社畜と魔女④
シュテフィと名乗る女はどんどん公園の奥へと歩いていく。
「おい、どこまで行くつもりだ」
「もう少し先だ」
「こんな時間にこんな場所で、あんたは一体俺に何をさせたいんだ」
「すべて今に分かるさ」
埒が明かない。仕方なく仁は前を行く彼女を観察した。
なんとか隙をつきＵＳＢを奪取して一刻も早くこの場から立ち去りたい。
年齢は二十代前半ほどに見えた。もしそうだとすれば仁より年下だ。しかし会話しているとまるで年上の女性と話しているようだった。それほどに彼女の態度は落ち着き堂々としている。情けないことに仁よりもずっと。
そしてやはり美しかった。時折外灯に白い横顔が照らし出される。その美しさは、端正な人形というよりも腕利きの彫刻家の傑作と言われた方がしっくりくる。決して完璧に整っているわけではないのだが、むしろそれが彼女の表情やしぐさと相まって血の通った人間の美を感じさせていた。気を抜くとうっかり見惚れてしまうほどの魅力を放っている。
美女と深夜の公園に二人きり。おまけに彼女からのお誘い付きときた。
見方を変えればロマンチックなシチュエーションのようにも思う。少なくともここ数年潤いのない仁の生活からすれば僥倖だ。
しかしそれは相手が自称異世界の魔女でなく、物質を取って脅してこない場合に限られる。
やがてシュテフィが足を止めた。目的地に到着したのだろうか。
仁たちの目の前には古い物置小屋があった。
元々は職員が公園を整備する道具を置く用途で使用していたのだろう、外壁にバケツやホースや竹箒などがかかっている。しかし現在は寂れていて使われているのかどうか怪しい。
シュテフィが小屋の扉の前に立ち、仁は身構えた。
扉を開けた瞬間に中から屈強な男たちが出てきたらどうする。俺の女に手を出しやがってと因縁をつけられたら？ この状況も美人局だと思えば納得がいく。そうなればもう逃げ場はない。
今が彼女からＵＳＢを奪って逃げ出せる最後のチャンスなのではないか？
しかし同時に、ここまでの道中でそれが不可能であることも分かっていた。
完全に背を向けているこの瞬間でさえシュテフィには恐ろしく隙がない。
彼女は扉に左手をかざすと短く告げた。
「同期」
次の瞬間、仁は思わず目を疑った。
小屋の扉が青白く発光を始めていた。瞬く間に扉に水面のような波紋が広がり光が溢れ出す。やがて一際大きく波打つ。
「開錠」
シュテフィが左手を薙ぎ払うように動かすと、ガシャンと錠前の外れるような音がした。光が黄金色に変わり、やがてキラキラと空気中に霧散する。
「さあ行こう」
振り向いた彼女にもはや仁は大人しく従うほかなかった。
たった今、信じがたいものを見た。
今のはなんだ？
シュテフィが扉を開ける。
扉の向こうは物置小屋ではなかった。
「――――え？」
仁は見覚えのある部屋にいた。
木とレンガを組み合わせた内装。入口から見て右側に光の差し込む大きな窓が、左側に火の消えた暖炉がある。扉を入ってすぐ右手に実験器具や書籍の詰まった本棚が並び、棚に入り切らない本が床まで侵食していた。本棚に囲まれるようにして古びた大きな木製の作業机がある。机には万年筆やインク壺のほか、得体の知れない粉末や液体が入った瓶、怪しげな道具、何の動物のものか分からない頭骨にもはや何がなんだかさっぱり分からないものまで置かれている。
そしてそれ以外の空いたすべてのスペースに所狭しと植物の鉢植えが置かれていた。
開けっ放しの窓から時折風が吹き込む。小鳥の鳴き声、木々のざわめく葉音。
「ここ知ってるぞ。金曜の夜、夢で見た――」
「やれやれ、やっと思い出してくれたようだね」
後ろ手に扉を閉めたシュテフィがわざとらしく恨めしそうな表情で仁の顔を間近で覗き込む。仁は慌てて視線を逸らした。
その瞬間、覚えのある香りがした。
「だがそれは夢じゃない。現実だ」
「ここは一体どこなんだ」
半ば放心したように仁は呟いた。彼女は楽しげに笑い、再び扉の取っ手に手をかける。
「聞くより見る方がずっといいだろう？」
扉の外は夜の公園ではなかった。
周囲一帯見渡す限りに緑の森が広がっていた。地面には仁の腰ほども高さのある草が生い茂りまるで草原のようだ。歩くたびに草に足をとられた。頭上から降り注ぐ陽光が木々の葉にトリミングされ、いたる所に陽だまりができている。吹き抜けていく風は知らない花の香りを乗せていた。どうやら雨の後らしく植物にビー玉のような水滴がついている。たっぷりと水を含んだ大地が呼吸しているのを感じる。それらが太陽に照らされてすべてがしっとりと温まっていた。
仁は木々の間に立ち、深く息を吸った。
全身が爽快感で満たされていく。
「ようこそ異世界リヒト――あるいは魔女の庭へ」
「魔女の庭……」
仁は言葉の意味を噛み締めるように呟いた。
地平線の彼方まで続いているかのような広大な土地、恵まれた気候条件。まさにここは、
「楽園だ」
そのとき近くの木から鳥の群れが一斉に羽ばたいた。十数羽の青い鳥たちが舞い上がり列をなして青空を横切っていく。
その様子を仁は目を細めて見送った。
「やはり、君なら気に入ってくれると思ったよ」
いつの間にかシュテフィが仁の隣に立っていた。彼女は一人で満足気に頷いている。
「ところで、本題に入りたいんだが――」
「と言いたいところだが」
え、ときょとんとした表情を浮かべるシュテフィに今度は仁が詰め寄った。
「八点だ」
「は？」
「あんたの庭、八点だ」
「そ、それは十点満点中の評価ということだろうか」
照れたようにもじもじするシュテフィに仁は全身の力が抜けるのを感じた。
こうなったら一つ一つ説明するしかない。
シュテフィを連れ立って一度家に戻る。
「この鉢植えたち、よく見てみろ」
そう言って仁ももう一度鉢を観察するが、やはり思わず目をそらしたくなるような惨状だった。
葉がしわしわにしおれているもの、だらりと茎が項垂れているもの、雑草に浸食され元の植物がどれだか分からない鉢、徒長し原型を留めていないもの、伸びきった蔓が絡まりボール状になっているもの──生きているものはまだいい方で、実際は全体の半分以上が枯死している。
「ここの植物は俺には見たことがない種類ばかりだが、元気がないということだけは一目で分かる。こいつらにはそれぞれ心地よく過ごせる環境があるんだ。合わない環境に置かれると元気がなくなったり病気になったりして最悪死んでしまう。外の草も放置しすぎだ。あれじゃ虫が湧くしそもそもまともに歩けないだろ？ 生態系のバランスが完全に狂ってる。元々植わってた植物はどこに行ったんだ？ 百点満点中八点だ！ むしろよく十点満点だと思えたな」
シュテフィの姿を視界に認め、仁はしまったと唇を噛んだ。
植物のことになるとつい熱くなってしまう。彼女は俯いていた。
「悪い。さすがに言いすぎた」
「ふふっ、いいんだ。君が気にすることはない。本当のことだしね。ただ、誰かにダメ出しされるなどかなり久しぶりの経験だったものだから。懐かしくて」
意外にもシュテフィは本当に落ち込んでいないようだった。彼女は目の前の長い葉を床に垂れた鉢をそっと手に取った。
「自分で言うのもなんだが、私は昔から何をやらせても優秀でね。大抵のことはなんでも人並み以上に出来てしまうんだ。見ての通り容姿端麗だし家柄も性格も頭もいい」
「ちょっと枕詞に甘えすぎじゃないか？」
「だが昔からどうにも植物の世話だけは苦手でね」
彼女は鉢を陽の当たる窓際に置いてやる。風が長い髪を揺らした。
