめえが、なぜ知っている?」
「口調が変わっている!?」
「なんでお~ま~え~が~……!!!」
後に、大介がブログで『般若を見た』と書いた瞬間である。
「いやいやいや…あなたたちの口からですから!教室とか廊下とかけっこうな大声でやばげなことけっこう言ってますから!!!」
必死で泣きごとを言う大介から恵美が手を放す。
そして直後に「あっ」と言って舌打ちする。舌打ちの声にビビって、大介が両の頬を押さえて後ずさる。
「耳をむしり取ればよかった」
恵美がボソリ、と言う。
「発想が怖い!!」
「…まあ、なんだ。聞こえてても、聞こえないふりしろよ、ってことだよ」
「ああ、うん。はいはい。分かった。文字通り、骨身に染みました!」
キレイな姿勢で大介が敬礼した。
「まあ、とりあえず、これはもらっとく。あんがと」
「イエッ、サー」
「そのノリやめい!」
恵美が怒ると、大介は、えへへ、となよっちく笑った。
「まったく…。ん…?」
不機嫌そうに腕組みをしていた恵美が、一転して落ち着きを無くしてキョロキョロと辺りを見回し始めた。
さしもの大介も異変に気付いた。
「どうした?」
「ん。いや、気のせいかな。なんか見られていたような…?」
頼りなげに眼を伏せて、恵美は考え込むようにうつむく。
「見られてるって…、誰に?」
大介もつられるように辺りを窺う。しかし、それらしい人物は見当たらない。まばらだが下校中の生徒もいるし、団地などの集合住宅も多い一帯だけあって、通行人も少なくない。
「気のせいじゃないのか?」
「うん。多分」
そう言って恵美は笑うが、瞳の奥が表情に追い付いていない。
「…しょうがねえなあ。家には誰かいるの?」
「うん。家政婦の琴子さんは、多分」
「じゃあ、家まで送って行くよ」
「え?いいよ、別に」
「遠慮すんなよ。…それに、智樹放っておいたら俺が川畑に怒られそうだし」
大介はブスっとした表情で言う。
しばし、二人はにらめっこしたが、恵美が折れた。
大きなため息とともに、苦々しげに告げる。
「まあ、頼りにならなそうだけど…おとりか盾ぐらいにはなるかな?」
「うわ、ひっでえ」
大介が苦笑して前髪をかきあげる。
ただそれだけで、漠然とした不安は消えて、恵美の日常が戻ってくる。
しかし、ひたひたと確実に「非日常」が背後に近づいていることを、二人はまだ知らない。