社畜と魔女③
その深夜、仁は三日ぶりに会社の最寄りの公園に立っていた。
控えめに言って最悪の一日だった。普段から決して良いわけではないが輪をかけて酷かった。
結局、今朝仁は一時間ほど遅刻して会社に到着した。
職場は都内のマンションの建設現場だ。現場といっても外仕事ではなく、敷地内に併設の事務所の内勤で図面を修正したり工事の段取りを組んだりしている。
常に期日に追われているという点では他のどの仕事とも同じだ。今日も業者相手のメールを返すだけで午前が終わった。
午後一の定例会では仁が来月の工程表を発表する予定になっていた。
二十名ほどが押し込まれた会議室。PCとモニターを接続し鞄のポケットを探ったときだ。
そこにあるはずのUSBが無い。
「あー。墨谷さ」
すみません、データの入ったUSBを自宅に置いてきてしまったみたいです。無機質にそう告げた仁に向かって放たれた、苛立ちと呆れの入り混じった所長の声が今も鼓膜にこびりついている。
「お前何だったらまともにできるの?」
冷笑。池に落ちた小石の波紋のように微かだがチーム内に広がっていく。哀れみの視線。そして自分が次にその立場になることを恐れる目。
結局仁は皆の前でミスの再発防止策の提出を命じられた。屈辱的だった。ただでさえ残業に押し潰されそうだというのに、加えて意味があるのか分からないような業務だ。唯一救いがあったとすれば、退室する際に普段から気遣ってくれるチームリーダーの先輩がそっと肩を叩いてくれたことぐらいだ。
人手の足りない現代社会では誰もが忙しくイライラしている。ましてやたくさんの部下を抱える所長のストレスは自分以上のはずだ。少々当たりがきついのも仕方がない。
必死にそう割り切ろうとするが、心に突き刺さった見えないトゲのようなものが抜けない。じくじくと痛む。ただの言葉だと分かっているのにデバフがかかったように体が重い。こういうときは切り替えようと思ってもなかなか上手くいかなかった。
咄嗟に自宅に忘れてきたと言ったが、USBの在りかは本当は別の場所に心当たりがあった。
おそらく金曜日に公園で落としたに違いない。
あのときはかなり意識が朦朧としていた。警察官に介抱されたとき荷物は何も身に着けていなかったため東屋が怪しいと思われた。
三日ぶりの公園は無人で涼しい夜風が吹いていた。先週吹雪いていた桜は早くも新緑の雰囲気を見せている。
夜の公園は昼間とは違い、例えようのない落ち着く匂いがする。
頼みの綱だった東屋の床にUSBは落ちていなかった。スマートフォンのライトを使いベンチの下や周辺の地面を何週も探したが見つからない。
ついに仁は地面にうずくまった。ほとんどここにあるだろうと思い込んでいたので途方に暮れる。絶望が一気に押し寄せてくる。
もし、見つからなかったらどうする。工程表を作り直すのに一体何時間かかるだろう。あの中には会社や仕事の機密情報が詰まっている。もし拾った誰かが情報を悪用したら? 競合他社に売ったりネットに流したりしたとしたら。
考えるだけで胃酸がこみ上げてくる。それにあの中にはもう二度と手に入れられないものも入っていた。
「お探し物はこれかな?」
初めは幻聴だと思った。疲労のあまり聞こえるのだと。しかし声は繰り返し話しかけ、あげく顔を伏せている仁の耳にふーっと息を吹きかけたのだ。
干渉してくる幻聴がどこにいる。
「のわあぁあっ!!」
「おや、やっとチャンネルが合ったか」
そのとき、ふわりと花の香が舞った。仁は顔を上げた。
目の前の外灯の下に女が立っていた。
蛍光灯に浮かび上がるきめ細やかな白い肌、焦げ茶色の長い髪はストレートで腰まである。女性のわりには背が高くモデルのようにすらりとしているが曲線美は確かだ。道を歩けば十人が十人振り返るような美人だ。日本人のようにも外国人のようにも見えるが、瞳は深い青だった。凡庸な公園の景色から完全に浮いている。
浮いているのは彼女の身体的特徴だけではない。彼女が身に着けているのはふんわりと袖がたわんだシャツ、目のやり場に困るような深いスリットがざっくりと開いたロングスカート。その上に着たコルセットベストがぴったりと身体の線を強調している。どれも重厚なデザインでまるで映画やゲームに出てくるスチームパンクの世界観のようだ。都心の一角の公園から完全に浮いている。
コスプレイヤー、あるいはコンカフェ嬢か?
どちらにせよ関わらない方がいい。
仁の思惑と裏腹に女はふっと笑みを浮かべた。
「随分探したよ。もっと早く戻ってくると思っていたんだが」
「……俺?」
関わらない方がいいと分かっているのに話しかけられると無視することができない。悪い意味で自分の人の好さが恨めしくなる。
「そう君を。君の力が必要なんだ」
「…………なんで?」
警戒心より好奇心の方が勝った。
仁の覚えている限りこんな美人と関わった記憶はない(あれば忘れないはずだ)。気になると同時に騙されるなと頭の中でもう一人の自分が喚起している。冷静になれ、何か裏があるに決まってる。お前と関わったところで彼女に何の得がある?
ふむと女は少し考える素振りをした。
「口頭で説明するよりも実際に見てもらった方が理解が早いだろうね。翡翠竜の話を百篇聞くよりもメリージュ山に登れ、だ。君、ちょっと着いてきてくれ」
「なんて?」
言うが早いか彼女は仁の手を取り立ち上がらせると公園の奥へと引っ張っていこうとする。冷たく柔らかいその手を仁は慌てて振り払った。
「いや意味が分からん。常識的に考えて着いて行くわけないだろ。あんた誰なんだよ」
「おっとこれは失礼。とっくに名乗った気でいたよ」
彼女は一瞬あっけにとられた表情をしてから可笑しそうに笑った。仁からすれば全然笑い事ではないのだが。改めてこちらに向き直る。
「私はシュテファニ・リュッゲベルク。簡潔に申し上げると魔女だ。君の立場から見れば異世界からやって来たということになるね。気軽にシュテフィと呼んでくれ」
仁の脳内にこれ以上ないほどの激しさで警鐘が鳴り響いていた。
話してはいけない人だ。
一刻も早くこの場を離れるべきだ。
仁は無言で踵を返した。
探し物の続きは諦めるほかない。どのみちあれだけ探して見つからないのだからきっと別の場所にあるのだろう。帰ったら部屋を探してみよう。あのときは緊張していたため見逃したが本当は鞄の中にあるのかもしれない。
進行方向の木の陰に人影が立っているのが見えた。こんな時間に? 目をこらして仁はぎょっとした。
今さっき背を向けたはずの女が立っている。
彼女は困ったような顔で仁を見ていた。
「あまりこういう手段は用いたくないんだが。君に選択肢はないんだよ。だってこれが必要だろう? 墨谷仁」
彼女が指先に摘まみ上げているものを見て仁は目を見開いた。
USBだ。
「なんであんたがそれを持ってるんだ。それに俺の名前」
「三日前の夜、君が落としたんだ。名前は中のデータに書いてあった。むしろ拾っておいてあげたのだから感謝してもらいたい」
「ありがとう。返してくれ」
「もちろん返すとも。でもその前にお礼に私に付き合ってもらおう」
言うなり彼女はさっさと歩き始めた。
仁は頭を抱えて呻いた。こうなれば言うことを聞くほかない。