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3.神田ゆり


 夜――布団に潜り込んで目を閉じても、眠りは訪れなかった。


 天井を見つめながら、ぼんやりと思う。

 静かな部屋。時計の針の音だけが妙に大きく響く。

 眠れないまま朝が来てしまったのは、これで何日目だろう。


 退院してから数日。優斗は今、2年生として学校に通い始めていた。


 とはいえ、記憶がないため、クラスメイトたちの顔は誰一人としてわからなかった。

 むしろ、ほとんどの生徒が彼のことを「新しく転校してきた子」だと思っている。

 それも無理はない。

 入学してすぐ不登校になり、そのまま事故で入院していたのだから。


 朝の冷たい空気が、制服の袖口から静かに入り込む。

 小さくあくびをしながら、優斗はいつもより少し遅れて家を出た。


 空は晴れているのに、心の中はどこか薄暗い。


 途中、桜崎公園の前を通る。

 視線の隅に、大きな桜の木が揺れるのが見えた。


(帰りに……少し寄ろう)


 そう思いながら、足早に駅へ向かった。


 通学路も、電車の揺れも、教室のざわめきも、すべてが“知らない日常”だった。

 けれどその中に、少しずつ“馴染みそうなもの”が増えていく予感もあった。


 朝のHRホームルームが始まる直前の教室。

 優斗は窓側のいちばん後ろの席に座り、ぼんやりと校庭を眺めていた。


 他の生徒たちがにぎやかに話す声は、どこか遠くの出来事のようだった。

 それはまるで、薄いガラス越しに誰かの“青春”を見ているような気分だった。


「……よう、菊井くんだっけ?」


 声をかけてきたのは、整った顔立ちに爽やかな笑みを浮かべた男子生徒だった。

 制服の襟元には、クラス委員長を示すバッジがついている。


「あ、うん……はい」


「俺、渡辺薫。クラスの委員長やってる。分からないことあったら何でも聞いてな」


「ありがとう」


 初めて話しかけられたその声に、優斗は少しだけ肩の力を抜いた。

 薫の雰囲気は明るく、でも押し付けがましくはなかった。


「そういえば……菊井くんってさ、転校生ってわけじゃないんだよね?」


「うん……入学はしてた。でもいろいろあって、しばらく来てなかった」


「そっか。まあ、なんていうか……こっちも知らなかったから。

 てっきり最近入った人かと思ってた」


 薫は笑いながら、窓の外を見た。


「そういえばさ、前にこの学校で、めっちゃ人気だった子がいたんだよ」


「……人気?」


「うん。神田ゆりって子。明るくて、優しくて、誰にでも分け隔てなく接する。

 男女問わず、みんなに好かれてたな。」


「……」


 その名前を聞いた瞬間、胸がざわつく。

 けれど、すぐに理由はわからなかった。ただ、どこかで聞いたような、そんな気がした。


「今はもう通ってないんだけどな。なんか、階段から転げ落ちて大怪我したって話だ」


「……階段から?」


「そう、たしか桜崎公園の近くにある広場の階段。事故か、転落か……詳しくはわかんないけどさ。

 確かここの高校の子が見つけて通報したんだよ。その後、ずっと入院してるって噂」


 優斗は無言のまま、窓の外へ視線を投げた。

 言葉にならない感情が、胸の奥でふわりと浮かんでいた。


「知ってるかどうか聞いただけだから、気にしないでな。

 俺も、入院してるってのは最近知ったばっかなんだ。

 でも……ゆりちゃん、すごくいい子だったんだよ。一年の頃に友達だったんだ。」


「……そうなんだ。」


 優斗は短くうなずいた。

















「神田ゆり」という名前を聞くと、何度も胸がざわつく。


 その名を、彼女自身から聞いたのは最初の出会い――病院の中庭だった。

 車椅子に座り、花壇の前で静かに笑っていたあの少女。

 柔らかな声で「神田ゆり」と名乗った瞬間、胸の奥がひりついたような感覚が走った。


 けれど、その理由はわからなかった。

 思い出そうとしても、そこには何もない。

 ただ、心がざわつく。風が巻くように、落ち着かない違和感だけが、ずっと残っていた。


 帰り道、優斗はまっすぐ家へ帰らず、今日も桜崎公園に足を向けた。

 彼の中で唯一、家族の“記憶”とつながっている場所だった。


 すでに日が傾きはじめていて、公園は少し肌寒い。

 桜の枝はそよ風に揺れ、花びらがひらひらと舞い落ちる。


 そんな時、見知らぬ男性がゆっくりと近づいてきた。

 彼の顔には深い皺が刻まれているが、目は柔らかく澄んでいた。


「この桜の木は、ずっと昔からここにある。俺も昔からこの街にいて、ずっとこの桜を見てきたよ」


 男性は穏やかに話す。

「君も何度もここに来ているようだね。きっと、この桜には特別な思い出があるのだろう」


 優斗は少し驚きながらも、素直に頷いた。

「はい……多分家族と来てました。」


 男性は微笑み、やわらかな声で言った。

「少年…またどこかで会えるといいな。その時は桜を見ながらゆっくり話でもしよう」


 そう言うと、男性はゆっくりと公園の小道を歩いて去っていった


 家に戻ると、玄関前に見知らぬ女性が立っていた。


「こんにちは。家事代行サービスの中村と申します」


 清潔感のあるエプロン姿に、少し落ち着いた年上の女性。

 声のトーンも低くて優しく、どこか看護師に似た安心感を感じた。


「病院の看護師さんから連絡があって……無理しなくていいの。

 できることから、少しずつ助けていけたらって思って来ました」


「……よろしくお願いします」


 優斗がそう言うと、中村は丁寧に頭を下げて家に上がった。


 キッチンでエプロンを直しながら、さっそく食材を並べ始める。

 まるで長くここにいたかのように自然な動きだった。


 その背を見ながら、優斗はリビングの棚にある写真に目をやる。


 そこには、あの桜の木の下で撮った家族、遊園地で撮った家族などいろんな場所で撮った写真が飾られている。


 けれど、いくら見つめても、声も、笑い方も、ふとした表情も――

 そのすべては、彼の中にはもう存在していなかった。


 俺はこの家のことも何も知らない。


 でも一つ確信したことがある。

「神田ゆり」という名前はきっとずっと前から知っていたこと。


 なぜなのかは、まだわからない。

 けれど、胸のざわつきが、それを告げていた。



 

 

 今日は休日で通院日。

 病院の中庭は、今日も静かだった。

 春の終わりの風がそよぎ、色とりどりの花が揺れている。


 診察を終えた俺は、自然と足を中庭へ向けていた。

 ここに来れば、あの少女に会える気がした。


「優斗くん」


 ゆりがいつもの場所にいた。

 花壇のそば、車椅子に座りながら文庫本を閉じて顔を上げる。


「やあ、また来たよ」


「うん。また、会えたね」


 ふたりは自然と微笑み合い、優斗はゆりの隣のベンチに腰を下ろす。


 ジャケットのリュックから、一冊の文庫本を取り出した。


「これ、返すね。前に貸してくれたやつ」


 手渡したのは、ゆりが数日前に貸してくれた小説だった。


「読んでみて、登場人物の考え方とか、自分と重なるところがあって……思ってたよりずっと引き込まれた。ありがとう」


「……そっか、よかった」

 ゆりはふわっと笑って、「読んでくれてありがとう」と優しく言った。

 その声には、ほんの少し照れたような響きがあった。


 言葉にしなくても伝わる時間が、ゆっくりと流れる。


 いつもの家族写真を取り出す。

「家にたくさんの家族写真があった。……まだ思い出せないけど、少しずつ良くなっている気がする。」


「よかった。」

 ゆりは写真を覗き込み、すこし目を伏せた。


 その表情が、かすかに揺れる。

 言葉には出さないけれど、彼女の心の奥に何かが触れたのが分かった。


「ねえ、優斗くん」


「ん?」


「……その写真を見ていると羨ましいなと思っちゃう。」


 ゆりの声は静かで、風に混ざって消えそうだった。


 優斗は返す言葉を持たなかった。

 ただ、視線をゆりに向けて、静かに隣にいる。


 少しの沈黙が流れたあと、優斗はそっとたずねた。


「……家族とは、仲いいの?」


 ゆりは一瞬、何かを飲み込むようにまばたきをして、それから笑った。


「うん。……仲良いよ」


 その「笑顔」は、あまりにも寂しすぎた。

 本当は、話したいことがたくさんあるのかもしれない。けれど、今はまだ言葉にならないのだろう。


「じゃあ、またね」


「うん。また」


 その言葉を最後に、優斗は帰りのバスに乗った。


 だが、玄関のドアノブに手をかけた瞬間、ポケットの中がやけに軽いことに気づく。


(……あれ、小説……)


 今日、ゆりに新しく借りた文庫本を、中庭のベンチに置き忘れてきたのだ。


 少し迷ったが、優斗は引き返すことにした。

 花壇の前のベンチに向かう途中、足が止まる。


 そこにいたのは――

 ベンチにもたれながら、肩を震わせて泣いているゆりだった。


 顔は伏せているが、彼女であることはすぐに分かった。

 あの優しい笑顔の裏に、どれほどの孤独が隠されていたのか。

 今、初めてそのほんの一端を垣間見た気がした。


 優斗は声をかけようとして、言葉をのみ込んだ。

 そして、静かにその場に立ち尽くす。


 

 

 春の花が風に揺れている。

 夕暮れが、中庭を淡い光で染めていた。


「……ゆり?」


 声をかけた瞬間、彼女は顔を上げた。

 目のまわりが赤くなっていて、涙のあとが頬を伝っていた。


「……優斗くん?」


「ごめん、忘れ物しちゃって……来てみたら、ゆりがいて」


「そっか……」


 気まずそうに笑うその顔が、いつもの笑顔とは少し違っていた。

 花の向こうに、沈みかけた太陽が見えた。


 優斗はそっとゆりの隣に座る。

 中庭を吹き抜ける風が、ふたりの間をさらりと通り抜けた。


「……たまに、わけもなく泣きたくなること、ない?」


「あるかも。理由があっても、うまく言えないときとか」


「……そう。そんな感じ」


 ゆりはそう言って、少し俯いたまま、言葉を続けた。


「お父さん、一度も面会に来てくれないんだ」

「事故にあったときも……そのあとも、一度も」


 優斗はそっと息を呑む。

 ゆりの声には怒りはなかった。ただ、深い寂しさだけがあった。


「お母さんは、ずっと前に家を出ていったの。私を置いて」


 風が吹いて、木々がわずかにざわめく。


「ずっと強くなきゃって思ってたけど……今日みたいに、ふとしたときに全部崩れてきて。あたし、弱いんだなって思っちゃった」


「……弱いから、泣けるんじゃない?」

「泣ける人の方が、ちゃんと自分を感じてる気がする」


 優斗の言葉に、ゆりはふっと笑った。

 それはいつもの笑顔とは違う、少しだけ照れたような、救われたような笑みだった。

「……ねえ、優斗くん」


「ん?」


「もし何でもひとつだけ叶えられるなら、何がしたい?」


「叶えられること……」


 夕焼け空を見上げながら、優斗はしばらく考える。


「……わからない。記憶がないから、やりたかったことも、何を夢見てたのかも思い出せない。でも、また見つけたいとは思ってる。ゆっくりでも」


「……うん、それでいいと思う」

 ゆりはうなずきながら、自分の胸に手を置いた。

「私ね……お母さんに会いたいの。ちゃんと話してみたい。なんで出ていったのか、今どこにいるのか、それでも……私のことを思い出してくれるのか」


「……」


「それが今の、いちばんやりたいこと」


 優斗は、ゆりの言葉をしっかりと受け止めた。


 記憶のない自分とは違い、彼女は何かを求めて、何かに傷ついて、それでも前を見ようとしている。


「……きっと、会えるよ。ちゃんと、会える日が来る」


「そうだといいな」

 空が暗くなりはじめた。

 病院の明かりが、ポツポツと灯り始める。

 風がやわらかく吹いて、ゆりの髪をそっと揺らした。


「ありがとう、優斗くん」

 そう言ってゆりは笑った。

 どこかまだ寂しさを含んだ笑顔だった。


 優斗はしばらく黙ったあと、ふっと顔を上げた。


「退院したら……一緒に探そう。お母さん、見つけよう」


 ゆりは驚いたように目を見開いた。

 そして、ゆっくりと頷く。


「うん……ありがとう、優斗くん。きっと、一緒なら怖くない」


 二人の間にあたたかい空気が満ちて、夕暮れの風が優しく頬をなでた。


 だけど――

 俺たちはこれから、大きな壁を乗り越えることになる。

 その壁の先に、もしもとても辛い結末が待っていたとしても――


 それでも、今はただ、手を取り合って進もうと思った。

 

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