0と1について知る必要がある。 そのⅦ
悠紀は、その場でしばらく立ちすくんでいた。
その目線は先程までリムが倒れていた場所だ。そのリムは、今はもうそこにはいない。自分の中にいる。
悠紀は、瞑っていた右目を、ゆっくりと開いた。反動で、堪えていた涙が零れた。
開いた右目は、黒い左目とは違う、赤く燃えるような色をしていた。
零れた涙を拭って、右目に眼帯を付け直す。
今まで、散々この右目を使ってきた。その度に、怒りをぶちまけた後のような、気持ちの整理がついた感覚がしていたが、今回は違う。
悲しい。その感情が、ただ自分を染め上げていく。
「…ボクは、やっぱり駄目だね」
大切なものをまた一つ、失った。
それでも、そんな自分でも、傍に居てくれる人はいる。
だから、そんな人達を守るために、そして自分を王で居させてくれる、この国を守るために、この右目は使われなければ。
「…帰ろうか、リム」
いつも笑いが絶えなかった空間に。
「右目…って、それ説明になってません」
朔が眉をひそめる。継はそんな朔に首を振った。
「貴方は何も知らない。…悠紀は右目に眼帯をしていますよね?」
「はい。…目が、悪いとか?何か初対面でそういうことは訊けなくて。失礼かと」
継が窓の外をふと見る。大分時間が経った。悠紀は、今頃苦しんでいるだろうか。
「あの眼帯は、力を封じる為に着けているのです。…貴方の知っている世界を表とすると、裏の世界では常に争いが絶えない。その為、能力者達が動員されます。その力は大抵『魔力』と呼びますが、あの右目は、その『魔力』の固まりです」
朔は混乱したように首を傾げる。
―――何だか、話がかなりファンタジックにきこえるのは気のせいだろうか。
「普段は右目の力は使いません。その力は膨大で、解放すると他国から苦情がくるので。…大抵は私の力を操作したりします」
「膨大な…力?」
「ええ。あの右目は人の心、思考、記憶に入り込み、語りかけることが出来ます。また、見たものを触れずに変形させることが出来る。解放時は指鳴らしで火が自在に操れますし…」
「ああー!もういいです!ありがとうございます」
永遠と続きそうな継を遮った。
「つまり、その力で凪沢先輩を味方にしたと?」
「いいえ、右目を使ったのは彼の心を読むためです。行動予測をし、攻撃を回避するために」
継は一口、再びお茶を飲む。その行動一つでさえ、美しい。そういえば、麒麟はこの世で一番美しい動物だったような。
「…まだ何か、聞きたいことはありますか?」
朔はこくり、と喉を鳴らした。
そして、継を見つめた。その瞳の奥を覗くように。
「僕が狙われている理由を教えて下さい」
悠紀は、微かにする血の臭いに顔をしかめた。その臭いは目の前の扉の向こうからする。
扉は様々な宝石で彩られており、いつみても趣味が悪い、と思う。デザイナーの問題というより、デザインさせた人間の問題だなこれ。
不快に思いつつ、扉を開けると血の臭いは一層増した。原因は大体わかっている。
「徹」
悠紀が名前を呼ぶと、息を呑んだ音がした。
「いるんでしょ。怒らないから出てきて」
優しく言えば、キィと音を立てて奥の部屋の扉が開いた。
「…ごめ、…申し訳、あり…、ま…せん悠紀様」
血まみれの徹が、その場で膝を着いた。その姿に、悠紀はふう、と息を吐き出す。
「怒らない、って言ったでしょ。ほら、立って。後始末をボクにやらせる気?」
最後の言葉に徹が慌てて立ち上がる。
「すみません…」
「いつまで謝ってるの。その口調、慣れないからいつも通りにして。あとその制服、なんで着替えないの。新しいの買わなきゃいけないでしょ」
悠紀の言葉がいちいち胸に刺さり、ダメージを受ける。
徹の怒りは、他人の血を見ることで収まる。だから普段滅多に怒らない。
他人の血を見るために、自分の性格を変えてでも他人を傷つけようとする。あくまで、冷静に、自分の利益になるように。
今回は、悠紀の為に情報を引き出そうとした。決して意識したわけじゃない。ただ確実にそれをやったのは徹自身だ。
先程までいた部屋に戻ると、血まみれになった少女が手足を縛られ座らされていた。これをやったのも、徹。
悠紀が、少女に駆け寄り、声をかける。
「おーい…生きてる?えーっと、永嶋…閑だっけ?」
悠紀がつんつん、とその身体をつつくと閉じられていた目が薄く開いた。
「あ、生きてる。徹ー!生きてるよ」
悠紀があまりにもいつも通り、無邪気だから、くす、と笑ってしまう。こんな状況なのに。こんな自分を、嫌わないで居てくれるのはこの人だけ。
閑の瞳が部屋を彷徨い、目の前の悠紀に焦点が合った瞬間、目が大きく開かれた。
「鐶国…国王、仲里悠紀…!」
叫び、何とか傷をつけようと身を乗り出した閑を難無く避けて、悠紀はしみじみ呟いた。
「これだけやられてまだ叫ぶ力が残ってるんだ。狼って凄いね」
やっぱり生命力が違うのかなぁ、などと呟いている悠紀に、徹はため息をつく。まるで緊張感が足りない。いくら縛られているとはいえ、いつでも攻撃される範囲にいる悠紀は、とてつもなく無防備に感じられる。
だが、その余裕が何であるか、知っている。知っているからこそ、悠紀を遠ざけたい。
こんなやつの為に、力を使って欲しくない。
「悠紀、」
「徹、この子治せる?」
咎めようとしたところにとんでもない言葉で遮られた。
「は…!?」
「だから。この子治せる?って訊いたの」
治せる。悠紀から貰った、臣下として最低限の力は攻撃ではなく防御だった。
攻撃が最大の防御なら、逆もしかりかな?っと思って、っと言って笑った悠紀の顔は、今でも忘れられないほどあっけからんとしていた。
だから、治せる。治せる…のだが。
「本当はリムも治して欲しかったんだけど、彼が嫌がるから今この中にいるんだ」
自分の胸を指して痛々しく笑う。
「その子、何も知らない、って言ったんでしょう?それだけ傷つけても。それだけ主を信頼してるか、本当に知らないだけか。さっき覗いたら本当に知らないみたいだったし」
徹が顔を歪める。やはり、力を使っていたのか。
「彼女を、帰してあげたいんだ」
「…むやみに殺すつもりはない。だが…またお前を狙うことになったら」
自分の手を見つめる。まだ、血が付いた……いや、もう昔からこの手にはたくさんの血が染み付いている。
「お前に逆らうかもしれない」
「わかってる。…大丈夫、その時はまたボクが止めてあげる。それに、彼女には露国に帰って彼に伝言を頼みたいんだ」
それまで黙っていた閑がきっ、と顔を上げる。
悠紀は反抗的な閑にふわっと笑う。とても敵に対する態度でなく、本当に優しく。
「伝えてくれる?『今度会ったらお茶でも飲もう』って」
閑の顔が訝しいものに変わる。だが、徹はその言葉の意味を知っていた。
悠紀は、本気だ。
「徹、治して」
悠紀に言われ、徹は彼女に近づく。
そして、傷口にそっと触れた。
撫でるように肌の上を辿ると、痛々しい傷は本当にあったのかと思うほど綺麗に治る。
「…あなた」
「申し訳ない、とは言わない。ただ、治すことで俺の気持ちとさせてくれ」
徹はゆっくりと立ち上がる。
「…悠紀、雷を迎えに行ってくる」
「行ってらっしゃい。気をつけてね」
まるで何もなかったかのように言葉を交わして、徹は部屋を出て行った。
本当は徹は迎えに行ったわけじゃない。今はまだ、夕方。雷が帰ってくるのには最低でもあと三時間はある。
「…彼は、亜国の」
閑の声に、そちらを向くと、悠紀はにっこり笑いかける。
「知らない方が、身のためだよ」
言葉を遮り、さて、と悠紀は縛っているものに手をかけた。
「伝言、ちゃんとよろしくね。ボクは約束を守らない子には容赦しないんだ」
優しい口調なのに、何故かひやりとした。刃物を突き付けられたような、感覚。
「…はい、出来た。じゃあ、露国まで道中気をつけてね。」