5.ゆりの母
「優斗くん……!」
声が聞こえる。けれど、それが現実かどうかも曖昧だった。
視界が揺れた。耳鳴りがする。
頭の中に、何かが洪水のように流れ込んでくる。
――暗い教室。
――後ろの席で鳴る、クスクスとした笑い声。
――教科書に書かれた落書き。
――机の中に詰められたゴミ。
――引き出された椅子。転ぶ音。笑い声。
――誰も助けてくれなかった教室。
「いや……やめろ……思い出したくない……っ」
力が入らない。足に力が入らず、膝が震え、崩れる。
頭が割れるように痛い。
「苦しい……やめてくれ……っ」
自分でも何を言っているのか分からない。
ただ、押し寄せる記憶の波が痛くて、苦しくて、たまらなかった。
そんな中で――ふいに、柔らかい何かに包まれた。
「優斗くん、大丈夫、大丈夫だよ……」
震える身体に、温もりが重なる。
細い腕が、背中をそっと抱きしめていた。
「こわい記憶、思い出しちゃったんだね。わたしにも、あるよ。苦しくて、痛くて、逃げたくなるような記憶」
それは、ゆりの声だった。
気づけば、ゆりは車椅子を降り、俺のそばに膝をついていた。
無理に体を投げ出したのだろう。膝を擦りむいて、制服の裾も汚れていた。
でも、そんなことを気にする様子もなく、彼女は俺を抱きしめ続けてくれていた。
「……わたしも一人だったよ。でもね、今は違う。優斗くんがいてくれるから、ひとりじゃない。だから、今度は、わたしが支えたいの」
彼女の声が、体の奥にしみていく。
ようやく、少しずつ現実が戻ってくる。
「ゆ……り……」
「あったかいね。優斗くんの背中」
「……ごめん……」
「謝らないで。わたし、優斗くんがどんな過去を持っていても……ちゃんと見ていたいと思ってる」
彼女のその言葉が、張り詰めていた心の糸をほどいていく。
誰かにこんなふうに抱きしめられるのは、いったい何年ぶりだろう。
記憶の中の母の手を、少し思い出した。
――そのとき、思った。
(ああ……この人は、俺の「今」を守ってくれる人だ)
立ち上がれるかはわからなかったけど、それでも、抱きしめ返したかった。
けれど俺の腕は震え、ただ、彼女の肩に額を預けることしかできなかった。
「……どうやって来たの……?」
しばらくして、震えながら聞いた。
ゆりは、ちょっと困ったように笑った。
「職員用のエレベーター、勝手に使っちゃった。ダメって分かってたけど……声がした気がして……なんとなく、屋上だって思った」
「……ばかだな」
「うん、自覚してる。でも、間に合ってよかった」
優しくて、まっすぐで、危なっかしい。
それが、神田ゆりだった。
「ねえ、優斗くん。つらいこと、あるなら言っていいんだよ。わたしだって……強くなんかない」
「……俺、怖かった。忘れてたのに……急に……」
「記憶って、勝手に出てくるよね。」
彼女の手が、俺の背中をぽんぽんと叩く。
まるで、リズムを刻むように、静かに。
「……今度は、わたしが支える番」
その言葉に、胸の奥がぎゅっとなる。
(守らなきゃいけないのは俺の方なのに…)
でも、今だけは、彼女の言葉に甘えたかった。
ひとりじゃないと、信じたかった。
ただ、こうして、ぬくもりに包まれていたかった
そして、俺たちを包む夕暮れは、静かに、夜へと変わろうとしていた。
沈黙のあと、ゆりが静かに尋ねてきた。
「ねえ、なにを思い出したの?」
俺はうつむき、声を絞るように答えた。
「中学三年の、三学期……。俺、学校でいじめられてた」
ゆりの瞳がわずかに揺れる。
「きっかけは、両親を亡くしたことだった。家の事情が変わって、俺が少しずつ無口になったのもあるけど……それだけじゃなかった。家庭のことをからかわれて、やがてそれがエスカレートして……教室で居場所がなくなった」
喉が乾いていた。でも、なぜか言葉は止まらなかった。
「誰にも言えなかった。親もいない、先生にも言えない。友達だって……いなかったから」
ゆりは俺の手を、そっと握ったまま黙って聞いてくれていた。
「……それ、すごく、つらかったね」
「でも……今は、違う」
「え……?」
「今、こうして話せてる。誰かに話せた。――ゆり、お前がいてくれたからだよ」
ゆりの目がふわっと見開かれた。
「俺……ひとつ、やりたいことができたんだ」
「やりたいこと……?」
「お前を、お前の“お母さん”に会わせてやりたい」
ゆりは驚いたように言葉を失った。
「まだ会えるかどうかも分からないし、どんな関係なのかも、きっと簡単にはいかない。でも……ずっと会いたがってたお前のために、俺、ちゃんと動いてみたいと思った」
「……優斗くん……」
「いじめられてた頃は、自分のことで精一杯だった。でも、今は違う。他人のために何かしたいと思える。……それが、きっと俺の“やりたいこと”なんだ」
その瞬間、ゆりの頬に涙が一粒落ちた。
でも、笑っていた。
泣きながら、笑っていた。
「ありがとう、優斗くん……ほんとに……ありがとう」
彼女の手は、もう震えていなかった。
「母親が、桜崎の街に住んでるって……おばあちゃんが言ってたよね。」
「じゃあ、次の休みに一緒に行こう。」
ゆりは、ぐっと唇を噛んでから、こくんと頷いた。
俺たちはまたひとつ、同じ方向を向いた。
お泊まりの日から、ほんの数日。
ゆりの祖母は、驚くほど早く行動してくれた。
「美沙の住所、わかったよ」
学校から帰ったその日の夕方、ゆりがLINEでそう知らせてきた。
文面は短いのに、どこか小さな震えがあった。
“ついにその時が来たんだ”と、画面を見つめるだけで分かった。
土曜日。
風は少し冷たかったけれど、空はやわらかな春色をしていた。
待ち合わせ場所は桜崎駅の改札口。
いつものように車椅子を押しながら来たゆりは、やや緊張した面持ちだった。
「……やっぱりちょっと、緊張する」
「当たり前だよ。……でも、ゆっくりでいい。会って、顔を見るだけでも、何か変わるかもしれない」
俺の言葉に、ゆりは小さく笑ってうなずいた。
「うん。ありがとう、優斗くん」
記された住所をスマホに入力し、電車とバスを乗り継ぎ、小さなマンションの前に辿り着いた。
建物は見覚えのない新しいマンションだった。
中庭の花が風に揺れて、春の匂いが漂う。
「ここが……お母さんの家……」
ゆりは息を呑んだ。
どこか緊張しながらも、強い決意を感じた。
「押すよ」
インターホンのボタンを押すと、数秒の静寂のあと、中から音がした。
「は、はい……どちら様ですか?」
女性の声が聞こえる。
ゆりは小さな声で伝えた。
「神田ゆりです。お母さんの娘です。会いたくて……」
沈黙の後、インターホン越しに返事はなかった。
少しの間が空いて、玄関のドアがゆっくり開いた。
現れたのは、優しくも少し疲れたような中年の女性。
母親だと信じたい、その顔だった。
ゆりは静かに、一歩一歩近づく。
俺はその背中をそっと押した。
「来てよかったね」
彼女は震える唇を噛みしめ、目に光るものを堪えていた。
「この先、どんなことがあっても、一緒に乗り越えよう」
俺はそう心の中で誓った。
リビングの淡い光の中、ゆりはおそるおそる母・美沙を見つめた。
緊張と期待が交錯して、胸が押しつぶされそうだった。
「お母さん……ずっと会いたかったよ」
声は震えていたけれど、確かな気持ちがそこにあった。
美沙は視線を伏せ、小さく息をついた。
その目に溜まった涙がゆっくりこぼれ落ちる。
「ゆり、ごめんなさいね。あの時、家を出てしまったこと……ずっと後悔してる」
「どうして、私を置いていったの?」
ゆりの問いに、美沙の声はか細く震えた。
「あなたのお父さんと別れてから、生活も苦しくなって……私も心が壊れそうだったの。逃げ出したかったのよ。あなたに会うのも怖くて……」
ゆりは胸が痛くなった。
悲しみが押し寄せて涙が溢れそうになるのを必死にこらえた。
「でも、あなたのことはずっと想ってた。毎日毎日……」
「どうして来なかったの? 病院にも……」
美沙はゆっくりと口を開いた。
「あなたのお父さんとは離婚してからほとんど連絡を取っていなかった。私もどうしたらいいか分からなくて……申し訳なかった。あなたに会いたかったけど、怖かったの」
「怖いって?」
「責められるんじゃないかって……あなたを傷つけたって思われるんじゃないかって」
美沙の言葉に、ゆりの心が少し揺れた。
母もまた、孤独と葛藤の中で苦しんでいたのだと知った。
「でも……今は違う。これからはあなたと向き合いたい。失った時間を取り戻したいの」
ゆりはその言葉に涙をこぼし、静かに頷いた。
「私も……もう一度、お母さんとやり直したい」
しばらくの間、二人は言葉なく涙を分かち合った。
どちらもが抱えてきた孤独を、少しだけ分かち合えた瞬間だった。
窓の外には春の陽射しが柔らかく差し込み、部屋を温かく包み込んでいた。
ゆりはこれからの未来に、かすかな希望を感じていた。
リビングから少し離れた玄関。
靴箱の上に射し込む午後の光が、淡く揺れていた。
「……ッ」
こみ上げてくる痛みに、思わず額を押さえる。
あの2人を見ていると、
頭の奥がじんじんと焼けるように痛む。
息が乱れて、背中を壁に預けた。
ふいに、断片的な映像が頭に流れ込んできた。
――笑っている母さん。隣には父さん。
「お揃いのミサンガ、だね」
そう言って母さんが俺の手首に結んだ。
赤と青の編み込み。父さんのも、母さんのも、同じ色だった。
『これで、絶対に離れない』
俺は嬉しくて、何度もそのミサンガを見つめた。
でも……。
次に浮かんだのは、病院のベッドに横たわる母さんの姿だった。
「ごめんね……優斗。もっと……一緒にいたかった……」
その言葉が最後だった。
「……あのあと、俺は一人になったんだ」
口に出した瞬間、胸の奥がじわりと痛んだ。
忘れていたはずの悲しみが、音を立てて蘇る。
そして、ふと思い出す。
――あの事故の日。
誰かを追いかけるように走って、道路に飛び出した。
「……ミサンガ……」
手首を見た。そこには何もなかった。
あの時、確かにあったはずのミサンガは、事故の衝撃でちぎれて、どこかに落ちてしまった。
今も、あの場所にあるのかもしれない。
俺の過去と、誰かを恨んだ想いと、一緒に
「……父さんのことは……まだ思い出せない」
けれど、少しずつ確かになっていく。
この痛みの先に、俺が見つけるべき“真実”があることを。
ゆっくりと顔を上げた。
その視線の先に、静かに開かれかけた玄関の扉があった。
その先には、まだ知らない現実が待っている。
でも、もう逃げるつもりはなかった。
「……帰ろっか」
リビングに戻ってそう言うと、ゆりは少しだけ驚いた顔をしてから、ふわりと笑った。
「うん。……ありがとうね、今日、ついてきてくれて」
「こっちこそ、ありがとう」
俺たちは並んで家を出た。
夕方の風が、少しだけひんやりしていて心地よかった。
住宅街を抜け、やがて視界がひらける。
いつもの帰り道、そしていつもの場所。
桜崎公園。
満開の時期は過ぎたけれど、あの桜の木はまだ堂々と枝を広げていた。
風に乗って、ほんの少し花びらが舞っている。
俺たちは自然と足を止め、桜の木の下に立った。
「あのね――」
ゆりがぽつりと口を開く。
振り返った彼女の顔は、少し緊張したような、でも覚悟を決めたような表情だった。
「私……あなたのこと、好きだよ」
風が止まったように思えた。
一瞬、耳がぼんやりとして、胸の奥がズキリと痛んだ。
――ざわつく。
俺は、しばらく黙ってゆっくりと頷いた。
「……ありがとう」
その言葉しか出てこなかった。
けれど、それが嘘じゃないことだけは確かだった。
「記憶を全部取り戻したら……ちゃんと、返事する」
ゆりは小さく「うん」とだけ返して、ふわりと微笑んだ。
その横顔が、どこまでも綺麗で、俺はまた胸が締めつけられそうになった。
それでも黙って彼女の車椅子を押す。
ゆりの家が見える坂道を、穏やかに登っていった。
――でも、心の奥では、別の声がささやいていた。
(どうして……こんなに胸がざわつくんだろう……これが恋なのか?)
微笑む彼女の背中を見ながら、答えのない問いがまた、胸の中を渦巻いていた。
ゆりの家の門が閉まる音を背に、俺はゆっくりと坂を下っていた。
空は曇っていて、月の光はほとんど届いてこない。
(――好きだよ)
あの言葉が、何度も胸の奥で反響していた。
嬉しい。けれど、その感情の奥で、説明のつかない“ざわつき”がずっと引っかかっていた。
桜崎公園の前を通りかかったときだった。
「こんばんは、また会ったね」
静かな声が、背後から響いた。
振り返ると、前にも会った“あの男”がそこに立っていた。
目立たない格好。なのに、妙に印象に残る。
何かを探るような視線。それでも口元には薄い笑みが浮かんでいる。
「……こんばんは」
俺は戸惑いながらも返事をした。
「夜の桜は、また違って見える。ここは昔から、人の想いが集まる場所なんだ」
男はそう言いながら、木の幹を指でなぞるように見つめていた。
「――君、菊井優斗くんだね?」
その名前を口にされて、一瞬、胸が詰まる。
「……そうですけど」
男はポケットから何かを取り出すこともなく、静かに言った。
「おじさん刑事なんだ。神田ゆりさんのこと、少しだけ聞かせてもらえるかな」
「……ゆり、がどうかしましたか?」
「彼女は“あの日何者かに背後から突き落とされた”って証言してる。記憶がはっきりしてるわけじゃないけど、事故じゃなくて“事件”だった可能性がある」
心臓が、ひとつ跳ねた。
突き落とされた――それは、俺が初めて聞く事実だった。
「……俺は、記憶がないんです。事故のことも、自分の過去のことも。目が覚めたときには、病室のベッドの上で……。それ以外は、何も」
男の目がわずかに細くなった気がした。
「そうか。……すまなかったね、急に」
ほんの数秒の沈黙のあと、男は静かに背を向けた。
「また、会おう。その時は桜を見ながらゆっくり語り合おう。」
その言葉を残し、男は公園の闇の中へと歩き出した。
(……あの人、なんなんだろう)
優しい口調。だが、その奥にある“別の顔”をどこかで感じていた。
しばらくその場に立ち尽くしていた俺は、ふと足を向ける。
なぜか、体が“あの場所”へ向かいたがっていた。
事故現場。
ゆりが階段から落ちた現場のすぐ近くにある、あの道。
街灯の薄明かりの下、アスファルトの隙間に、何かが光っていた。
しゃがみ込み、指で拾い上げる。
それは、ちぎれた“ミサンガ”だった。
少し汚れてはいたが、大事なものだ。
俺の記憶のどこかに、確かに存在していた感触。
握りしめてそのまま、俺は家へと歩き出した。
何かが、少しずつ繋がっていく気がした。
けれど、まだすべてを思い出すには――もう少し、時間がかかりそうだった。