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7.桜の木の下で


 夜の空気が、肌に冷たくまとわりつく。

 俺は無意識に家を飛び出していた。


 全てを、思い出してしまった――

 あの日のこと。

 父が壊れていった理由。

 母が病に倒れ、息を引き取った日。

 そして、俺が……あの日…あの公園で…。


(……どうして……)


 自分の手が震えていた。

 走る足は重く、呼吸は浅くて苦しかった。

 それでも止まれなかった。


 行く先は、桜崎公園。

 この物語の終わりを迎えなければならない場所。

 今日ここへ来るように、ゆりにはすでにLINEで呼び出しをしていた。

「桜の木の下で待ってる。」

 それだけを送った俺に、ゆりは「分かった」とだけ返してきた。


 まだ来るには時間がある。

 俺はひと足先に、桜の木の下に到着した。


 月明かりに照らされたその木は、散春の花こそなかったが、どこか静かで、そして――懐かしかった。


(桜が散り始めている……あの写真とは少し違っている桜……)


 夜の桜は、昼間とは違う顔を見せていた。

 静かで、淡く、どこか切なく――美しかった。


 俺は一人、桜の木の下に立っていた。

 記憶がすべて戻った今、ここに来るしかなかった。

 ここで、ゆりにすべてを話すつもりだった。


 ……でも、その前に現れたのは――


「……やっぱりここにいたんだな」


 背後から聞こえたその声に、体が凍りついた。

 

 振り返ると、そこにいたのは――渡辺薫だった。


 制服のまま、息を荒げて。

 そして、右手には……ナイフが握られていた。


 優斗「薫……?」

 薫「ゆりは俺の女だ…!!」


 薫の目は真っ赤で、涙さえ浮かべていた。

 だがその手は、確かに俺を傷つけようとしていた。


 優斗「薫……やめろ」


 薫「テメェだけはゆるさねぇ!!!よくも俺の女を!!」


 叫んだその瞬間、薫が飛びかかってきた。

 俺は咄嗟に身を引き、地面に倒れ込む。

 桜の花びらが、舞った。


 優斗「復讐して……何が残るんだよ!!」


 俺の声が、夜の公園に響いた。


 優斗「俺は……俺は、間違ってた。

 ゆりを傷つけて、取り返しのつかないことをした。

 でも、だからこそ、俺はそれを償いたいって思ってるんだ」


 薫の動きが、わずかに止まった。


 優斗「復讐なんかじゃ、何も報われない。

 俺は……もう二度と、誰も傷つけたくないんだ……!」


 沈黙が訪れる。


 風が吹き、桜の枝が揺れた。


 薫はその場に立ち尽くし、ナイフを握る手を震わせながら、目を伏せた。


 薫「……それでも、俺は……お前を……!」


 殺される…そう確信した。


 次の瞬間、静かに、足音が近づいてきた――


「動くな!!」


 鋭い怒声とともに、薫の腕が後ろから力強く捻じ上げられた。


「なっ――!?」


「警察だ。ナイフを捨てろ!」


 男の声と共に、薫の身体は地面に押さえつけられる。

 手からナイフが離れ、カラン、と音を立てて落ちた。


 

 取り押さえた男は――


 あの桜の木の下で出会った刑事さんだった。


「……あなたは」


「すまなかったね、優斗くん。張ってたんだ、君を」


 彼は薫の腕に手錠をかけた。


「……離せっ!!なんで、おれが……!」


 薫はなおも抵抗を見せるが、男は静かに言った。


「君の気持ちは、わからないとは言わない。

 でも、その怒りを人にぶつけた時点で、もう正義じゃないんだよ」

 その言葉は俺の心に刺さった。

 俺は立ち上がり刑事に伝える。

 

 

 

「俺がゆりを突き落としました。」















 刑事は、応援を呼び他の警官に薫を預けた。そしてゆっくりと俺のそばに来た。


「優斗くん。……少し、話をしよう」


 夜風が吹き抜ける。

 桜の木が、静かに揺れていた。


 ――その花の下で、俺は、刑事に自分の罪を話した。


 静かだった。


 風が吹いて、花がひとひら、地面に落ちた。


 刑事はしばらく黙って俺を見ていたが、やがてポケットから小型の無線を取り出しかけた。


「正直に話してくれてありがとう。……だが、これはもう、俺の裁量ではどうにもならない」


「……はい」


 俺は静かに頷いた。

 もう逃げるつもりなんて、ない。


 だがその瞬間――


「やめてくださいっ!」


 息を切らし、車椅子を押して現れたのは、ゆりだった。


 刑事と俺、両方の視線が彼女に向けられる。


 刑事は驚いた表情を見せたが、ゆりの真剣なまなざしを見て、少しだけため息をついた。


「10分。それ以上は、待てない」


「ありがとうございます。刑事さん。」


 刑事が少し離れた場所へ移動し、背を向けた。


 













 桜の木の下、終わりかけの春の風が吹いた。


「……ゆり」


 桜の木の下で、俺は静かに口を開いた。


「――ごめん」


 その言葉は、まるで喉に刺さった棘を抜くようだった。


「全部、俺がやった。お前を、あの階段から……突き落としたのは、俺だ」


 ゆりは黙って俺を見つめていた。逃げ場なんてなかった。だから俺は、すべてを語るしかなかった。


「事件の日……俺はお前を尾行して、階段の前で立ち止まったお前の背中を……押した」

──あの日の記憶が、鮮やかに蘇る。


 桜が咲く前の、冷たい午後だった。


 俺はいつものように、白い封筒をポケットに入れたまま桜崎公園を歩いていた。

 ゆりの姿を見つけたのは、あの石段の上だった。制服のスカートが風に揺れていた。


 俺の胸の中には、怒りと悲しみが渦巻いていた。

 “神田誠司の大事なものを奪え”──

 その言葉が、頭の奥にこびりついていた。


 気づけば、背中に手を伸ばしていた。


 次の瞬間、ゆりの身体は重力に引かれ、階段を転がり落ちていった。


 

 怖くなり逃げ出した。

 道路を飛び出した瞬間。俺の視界は暗転した。


 あの瞬間、自分が何をしたのか、ようやく理解した。


 でも同時に、強く頭を打った俺自身も、そこで記憶を失った。


──それが、真実だった。


「……全部、俺のせいなんだ。謝って許されることじゃないのは分かってる。……でも……謝りたい。」


 震える声で、心の底から、俺は何度も頭を下げた。


「ごめん……ごめん……本当に……!」


 やっとわかった…。

 ゆりのことを考えるとずっと胸がざわつく。

 これは恋心だと思っていたけど違う。


 これは罪悪感だ。

 ゆりという人間を知ろうともせず命を奪おうとしたこと


 取り戻した記憶、ゆりの言葉、そして、あの日の自分。

 どれもが鋭利に心をえぐっていた


「私ね、気づいてた。犯人が、優斗くんだって」


「……え……?」


「突き落とされた瞬間……あのミサンガが見えたの。

 だから優斗に“ミサンガ見せてもらった時確信しちゃった。」


「じゃあ、どうして……」


 ゆりの目に、涙が浮かんだ。


 その唇が、微かに震えながら、ぽつりと言葉を紡いだ。

「……私ね、あの日、あの場所で突き落とされた時……」

 少し間を置いて、続ける。


「初めて、“生きたい”って思ったんだよ」


「……え?」


「それまでは、ずっと死にたいって思ってた。

 家庭も苦しくて、誰にも言えなくて、孤独で……

 もう、全部やめようって思ってた」


「でも、あの瞬間――落ちる瞬間に、“怖い”って感じた。

 “死にたくない”って、心から思った」

 

 俺の胸が、締めつけられるように痛くなった。


「……ごめん」


「もう謝らないで」


 ゆりは、そっと俺の頬に手を添えた。


「だって、あの日死ななかったおかげで、

 こうしてあなたと出会えたから」


 俺は何も言えなかった。ただ、泣きたかった。

「だからね、優斗くん。あなたが背負ったもの、私も一緒に背負いたい。

 苦しいことも、全部、分け合っていけると思ってる」

 

 涙がこぼれた。俺のも、ゆりのも。


「当時の俺は、ゆりという“人間”を何も知らなかった。

 ただ、“神田誠司の娘”という存在としてしか見てなかった」


「……」


「でも、それでも……やっていいことじゃなかった。

 人として、絶対に越えてはいけない一線だった」


 ゆりは静かに、俺の言葉を受け止めてくれていた。


「だけど今は違う。……お前が、どれだけ優しくて、

 どれだけ苦しみながらも前を向こうとしてるか、俺は知ってる」


「……うん」


「だからもう……殺したくない。

 生きていてほしい。幸せになってほしいって、本気で思ってる」



 俺は拳を握りしめた。


「今は……ただゆりに触れたい。心から、そう思えるんだ」


 

 そしてゆりがそっと俺に、短く、でも深いキスをくれた。


「ちゃんと償っておいで。待ってるから」


 その言葉を聞きながら、刑事が静かに近づいてきた。


「このミサンガ、ゆりが持ってて。」


 ミサンガを渡し、背を向けて歩き出す。


 そのとき、背中に声が響いた。


 






「優斗くん!」


 振り返ると、ゆりが泣きながら叫んでいた。


「ずっと、ずっと待ってるからね――!」


 桜が、舞っていた。


 俺の背中を押すように。


 その涙と叫びを胸に刻みながら、俺は前へ進んだ。

 過ちを背負って――それでも、未来を信じて。


 

 ゆり、愛してる。




 あれは、まだ入院していた頃のことだった。


 中庭で、本の話をしていたとき。

 夕暮れが近く、風が少し冷たくなってきたころ。


 優斗くんが、ふと、ポケットから何かを取り出した。


「……これ、事故現場で見つけたんだ」


 差し出されたのは、ちぎれたミサンガだった。

 くすんだ赤と青の編み込み。結び目の片方が裂けている。


 どこかで、見たことがある気がした。


 でも、思い出せない――そう思った、そのときだった。


 頭の奥に、あの日の記憶が浮かんだ。


 暗い夜だった。

 私は階段の上にいて、ひとりで立っていた。


 背後に気配を感じ、振り向いたときにはもう遅かった。

 背中に、誰かの手のひらが触れた――その瞬間。


 落ちていく一瞬の中で、私は“それ”を見たのだ。


 赤と青のミサンガ。


 夜の光の中で、確かに手首に巻かれていた。


 その色、その形、その傷んだ結び目――

 優斗くんが持っていたそれと、まったく同じものだった。


 胸が一瞬、締めつけられるように痛んだ。


 優斗くんは、あの日――あの場所にいた。


 いや、それだけじゃない。


 彼が、私を――。


 でも、不思議だった。


 怖くなかった。


 怒りも、なぜか湧かなかった。


 ただ、胸の奥が、静かに痛んだ。

 彼の悲しみが、伝わってくるような気がして。


 その日私は知ってしまった。


 彼は、生きたいと思うきっかけをくれた人

 

 彼が、犯人だったことを。


 彼が、誰よりも優しく苦しんで生きてきた人であることを――。


 私は、そっと微笑んだふりをして、何も言わずにそれを返した。










 あれから一年。


 あの日、彼は自ら罪を認め、警察へと向かった。

 私はその背中を見送ることしかできなかった。


 あの背中は、あの時とは違ってまっすぐで、どこか誇らしくも見えた。


 


 春がまた、やってきた。


 


 今年も桜が咲いた。

 あの桜崎公園の、満開の桜の下。


 


 私は、歩いている。

 もう車椅子じゃない。時間はかかったけれど、私はちゃんと、自分の足でここに立っている。


 青空に咲く桜が、風に揺れていた。


 優斗くんと見た、あの桜。


 泣いたことも、笑ったことも、全部、この桜の下にあった。


 ふと、ポケットに手を入れる。

 中には、あのちぎれたミサンガ。


 今でも大切に持っている。

 彼の優しさの証だから。


 

「……いつかまた一緒に見れたらいいね」


 誰にも聞こえないように、小さくつぶやく。


 彼が戻ってくる日まで、私は生きていく。

 前を向いて。

 歩きながら、待ち続ける。


 


 たとえこの想いが報われなくても、

 たとえ彼が二度と戻ってこなかったとしても――


 私は、待ち続けると決めたのだ。


 


 この桜の木の下で。


 

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