少女と死神⑩
「どうしたの」
見守っていたアンネが不安そうに覗き込んだ。
ジンは木槌の柄を口にくわえた。手頃な枝に手をかけて身体を持ち上げ、節に足をかけてよじ登る。本来なら安全帯をつけてする作業だが考える余裕もない。
そんなことは有り得ない。健康な褐色の幹まで登り、再度叩く。
先程と同じような長い反響音が返って来た。
まさか。
――不思議だろう――
アルドスの声が響いた。
――あまりに長く生きていると、本来は有り得ないことが起きる。魔法が使えたり人間と意思疎通が図れたり、あるいは死の淵にありながら生き永らえたり――
「そんな……」
幹を叩いて返ってくる反響音は空洞の証明だ。
アルドスの身体は既にほとんど空洞だった。枯れるどころか本来なら自立していることさえ不可能だ。
――君のいた世界ではそういうことはなかったか――
思わずジンは木槌を取り落としそうになった。なぜ異世界から来たと分かったのだろう。同時に自然と納得している自分もいた。
「……あるかもな」
キリスト教などの一神教と違い、日本には万物に八百万の神が宿るという神道が存在する。また古くから寺や神社に生えている木は御神木と呼ばれ、人々の崇敬の対象になることもある。
魔法が存在するこの世界で何百年ではきかない歳月を生きてきただろうアルドスが、霊的な力に目覚めていたとしても不思議はない。
今は君だけに話している、と前置きしてアルドスは言った。
――仲間は皆滅んだ。私で最後だ。近いうちに私も朽ちる。唯一の心残りがあの子だ――
「ああ。分かった」
ジンは即答した。
ジン自身まだこの世界のことをよく知らないうえにアンネ本人の意向もある。具体的な計画は無かったが、この一件が終わったからといって身よりのない子供一人投げ出すつもりもなかった。
感謝するとアルドスは言った。
――生きたまま体を蝕まれるのは楽ではない。苦痛を終わらせてもらえれば助かる――
「………………ああ」
会話を終えるとジンは地面に下り立った。
「アルドス、どう? なにすればいい?」
無邪気に問いかけてくるアンネを見ると一層胸が締めつけられた。どう伝えるべきか迷い、誤魔化すべきではないと思った。
「アンネ。ごめん」
「え……?」
「アルドスは助けられない」
一瞬アンネの表情が硬直し俄かに曇る。最後の梯子を外されたような絶望がありありと少女の瞳に映るのをジンは見た。
「いや……いや」
いつの間にかシュテフィが幹の近くに立っていた。
彼女は鞄からある小瓶を取り出した。中に鮮やかで透き通ったルビー色の液体が入っている。
「これは生命活動を停止させる魔法薬だ。苦痛はなく、数秒で眠るように事が終わる。一瓶で十分に効果がある。土に染み込ませた後に、私が魔力を注ぐことで術式が発動する」
「そんなのつかわないで!」
アンネが彼女の腕に飛びつき小瓶を奪い取ろうとした。シュテフィは押し黙ったまま小瓶を固く握り締めている。
――アンネ――
アルドスの呼びかけに彼女は顔を上げた。
――来なさい――
アンネはふらふらと幹に近づくとぺたんと地面に腰を下ろした。アルドスに縋りつくとわっと泣き出した。
泣きじゃくる小さな背をジンはじっと見つめていた。
自分にできることは何もない。
ああして今、彼女は大事な者の死を受け入れようとしているのだろう。
アルドスはきっと彼女にしか聞こえない言葉をかけているに違いない。
前に進むために必要な別れの時間だ。
二人の様子をシュテフィも黙って見つめていた。
やがてアンネはすっくと立ちあがった。両袖でめちゃくちゃに顔を拭う。もう泣いていなかった。
「処置をする前に一つ尋ねたいことがあります」
ふいにシュテフィが切り出した。彼女は何か重大な決意をするように深く息を吸い、吐き出すように言った。
「あなたは私に言いたいことが山ほどあるはずだ。どうして何も言わないのです」
短い沈黙の後、アルドスは言った。
――お嬢さん。それは自惚れがすぎるというものだ――
森に再び風が吹いた。今度は優しい風だった。いつの間にか分厚い雲は流れ去り、西の空からピンクがかった陽光が差している。
――三千年の時をこの場所で過ごした。諸君らには想像もつかない悠久だ。人間同士の争いも幾度も見た。多くの命が散り、生まれ、散り、生まれ、そしてまた散っていった。歴史というのはその繰り返しだ。全ては大いなる世界の流れが自らもたらした出来事とその結果だ。たかだか生まれて二十年程度の人間一人に何が出来る――
「ですが……私は」
――後悔は贖罪にならない――
何かを言いかけていたシュテフィは、はっとして口をつぐんだ。下唇を噛んで押し黙る。
風がジンたちの間を通り抜けていく。
――その答えが知りたいのなら、生きることだ。ただ生きることでしかたどり着けない。ただし人は一人では生きられない――
なんとなくアルドスがこちらを見たようにジンは感じた。
シュテフィは視線でアンネに尋ねた。アンネはこくりと頷いた。再び涙が頬を伝っていた。
シュテフィが小瓶の栓を抜く。ジンは瓶に手を伸ばした。
「俺がやる」
望まれたこととはいえ誰かの生命を奪うこと。その重荷を彼女だけに背負わせるつもりはなかった。
目を合わせるとシュテフィは少し躊躇ったが瓶を手放した。
ジンは一息に瓶を傾けた。赤い液体は西日の中で一瞬きらめき、すぐ乾いた地面に消えた。
シュテフィの詠唱が森に響き渡る。
「森の精霊、大地の精霊、水の精霊、空の精霊よ――彼の者の体を放し、魂を導きたまえ。然るべき巡礼の地へと」
「アルドス……ありがとう。じゃあね」
アンネが小さな手でそっと幹に触れた。
シュテフィがかがんで地面に手のひらを着いた。
数秒後、頭上からばさりという音がした。
アルドスの枝に残っていた葉が一斉に散る音だった。
遠目に見たときは少ないと感じたが、こうして舞い落ちてくるところを見ると相当な量だ。森中の風が木々の間を駆け抜け竜巻のように落ち葉を巻き上げる。
まるでアルドスを弔うかのように。上から下から吹雪のように飛び交う葉に視界が閉ざされた。
――アンネ――
散り乱れる葉の渦の中に声が響く。
――泣くな。泣くな、泣くな。私はいつもお前と共に在る――
「うん」
びしりと鈍い音がして、めきめきと不安になるような音が続いた。
巨大な影がゆっくりとこちら側への傾くのをジンは認めた。大樹が根元から折れようとしている。
「倒れるぞ離れろ!」
ジンが叫ぶと同時に大樹の導線上に立っていたアンネの元にシュテフィが飛び込むのが見えた。
数秒後、凄まじい轟音と地響きと共に大樹が倒れた。
意思を持つかのように飛び回っていた無数の葉がひらひらと地面に落ちる。
「おい、無事か!」
「――――無事だ。二人ともね」
倒れた大樹の向こうからシュテフィの声がした。ジンはほっと胸をなでおろした。
アルドスは根元から折れてしまっていた。あらわになった幹の断面はぽっかりと空洞が空いていた。ほとんどハリボテだ。
アンネを心配するあまり気力だけで持ちこたえていたのだろうか。
二人の元へ行こうとジンは大樹を回り込んだ。
根元から折れたといっても倒木株だけでジンの身長をゆうに越える高さだ。裏側へ回ったとき、ふとあるものが目に留まった。
今まで気がつかなかったが木の根元に洞がある。小型犬ほどの大きさの動物の巣穴のようだ。中に何か落ちている。
「人形……?」