4.新生活
朝の光が、ゆりの病室をやわらかく満たしていた。
カーテンの隙間から差し込む日差しが、白いシーツを温かく染める。
ゆりは目を閉じたまま、深くゆっくりと息を吸い込んだ。
長い眠りから覚めてからの毎日は、不安と少しの希望で彩られていた。
「神田さん、調子はどうですか?」
ドアのノックとともに、穏やかな声が聞こえた。
医師の佐藤先生がゆりのベッドの横に立っている。
「退院の日が決まりましたよ。明日から自宅に戻ってリハビリを続けましょう」
ゆりは小さくうなずいた。
まだ自分が車椅子生活になることの実感は薄いけれど、これからのことを考えるとドキドキする。
「リハビリを続ければ、また歩けるようになる可能性は十分あります。ただ焦らず、少しずつ進めていきましょうね」
先生の言葉に、ゆりはかすかに微笑んだ。
病室には、ゆりを見守るように祖母の姿もあった。
「明日からは、私の車で学校に行くのよ」と祖母は優しく話す。
ゆりはその言葉に安心感を覚えた。
これからまた違う毎日が始まるのだと、心の奥で確かめるように。
俺は診察を終え、病院の廊下を歩いていた。
体調はすっかり安定し、これからの通院も続けながら学校生活を少しずつ取り戻していく日々が始まるのだと、自分に言い聞かせるように思った。
ふと、病院の中庭に目を向けると、見覚えのある姿があった。
車椅子に座るゆりが、まるで風に揺れる花のように微笑んでいる。
「優斗くん!」
声をかけられ、振り返るとゆりが嬉しそうに手を振った。
その笑顔には、不安よりも希望が満ちていた。
「ゆり、退院が決まったんだって?」
「うん! 明日から家に帰るの。しかもね、同じ学校に通うことになったんだよ!」
優斗の胸に、ほんのり温かいものが広がった。
「やっぱり、一緒の学校は嬉しいよね」
ゆりの目は輝いていて、まるで新しい未来を見つめているようだった。
二人はゆっくりと話し始めた。
入院中のことや、これからのリハビリのこと、学校生活のこと。
時折笑いながら、時折真剣な表情になりながら、言葉を交わす。
「優斗くんはどう? 学校は……」
「まだ慣れなくてさ。記憶も戻らないし、不安はあるけど、ゆりがいるなら頑張れそうだ」
ゆりは優しくうなずいた。
「私も怖いけど、優斗くんと一緒ならきっと大丈夫」
日が傾き始め、病院の影が長く伸びていく。
帰り道、優斗の心は未来への期待と少しの不安が入り混じっていた。
それでも、どこか楽しみな気持ちが勝っていた。
桜崎公園の桜が、夕陽に照らされて淡く色づいていた。
優斗が自宅のドアを開けると、家の中は静かでひんやりとしていた。
一人で過ごす空間に、どこか孤独を感じながらも、心は少し落ち着いていた。
ほどなくして、玄関のチャイムが鳴る。
家事代行の中村彩乃だった。
「ただいま戻りました。今日はどうでしたか?」
優斗は軽く笑って答えた。
「病院でゆりと会って、退院の話を聞いたよ。明日から同じ学校かもしれないって」
中村はよかったと言いにっこりと微笑み、バッグから何かを取り出した。
「ところで、優斗さん、そろそろスマホを持った方がいいと思いますよ。何かあったときにすぐ連絡できるし、学校生活でも便利です」
「スマホか……実はまだ持ってないんだ」
「それじゃあ明日、一緒に買いに行きましょう。おすすめの機種もあるし、使い方も教えますから」
優斗は少し考えてから頷いた。
「ありがとう。じゃあ明日、お願いするよ」
それからの夜、優斗の頭の中には、新しい生活のためのさまざまな準備が浮かんでは消えた。
スマホを手に入れることで、少しずつ世界が広がっていくのだろうか。
そんな期待を胸に、優斗は静かにベッドに身を沈めた。
ゆりの祖母の車が校門前に止まったとき、俺はちょうど靴箱の前にいた。
ゆりが車椅子で降りてきた瞬間、周囲が一気にざわめき始める。
「ゆり!」「本当に戻ってきたんだね!」
「心配してたよ」「ずっと待ってたんだから!」
教室に入ったゆりは、たくさんの声に囲まれていた。
みんなの笑顔と、ゆりの柔らかな笑顔が重なって、教室の空気がぱっと明るくなる。
そんな光景を、俺は自分の席から静かに見ていた。
心の中に、小さくて言葉にならない寂しさが広がっていた。
あれだけ嬉しそうな顔、病院では俺にだけ向けてくれてたんじゃなかったのか。
いや、きっとそれは思い上がりだ。
そう自分に言い聞かせながらも、胸の奥がモヤモヤと濁ったままだった。
午後の授業が終わり、帰り支度を始めていたとき。
何気なく窓の外に視線をやると、ゆりが誰かと話していた。
クラス委員長の渡辺薫だった。
明るくて気さくで、誰とでも仲良くなれるタイプ。
その薫と話すゆりを見て、なぜか心がざわついた。
ふたりの距離が、妙に近く感じた。
「別に、気にすることじゃない……」
そう言って鞄を肩にかけ、帰ろうとしたときだった。
「優斗くん!」
振り返ると、ゆりが手を振っていた。
「一緒に帰ろう?」
その一言だけで、さっきまでのモヤモヤが嘘みたいに和らいでいく。
やっぱり、ゆりと一緒にいると、どこか落ち着く。
歩道を並んで進みながら、ふと思い出して言った。
「そういえば、今日スマホを買いに行くんだ。中村さんに付き添ってもらって」
「え、スマホ? 私もついて行っていい?」
「いいけど……退院したばかりだし、疲れない?」
「大丈夫。優斗くんの新しい一歩なんでしょ? だったら見届けたいな」
そんなふうに笑うゆりが、まぶしく見えた。
そのまま中村と合流し、駅前のショッピングモールへ。
スマホの機種を選んで、契約を済ませたあと、ゆりがすぐに言った。
「じゃあ、LINE交換しよ!」
「う、うん……」
なぜか緊張しながらも、俺たちはスマホを向かい合わせてQRコードを読み込んだ。
画面に「友だち登録が完了しました」と表示されたとき、胸の奥が少しだけ熱くなった。
その帰り道、俺はゆりの車椅子を押して、彼女の家まで送った。
日が暮れかけた道。
ゆりの横顔は夕陽に照らされて、ほんの少し寂しそうで、でも優しかった。
あれから一週間が経った。
季節はゆっくりと進み、桜崎の街にもようやく春の終わりを感じる日々を迎えてきてる。
朝。
俺のスマホが小さく震える。
おはよう☀ 今日もよろしくね》
ゆりからのLINEだ。
たわいもない一言。
だけど、それが毎日のはじまりになっていた。
「おはよう。今日もよろしく」
そう返信して、鞄を肩にかけ、家を出る。
最近は、もうこの生活にも慣れてきた。
朝はゆりとLINEのやり取りをして、学校に行って授業を受け、帰りはゆりの車椅子を押しながら一緒に下校する。
そんな日々が、まるで前からずっと続いていたかのように自然だった。
帰り道、いつものように桜崎公園を通る。
少しずつ散り始めた桜の蕾を眺めながら、ふと思い出した。
あの夜、中庭で泣いていたゆり。
父親が一度も見舞いに来ないこと、そして――自分を置いて出ていった母親のこと。
「なあ、ゆり」
俺は歩きながら、彼女の隣で声をかけた。
「そろそろさ。……お母さんのこと、本格的に探してみないか?」
ゆりは驚いたように俺を見上げた。
けれど、それはすぐに真剣な眼差しへと変わっていった。
「……うん。私も、そう思ってた」
言葉はそれだけだったけど、ゆりの目には、決意の色が滲んでいた。
「じゃあさ、また時間あるときに、ちゃんと計画立てよう。ゆりの記憶にある場所とか、手がかりになりそうなものとか……一緒に考えよう」
「ありがとう、優斗くん」
その声には、少し震えた響きがあった。
俺は静かに頷きながら、またゆりの車椅子を押して歩き出した。
この小さな決意が、これからの大きな変化の始まりになる。
そんな気がした。
翌朝。
いつものように、スマホにはゆりからのメッセージが届いていた。
おはよう☺今日も頑張ろうね》
それに返信して家を出たものの、なんとなく胸の奥がざわついていた。
理由は、昨日から気づいていた。
渡辺薫の様子が、どこかおかしい。
教室に入ると、薫はいつものように明るく誰かと笑っていた。
けれど――俺の方を一度も見なかった。
授業中も、目が合うことはなかった。
休み時間に近くにいても、何も話しかけてこない。
(……あからさまじゃないか?)
最初は気のせいかと思っていた。
でも、今日になって確信に変わる。
完全に――避けられている。
放課後、意を決して、薫のもとへ向かった。
ちょうど机の上の教科書をカバンに詰めていた薫の背中に声をかけた。
「なあ、薫。……なんか、あったか?」
少しの間。
沈黙が流れた。
薫は、俺の方に顔を向けようともしなかった。
そのまま、何も言わずに教室を出ていった。
机の横に、俺だけが取り残される。
ただ、ポツンと。
「……そっか」
心の中に広がるのは、混乱でも怒りでもなく、ただただ冷たい空虚だった。
ゆりと話すときとは違う。
薫とは、不思議と距離が近づいた気がしていたから――余計に堪えた。
けれど、このことをゆりに話すつもりはなかった。
せっかく日常が戻ってきたばかりだ。
わざわざ、その空気を濁らせたくはない。
帰り道、今日はひとりで歩く桜崎公園の並木道。
風が吹いて、開きかけた桜の花が小さく揺れた。
どこかで何かが、静かに音を立てて崩れていく気がした。
休日は通院日だ。なので今日は病院の中庭でゆりと会った。
制服ではなく私服のゆりを見るのは、なんだか新鮮だった。
桜崎病院の中庭。
色とりどりの草花が揺れるベンチの前で、俺たちは向かい合って座っていた。
いつも通りの通院日。
そして、あの日に交わした約束を、そろそろちゃんと形にしようと思っていた。
「……ねぇ、優斗くん」
先に切り出したのは、ゆりだった。
「母のこと、探そうって言ってくれたの、本当に嬉しかった」
「うん。俺も……何かできることがあればって思ってる」
そう答えたあと、少し沈黙があった。
ゆりは花壇に咲く淡い黄色の花をじっと見つめていた。
「……父とは、もうほとんど話してないの」
ふとしたように、ぽつりとゆりが言った。
「最後にまともに会話したの、いつだったかな……もう、だいぶ前。退院の日にも来てくれなかった」
「……そっか」
それ以上は何も言えなかった。
ゆりの父親について、俺は何も知らない。
だからこそ、余計なことは言えなかった。
「お母さんは……?」
俺がそう尋ねると、ゆりは少しだけ目を伏せた。
「小さい頃にいなくなったの。どこにいるかも分からない。でも……最近、どうしてるのかなって思うことが多くて」
「……なら、探せばいい。」
俺の言葉に、ゆりが顔を上げる。
「おばあさんが、何か知ってるかもしれないよね? 一緒に話を聞きに行ってみよう」
ゆりは少し驚いたように見えたけど、すぐに小さく、けれど確かに頷いた。
「ありがとう、優斗くん。……本当に、ありがとう」
彼女の声は風の音にまぎれて小さかったけど、胸にまっすぐ届いた。
ふたりの間に沈黙が流れる。
けれど、それは気まずいものではなく、やわらかく、静かな決意のようだった。
中庭の花が、さわさわと風に揺れていた。
ゆりの家に到着した。
「……やっぱり、いつ見ても大きい家だなって思うよ」
俺がそう呟くと、隣で車椅子に座るゆりが小さく笑った。
「ふふ、またそれ言ってる。何回来ても慣れない?」
「うん、俺には縁のない世界だからさ、こういうの。……記憶なくしてから来るのは初めてだけど、やっぱすごいなって」
鉄製の門の奥、整った芝と丁寧に剪定された庭木。その奥に、静かにたたずむ広くて白い家。
――たしかに、前も何度も送ってきた。けど、こんなふうに中に入るのははじめてだ。
緊張を胸に押し込んで、俺はゆりの車椅子を押しながら玄関へ向かった。
玄関ホールを抜けて案内されたのは、白を基調にした落ち着いた応接室だった。
壁には絵画が飾られ、テーブルの上には季節の花が生けられている。窓の外には緑が見え、外の空気がどこか別世界のように感じた。
「ようこそいらっしゃいました。お久しぶりね、優斗くん」
そう言って穏やかに微笑んだのは、ゆりの祖母――神田澄江さんだった。
落ち着いた身なりと上品な物腰。どこか芯の強さを感じさせる女性だった。
「……あ、はい。お邪魔します」
「どうぞ、座って。お茶を入れましたから」
俺がソファに腰かけると、ゆりも車椅子のままテーブルの横に止まり、手を膝の上で組んだ。
「おばあちゃん、今日は話したいことがあって……。お母さんのこと、覚えてることがあれば聞かせてほしいの」
ゆりがそう言うと、祖母は少しだけ表情を曇らせた。
「そう……。美沙さんのことね」
その名前は、俺にとっては初めて聞くものだった。けれど、ゆりの目は真剣だった。
「美沙さんはね、すごく優しい子だったのよ。よく笑って、家の中も明るくなるような……そんな人だった」
祖母は、あたたかい紅茶を差し出しながら、昔を懐かしむように話し続けた。
「でも、あなたのお父さん――誠司はね、その頃はまだ若くて、会社を立ち上げたばかりで……ほとんど家に帰らなかったの」
「お金も余裕がなくて、まだお手伝いさんも雇えなかったし。美沙さんは一人で、赤ちゃんだったゆりを育てていたの。きっと、ものすごく大変だったと思う」
「……喧嘩も多かったの?」
ゆりが小さく尋ねる。
「ええ。誠司も美沙さんも、最初は一緒に頑張っていたけれど、だんだんすれ違っていったのね。責めるつもりはないの。でも……限界だったんだと思うわ」
「それで、離婚して……?」
「そう。離婚してから、美沙さんは連絡もなしに、突然いなくなったの。どこへ行ったのか、誰もわからなかった」
沈黙が、部屋に落ちた。
ゆりは、何かを飲み込むようにうつむいていた。
「きっと大丈夫。いつか会えるわ。」
祖母はそう言って、やさしくゆりの手を取った。
「噂程度だけど美沙さんは最近桜崎町のどこかに住みはじめたらしいの。私の友達が見かけたみたい。」
「……神田美沙さん……」
俺はその名前を、心の中で繰り返した。
ようやくつながった、最初の糸。
ゆりの母を見つけるための、最初の光だった。
「ありがとう、おばあちゃん……」
ゆりが小さく礼を言ったあと、静かに微笑んだ祖母はこう付け加えた。
「無理はしないでね。会うのが正しいことなのかどうかは、あの子自身にもわからないかもしれない。だから、どうか――急がずに、心の準備をしてからね」
「うん……。でも、私は会いたい。ちゃんと、もう一度……お母さんに会いたい」
ゆりの言葉は、まっすぐだった。
その姿を見て、俺は自然にうなずいていた。
「俺も……協力するよ。きっと見つけよう。ゆりの“やりたいこと”なんだもんな」
ゆりがこっちを見て、やわらかく笑った。
どこか安心したように。
話がひと段落して、ちょうどお茶を飲み干した頃だった。
ソファに座る祖母――神田澄江さんが、ふっと穏やかに微笑みながら言った。
「せっかくだし、今日は泊まっていったらどう?」
「……え?」
不意に言われて、俺は思わず素っ頓狂な声を出してしまった。
「いや、あの……俺なんかが、こんな立派な家に泊まるなんて」
「遠慮はいらないわよ。夜も遅くなるし、外は肌寒いし。お部屋もたくさん空いてるしね」
「そうそう! いいじゃん、泊まってけば?」
ゆりまで乗っかってくる。
「え、いや……でも……」
「えー、なにそれ。優斗、まさか怖がってる?」
「ち、ちがっ……」
「ふふっ、冗談だよ」
いたずらっぽく笑うゆりの顔につられて、俺も思わず笑ってしまった。
でも、内心はちょっと焦ってた。
(泊まるって……マジで?)
俺は視線をそらしながら、ポケットからスマホを取り出した。
画面をタップして、中村さんにメッセージを打ち込む。
【すみません、今日はちょっと事情があって外泊になります】
すぐに既読がついて、
【了解です!体調気をつけてね〜】
というあたたかい返信が届いた。
(……よし)
深呼吸をひとつ。
部屋の空気がどこか柔らかくなっていた。
「じゃあ……お言葉に甘えて、今日はお世話になります」
そう言うと、ゆりが「やったー!」と両手をあげて喜んだ。
「じゃあさ、夜はお菓子でも食べながらお泊まり会っぽいことしよっか!」
「え、それ本気?」
「うん。なんか久しぶりに“普通の高校生っぽいこと”したいなって。優斗といると、ちょっと安心するし」
俺は思わず顔が熱くなるのを感じた。
「わ、わかったよ……俺でよければ」
「よし、じゃあお手伝いさんにお菓子頼んどこーっと!」
ゆりはさっそくスマホを操作しながら楽しそうに笑っている。
その様子を見て、澄江さんも優しく目を細めた。
「ゆりがそんなに笑ってるの、久しぶりに見たわ」
その言葉に、俺の胸の奥がじんわりとあたたかくなった。
“普通”の時間。
何気ない会話と、笑い声と、夜のお泊まり会。
――でもその先にあるのは、きっと“普通”じゃいられない現実だ。
けれど今は、ほんの少しだけ、そのことを忘れていたかった。
「この部屋を使ってね。何かあったら呼んでちょうだい」
澄江さんに案内されたのは、広くて落ち着いた雰囲気の客室だった。
白を基調にしたベッドルームに、木目の家具が整然と並んでいる。窓の外には、手入れの行き届いた庭のライトがぼんやりと浮かんでいた。
「……すげぇ、なんかホテルみたいだ」
一人になってから、小さくつぶやく。
ベッドの上に座って、スマホを取り出すと、通知が1件。
ゆり【お泊まり会開始〜】
ふふ、と吹き出してしまった。
そのあとすぐ、
優斗【うるさくしないようにします】
と打ち返すと、
ゆり【静かにテンションあがってるんでしょ?】
さすがに図星すぎて、笑いを噛み殺した。
数十分後――。
部屋のノック音が「コツコツ」と小さく響いた。
「優斗〜、まだ起きてる?」
ゆりの声だった。
ドアを開けると、パジャマ姿のゆりが車椅子に座ってこちらを見上げていた。
ライトブルーのゆるいワンピースパジャマ。髪はサイドで一つにまとめていて、どこか無防備な雰囲気があった。
「え、なに?」
「なんかさ、眠れなくて。中庭の見える廊下のとこに行こうと思って。付き合って?」
「……別にいいけど」
内心、ドキドキしていたのは言うまでもない。
一緒に夜の廊下に行くとか、どこの恋愛映画だよって。
薄暗い廊下。
ゆっくり進む車椅子と、横を歩く俺。
「夜の空気って、気持ちいいね」
「うん。昼と違って静かだし」
廊下の端にある大きな窓からは、庭の花が月明かりで浮かび上がるように見えていた。
風が少し吹いて、カーテンが揺れる。
「……ねぇ、優斗。今日、来てくれてありがとう」
「え?」
「なんか、こういうの久しぶりだったから。友達と、夜に他愛もないこと話すの。楽しくて」
「……俺も。あんまりこういうの慣れてないけど、楽しい」
ゆりが、にこっと笑う。
でもその笑顔はどこか、寂しさを少しだけまとっていた。
「今日、夢にお母さん出てくるといいな。……」
その一言に、胸がきゅっとなった。
「きっと……出てくれるよ」
「……うん。そうだといいな」
そうしてしばらく、2人で夜風に吹かれながら沈黙していた。
ふと、ゆりがこちらに視線を向けて言った。
「優斗って、こうやって静かに一緒にいてくれるの、すごく落ち着く」
「……俺も、ゆりと一緒にいると、変な安心感ある。なんでだろうな」
「ふふ。……じゃあ、また明日ね。おやすみ」
「おやすみ」
そしてゆりは、自分でゆっくりと車椅子を回して部屋へ戻っていった。
俺はしばらくその背中を見送ったあと、夜の風が少し冷たく感じる廊下で、ひとり深呼吸をした。
(……この気持ちは、なんだろう)
胸がざわつく。