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6.真実


「……あのね」


 いつもの桜崎病院の中庭。

 少し風が強い午後だった。白い花びらが舞い、ゆりの髪を柔らかく揺らしていた。


 彼女は、照れくさそうに笑いながら、俺の方を見た。


「このあいだ、お母さんと……また会ってきたの」


「うん」


「たくさん、おしゃべりしたよ。……なんていうか、あのとき言えなかったことも、ちゃんと話せたの」


 ベンチの背もたれに寄りかかり、ゆりは空を仰いだ。


「私ね、“置いていかれた”ってずっと思ってた。でも、お母さんも、逃げたことを後悔してた。ほんとうは一緒にいたかったって」


 ゆりの声は、どこか晴れやかだった。けれど、心の奥には、まだ少しだけ濁ったものが残っているようにも見えた。


「そっか。……会えてよかったな」


「うん。……でね、今度、両親を会わせることにしたの」


「え?」


「もう一度、みんなでちゃんと向き合わなきゃいけないと思った。……逃げてばかりじゃ、きっと何も変わらないから」


 彼女の言葉には、不思議な重みがあった。

 静かに、それでも確かに、“前に進もう”とする覚悟が滲んでいた。


「私、たぶん歩けるようになると思う。リハビリ、頑張ってるから。でも、それだけじゃなくて……心も、ちゃんと前に進まなきゃって思ったんだ」


 俺はその横顔を、ただじっと見ていた。


 気がつけば、風に乗って、あの桜の香りが流れてきた。


(ゆりは、変わっていく)


 そう思った瞬間、胸の奥に言葉にならない痛みが広がった。


(俺は――)


 その先の想いは、まだ言葉にならなかった。


「……あのさ、ちょっと見せたいものがあるんだ」


 俺はポケットに手を突っ込んで、少し迷ってから、それを取り出した。


 手のひらの上に乗せた、色あせたミサンガ。


 赤と青の細い糸が編まれ、片方がちぎれている。

 事故のあと、公園の階段のそばで拾ったやつだ。


「桜崎公園で見つけたんだ。たぶん……俺のだったと思う」

 ゆりは、そのミサンガを見つめたまま、何も言わなかった。

 ただ、目を少し見開いて、固まったように動かなくなった。


 一瞬、風の音だけが中庭を通り抜けていった。


「……どうした?」


「ううん。なんでもない。……」


 そう言って、ゆりは微笑んだ。








 病院の帰り道、俺はいつものように桜崎公園に足を運んだ。


 もう夕暮れが近い時間だった。

 空はやわらかな茜色に染まり、風に舞う花びらが金色に光って見えた。


 公園の中央にそびえる、大きな桜の木。


 その木の下に立った瞬間――

 ふ、と胸の奥が、温かく、そして少し痛くなった。


 ぼんやりと、けれど確かに。

 その記憶の輪郭が、少しずつ浮かび上がってきていた。


(少しずつ、戻ってきてる……)


 ポケットの中で、あの桜の木の写真を握りしめる。


(この写真……俺にとって、何より大切なものだったんだ)


 風が吹いた。

 顔に髪がかかり、慌ててかきあげたそのとき――

 心のどこかが、ざわざわと騒ぎ出した。


(……ゆり)


 彼女の名前を思い浮かべた瞬間、胸が締めつけられるような感覚に襲われた。


 苦しいわけじゃない。けど、どこか……不安定なものが、心の中でうごめいている。


(なんでだろう。――俺は、神田ゆりという存在を……)

 初めて聞いたときから、どこかひっかかっていた。

 “懐かしさ”とは違う、“親しみ”とも違う、もっと深いところにある――ざわつき。


 今、それが以前よりもずっと強くなっているのを感じた。


 彼女が笑うたび、優しく名前を呼ぶたび、

 その奥に、なにか見てはいけない記憶が隠れているような――そんな気がしてならなかった。


(俺は……なにを、忘れているんだ?)


 桜の木は今日も静かに、何も語らずにそこに立っていた。

 まるで、すべてを知っていて、ただ見守っているように――


「菊井くん、少し話せる?」


 夕食の食器を片付けたあと、中村さんがリビングに戻ってきてそう切り出した。

 彼女はいつも通りの穏やかな口調だったけれど、その声にはどこか緊張がにじんでいた。


「……どうかしたんですか?」


「……実は、そろそろこの街を離れることも考えてみたらどうかと思って」


「え?」


「新しい環境で心機一転……記憶も完全に戻っていないし、いろんなものから距離を置くのも悪くないと思うの。通院も続けられるような病院が近くにある地域もあるし……私が手配することもできる」

 その言葉に、胸の奥がざわついた。

(なぜ今……?)


「……いや、俺はここに残ります」


 きっぱりと断ると、中村さんはわずかに目を伏せた。


「……そう、よね。分かったわ」


 会話はそれで終わった。


 けれど、彼女がキッチンに戻る背中を見ていると、何かを隠しているような――そんな気がした。


 俺はテレビのリモコンを手に取って、無意識にニュース番組にチャンネルを合わせた。


『――本日午後、カンダ・ホールディングス社長の神田誠司氏が辞任を表明しました。理由は社内での複数のパワハラ問題に対する責任を取るため――』


 瞬間、心臓が一度大きく跳ねた。


 画面の中、黒いスーツ姿の男が記者たちに囲まれていた。

 痩せこけた頬、眼光の鋭さ――そして、どこかで見たことのある顔。


『私はすべての責任を受け止め、これからはひとりの人間として償っていく所存です――』


 その声を聞いた途端、ズキン、と頭の奥が悲鳴を上げた。


「……っ!」


 頭を両手で押さえた。鋭い痛みが脳を貫き、視界がゆがむ。


(神田……誠司……?)


(その名前……知ってる……俺は……)


 椅子から崩れ落ちた。

 床に手をついたまま、意識が遠のいていく。

 頭の中で、誰かが叫んでいた。


 ――お父さんを……返してよ。


 誰の声かも分からない。けれど確かに、それは「俺」の声だった。


「菊井くん! 大丈夫!? ちょっと、しっかりして!」


 中村さんが駆け寄ってきて、肩を支える。

 すぐにスマホでどこかに電話をかけている声が聞こえた。


「救急車お願いします! 若い男の子が……意識はあります、でも頭を押さえて苦しそうで!」


 その間も、頭の奥で――


 黒いスーツに無表情な神田誠司の姿が、何度も何度もフラッシュのように蘇っていた。


 その男の名前を知った瞬間から、記憶の扉は――壊れ始めていた。








 幼少期の頃。

 ――ひらひらと、花びらが舞っていた。


「見てごらん、優斗。桜の花、雪みたいでしょ?」


 母さんが笑って言った。

 その横で、父さんが手にしたカメラを構えている。


「じゃあ、みんなで撮ろうか。ほら、優斗、もっと笑って!」


「えー……まぶしい……」


 俺はしかめっ面をして、母さんの手をぎゅっと握り直す。

 春の日差しがやけにあたたかくて、目を細めた。


 場所は、桜崎公園の丘の上。

 大きな一本桜が、空に向かって枝を広げていた。

 その下には、色とりどりのレジャーシートと、母さんの手作り弁当。


「おにぎり、優斗の好きな鮭も入ってるわよ」


 母さんは笑顔でお弁当を広げ、父さんはそれを見ながらビールを一口。

 どこにでもある平凡な春の午後。


 でも――


「ねぇ、また来年来れるかな、ここ」


 ふと母さんが言った。少し寂しげな笑顔だったのを、子どもの俺でもなんとなく覚えてる。


「来年も、その次も、何回でも来よう」


 父さんが即座にそう返した。

 その時の父さんの笑顔は、今思えば――少しだけ無理をしているように見えた。


 でも、俺には分からなかった。

 ただ、桜の下で食べるお弁当が美味しくて、両親と一緒に笑っていられる時間が嬉しかった。


 写真を撮ったあと、母さんがバッグから何かを取り出した。


「これ、おそろいのミサンガ。3人でつけようって思って」


 細い赤と青の糸が編まれた、小さな輪っか。

 3本あって、名前が刺繍されていた。


「願い事、叶うといいねって……」


 母さんはそう言って、優しく俺の手首に巻いてくれた。


 ――願い事?


 なんだったっけ。

 今では思い出せないけれど、あの時、俺は確かに何かを願った気がする。


 父さんも母さんも笑ってた。

 その笑顔は、今も俺の心に焼き付いてる。


 あの桜の木の下だけが、

 今でも俺にとって「家族」という言葉を思い出させてくれた。



 数年経った。中学三年の春。


 俺はあの日、学校から帰ってくる途中、偶然その現場を見たんだ。


 父が職場の前で、知らない女性と話していた。

 女性は泣いていた。

 目を真っ赤に腫らしていて、何度も「すみません」「もう限界なんです」と繰り返していた。


 父は、肩に手を置いて言った。


「君が悪いんじゃない。耐えるべきなのは、君じゃない」


 あの時、誇らしかった。

 父は正義感の強い人だった。誰にでも優しくて、弱い人を守れる大人だった。


 でも、それから数週間後、父の様子が変わり始めた。


 家に帰っても何も話さず、無理に笑うようになった。

 テレビも見ず、母の料理にも箸をつけないことが増えた。

 夜中に物音がして目を覚ますと、父はリビングで煙草を吸いながらひとり天井を見上げていた。


「……お父さん、大丈夫?」


 そう声をかけたとき、父は何も答えなかった。ただ、頭を撫でてくれた。


 それが――最後だった。


 それから数日後、母が泣き崩れる声で目を覚ました。


 父は、会社近くの河原の木に、自分で縄を掛けていた。


 遺書はなかった。


 でも、あとから母が言っていた。


「お父さん……上司から目をつけられてたの。ある女性を庇ってから、何度も何度も異動や減給を繰り返されて……会社に居場所がなかったのよ……」


 その上司の名前――俺はその時、ちゃんと覚えていた。


神田誠司かんだ せいじ


 母の口からそう聞いた時、俺の中で何かが崩れ落ちた。


 神田誠司。許せなかった。


 そうだ。

 俺はその名前を、記憶をなくす前から、ずっと心の奥で憎んでいた。


 父を殺したのは、あの人間だ。

 優しかった父の笑顔を奪ったのは、ゆりの――あの「優しさの塊」のような少女の、父親だ。


 その矛盾に、胸が張り裂けそうになった。


 どれだけ恨んでも、ゆりは何も知らない。

 それでも、怒りは止まらなかった。


 その夜、母は父の遺影の前で泣いていた。

 何もしてやれなかった自分を責めていた。

 父が亡くなって、数ヶ月後。


 母は、無理に元気にふるまっていた。

 俺の前では、笑って、料理をして、学校のことをたくさん聞いてくれた。


 でも、夜になると、咳き込む音が聞こえた。

 布団の中で、息を殺すように泣いている声も、何度も聞いた。


 夏の終わりごろ、母は倒れた。

 診断は、進行性の病気だった。発見が遅かったのだと、医者は言った。


「ごめんね……優斗。あんたに心配かけたくなくて……でも、もう長くないの」


 病室で、母は俺の手を握りながら、何度も謝っていた。

 その手は、とても細くなっていて、あのぬくもりを保つのもやっとのようだった。


「お父さんがいなくなって、辛かったのは私も同じ。でも、あんたがいたから、私はここまで来られたの。……ありがとうね」


 俺は、泣きたくなかった。

 母が「大丈夫だよ」って笑ってるのに、俺が泣いたら、きっと母も苦しむから。


「ミサンガずっと、つけててね。……それで、いつか大人になったとき、自分が“ちゃんと笑えてるか”って、時々思い出して。……それが、私の願いだから」

 震えた声で母が言う。


 その夜が――最後だった。


 翌朝、病室に行くと、母はもう冷たくなっていた。


 医師が静かに告げた言葉すら、耳に届かなかった。


 俺は母の遺体にすがりついて泣いた。

 あの時、何もできなかった無力な自分を責め続けた。


 唯一残ったのは、腕につけていたミサンガだった。











 今の俺には、記憶も、家族も、なにも残っていなかった。

 ただ、あの桜の木の下に立っていた、ぼんやりとした「温かさ」だけが心に残っていた。


 でも今――それが全部、少しずつ繋がっていく。


 すべての記憶が、俺の中に戻ってきた。


 優しかった父。

 強くあろうとした母。

 大事な2人を身勝手な男に殺されたんだ。

 ただ無力な俺はただ恨むことしかできなかった。


 母さんが亡くなってから、何週間が経ったのか覚えていない。


 リビングには母さんが倒れたときの痕がまだ残っていた。

 あの夜、病院へ向かう救急車のサイレンの音が、今でも耳にこびりついている。


 静まり返った部屋。

 炊飯器の電源は切れたまま。

 もう誰も「おかえり」とは言ってくれない。


 学校にも行けなくなった。


 ――いや、行こうとはした。


 でも教室に入った瞬間、空気が凍った。

 机の上には意味のわからない落書き。

「かわいそうな奴」「暗いやつ」「死神」――そんな文字。


 ある日は、靴が汚されていた。

 ある日は、カバンの中に腐った野菜が詰め込まれていた。

 教師は何も言わなかった。見て見ぬふりだった。


 友達だったはずのやつらも、次第に距離を置かれた。

 誰も、声をかけてこなかった。


 家でも、学校でも、誰にも必要とされていない。

 そんな風に感じていた。


 ある夜、郵便受けに差出人不明の封筒が入っていた。


 紙の手触りは少し古びていて、字はとても綺麗だった。


 

 

 

  優斗くんへ


 きみは、ひとりじゃない。


 世の中には、優しい顔をして、人を壊す人間がいます。


 神田誠司という男も、そう。


 きみのお父さんは、彼に壊された。


 きみのお母さんは、愛する人を失い、悲しみの中で倒れた。


 それでも、誰も罰せられない。


 なにも変わらない。


 優斗くん、あなたの中にある痛みは、本物です。


 忘れないで。その痛みは、あなたを動かす力になる。


 心に、ズドンと何かが落ちてきた。

 救いだったのか、呪いだったのかは、その時にはまだ分からなかった。


 でも、誰かがこの“地獄”を知っていてくれることが、

 俺にはたまらなく嬉しかった。


 それからも手紙は届いた。


 あたたかく、優しく、だけど少しずつ――少しずつ、「怒り」と「復讐」へと導いていく言葉に変わっていった。


 手紙は言った。


 正義は、待ってるだけでは来ない。

 行動する者にしか、道は見えない。


 それが、まだあどけない少年だった俺の中に、

 神田誠司という名を深く刻み込んだ。















 それからも、手紙は届き続けた。


 一週間に一通、時には二通。

 白い封筒に、癖のない丸い文字。

 だけど、その中身は――少しずつ、少しずつ、変わっていった。


 最初は、俺の痛みに寄り添うような言葉だった。


「つらかったね。誰にも言えなかったんだよね」

「君の優しさが、君自身を傷つけてしまったんだ」


 読みながら、俺は泣いた。

 声を出して泣いた。

 誰にも言えなかったことを、やっと誰かが理解してくれた気がして。


 でも、何通目かの手紙にはこう書いてあった。


「神田誠司という男がどれだけ多くの人を壊してきたか、知ってる?」

「彼は今も、大きな顔をして生きてる。謝りもせず、償いもせず」


 俺は、固まった。


 その名前を、はっきりと手紙の中で見たのは、それが初めてだった。

 “神田誠司”。

 父の勤めていた会社の社長。

 父を、追い詰めた張本人。


「あなたは、きっと知らなかったでしょう。

 でも、真実を知った今、あなたはどうする?」


 俺は震えた。

 けれどその手紙の最後には、いつものように、優しい言葉が添えられていた。


 「私は、あなたの味方だから」


 その一文が、俺を支えていた。

 同時に、その一文が、俺の判断力を蝕んでいった。


──次の手紙では、こんな言葉があった。


 「神田誠司の“大切なもの”を奪えば、少しは償いになると思わない?」


 “大切なもの”──?


 俺は最初、意味が分からなかった。

 けれど、それを考えるうちに、ある名前が浮かんだ。


 神田ゆり。


 あの男の娘。

 何も知らずに、幸せそうに生きている“娘”。


 ……その姿を想像するだけで、胸がざわついた。


 なぜ、俺の家族は壊れたのに、

 あの家の人間は今も笑っていられるんだろう。


 なぜ、父さんも、母さんも、いないのに――。


「ゆっくりでいい。焦らないで。

 でも、あなたの中にある怒りを、決して否定しないで」


 それからの俺は、もう、ただの“俺”じゃなかった。

 気づけば、毎日その手紙を読み返し、

 書かれている言葉を、自分の中に何度も染み込ませていた。


 知らず知らずのうちに、

 俺の心は、その“誰か”の声に、従っていった。


 やがて俺は、行動を起こす。


 そのとき、あの桜の木の下にいた。


 写真を握りしめながら、

 誰かの名前を、強く、強く、心の中で呟いていた。


 ――神田ゆり。


 あの時の俺は、自分を失っていた。


 ただ、奪いたい”と願っていた。


 たった一人の少女の命を。
















 気づけば、俺は冷たい床に倒れていた。


「……優斗くん! 大丈夫? しっかりして!」


 焦った声がすぐそばにあった。目を開けると、タオルを持った中村さんが顔を覗き込んでいた。


「……ごめんなさい、救急車呼んだから……でも、もう少しで来るからね」


 俺は、まだ鈍く痛む頭を押さえながら、口を開いた。


「……中村さん。……あの手紙……」


 彼女の動きが止まった。


「……あの、白い封筒で、俺に届いてた手紙。――あれを書いたのは……あなた、ですか?」


 沈黙。


 彼女は、少しだけ視線を逸らし、それから微笑んだ。


「……全部、思い出したんだね」


 その瞬間、記憶の中でぼやけていた彼女の姿と声が、はっきりと重なった。


 俺の父さんが会社でパワハラに苦しんでいた時、父さんだけが守ろうとした、あの女性社員。

 何度か家に来ていた、穏やかで静かな人。


 ――それが、中村さんだった。


「……やっぱり、あなた……」


 中村さんは、まっすぐ俺の目を見つめて、語り始めた。


「……私は、あなたのお父さんに、ずっと助けられてたの。何度も辞めようと思った。何度も、消えたくなった。でも、あなたのお父さんは最後まで私を守ってくれた。あの人は……とても、優しかった」


 彼女の目が潤んでいた。


「私、あの人のこと……好きだったの。――ずっと、ずっと、好きだったのよ。でもあの人は別の女性と結婚してしまった。とても辛かった。」


 俺は、言葉を失った。


「そしてあなたのお父さんは……亡くなってしまった。守ろうとして潰された。悪質なパワハラをした。彼が自殺した後でも当時神田誠司は何の責任も取らなかった。何も変わらなかった」


 声が、震えていた。


「どうして……誰も償わないの? どうして、優しい人ばかりが、消えていくの?だから私はあなたを使って復讐を決意した。」


「なんで俺なんだ……!」

 俺が声を荒げようとしたその時、中村さんは続けた。


「私は、あなたの気持ちが分かると思った。私も、すべてを失ったの。家族も、仕事も、生きる意味も。でも……優斗くんならわかってくれると思った。」


「……!」


「あなたのことを、ずっと見ていたの。誰にも頼らず、笑い方も忘れて、ただ生きてるだけのあなただけが……そしてやり遂げてくれた…!私たちの復讐を…。」


 俺は、身を強張らせた。


「……本当は近々田舎で、ひっそり暮らそうって思った。二人で……誰にも知られず、過去を忘れて、生きていけたらって」


「……そんなの……」


「でも……ごめんね。あの時から、あなたの中にある怒りや、痛みを、利用してしまった。……最初は、ほんの少しの気持ちだったの。でも……止まらなかった」


 俺は震えながら立ち上がり、壁に手をついた。



「週に一通、時には二通……。白い封筒。癖のない文字。最初は、慰めの言葉ばかりだった。だけど、徐々に変わっていった。神田誠司という男を、憎ませるように……あなたの中の何かを、塗りつぶすように」


 中村さんの手が、かすかに震えていた。


「あなたを苦しめ変えてしまったのは他でもない私よ。優斗くん……本当に、ごめんなさい」


 その謝罪の言葉が、まっすぐに響いた。

 でも、それはもう遅すぎた。


 俺の心には、あの日の“ざわつき”が、まだ残っている。


 そしてその正体が、少しずつ輪郭を持ち始めていた。


 あの日――俺は、何をしたのか。


「……もう、手紙は出さないでください」


 俺はそれだけを告げて、背を向けた。


 背後で、中村さんが涙をこらえるような音がしたが気にせず家を飛び出した。

 

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