社畜と魔女⑮
「まったく信じられないよ。これから生きる世界を変えようというのに、元の世界で借家の退去や町の転出手続きをしっかりする奴があるかい? おかげで今にも波長が変わりそうだ」
出発の日、公園の入り口で数週間ぶりに顔を合わせたシュテフィは開口一番呆れたように言った。
「仕方がないだろ。後の人間が困らないようにするのは人として当然の礼儀なんだよ。立つ鳥跡を濁さずって言葉知らないか?」
「旅立ちは霧妖精のように、と同じような意味か?」
「多分そうだ」
「そうは言ってもね。私も詳しくはないが、なんとなく異世界転移というのはもっと着の身着のままで手軽にぽんとやって来られるようなものだと考えていたよ」
「そういう例もあるのかもしれないが……性分なんだよ。言ってくれるな」
言い返しつつ、仁はあながちシュテフィの言い分も間違っちゃいないなと苦笑した。
淡い橙色の西日が町全体を包み込む頃、公園の入り口に姿を現した仁といえば、着られるだけの衣服を着こみ、この日のために通販で買った巨大な登山用リュックを背負い、両腕にボストンバックを提げていた。極めつけに積載量ぎりぎりの台車を押している。
これでも仁なりに異世界に持っていくものを厳選したつもりだった。
PCやスマートフォンに始まる機械や家電の類は、異世界リヒトではオーバーテクノロジーを引き起こす恐れがあるので一切置いていく。その代わり本は多めに持った。植物の図鑑や技術書はネットが使えない環境では貴重な情報源だ。あちらでは異国の書物に見えるだろうが不自然ではないはずだ。それから衣類。リヒトの気候の振り幅は分からないが氷鳥と呼ばれる鳥がいるくらいだ。薬の材料を求めて氷点下の地域に行くこともあるかもしれない。衣服は向こうでも手に入るだろうがあるにこしたことはない。歯磨き粉に歯ブラシ。見知らぬ土地で虫歯になるのは辛い。醤油、味噌。長期の海外滞在で日本の味が恋しくなるというのはあるあるだ。
鞄の中身は雑多だったが台車に積まれているのはほとんどが植物の鉢だった。
沈黙の蔦はジュエルオーキッドやアイビーの知識があったから生息地を見つけることができた。仁の植物の知識はこちらの世界の植物に基づくものだ。それらを異世界に持ち込むことはリヒトで庭師として働く上でに役に立つ──というのが一応の大義名分だったが、実際は苦しい言い訳だった。
本来なら持ち込むべきではないと仁は考えている。
こちらの世界の植物はリヒトにとっては外来種だ。外来種の持ち込みは既存の生態系を破壊することに繋がる。当然、管理下から出さないよう細心の注意を払うつもりでいるが、少量の植物の胞子が服に付いたり風に乗ったりして外へ出ていくことを完全に制御することは不可能だろう。そもそも植物はそうやって生態系を広げる生物だ。本当なら持ち込まないのが正しい。
大いに悩んだが、結局仁は一鉢も置いていく選択ができなかった。正しさより個人の情を優先したことになる。
たとえ互いに言葉を交わせなくとも仁にとっては大切な家族だ。
それを知ってか知らずかシュテフィは大量の鉢を目にしても何も言わなかった。ただ珍妙なものを見る目で仁のリュックに付いているキーホルダーを手に取った。
「なんだこれは?」
「目聡いな。それは十徳ナイフだ。その一本でナイフ、ペン、ハサミ、缶切り、コルク抜き、ペーパーナイフといろいろ兼ねている道具だ。便利だろ」
「はぁ……前から思っていたが、君ちょっとスケールが小さいんじゃないか?」
「誰が小さいだ。小さいって言うな。繊細と言ってくれ」
仁は心外とばかりに反論した。
「大体俺が繊細じゃなかったらこんなに植物の世話も上手くないだろうよ。お前こそ物差しの目盛りが大雑把すぎるから枯らすんじゃないのか」
「言ってくれるね。その様子だと大分調子が戻ってきたようだ」
前を行くシュテフィが逆光の中で笑った。仁はなんとなく負けたような気持ちになる。
最初に二人で公園を歩いたときのように仁は彼女の後ろについて歩いた。
「ところで計画は上手くいったのか?」
「……ああ」
仁は数週間前の出来事を思い返した。
あの後、労働基準監督署と警察が乗り込んできた現場事務所は大騒ぎになった。警察を通して本社にも連絡が行き、会社のお偉いさんと所長が事情聴取のために連行されたらしい。
あの日、所長に話しかけられていた同僚がそのことを仁に教えてくれた。現場は労基の命令でしばらく作業を止めざるをえないということだ。その分工期が厳しくなるが、一人当たりの作業量を増やすのではなく人員を増やしたり遅延金を支払ったりすることで対応するという。警察と労基の目が光っているため労働環境は即座に改善された。今では少し残業していると早く帰れとどやされると彼は笑った。
ちなみに所長は本社に転勤になったそうだ。本社というと聞こえはいいが、実際は同じ過ちを繰り返させないための処置で平社員として監視の対象らしい。つまり左遷だ。
思いがけなかったのは同僚たちの協力だった。
あの後、事務所を出た仁の後を同僚たちがすぐに追いかけてきた。
ハラスメントの証拠データを自分たちにも渡してほしいという申し出だった。
橘を守るために戦う材料にさせてほしいと。
仁としてはデータを橘の妻に渡すつもりでいた。悪質な労働環境の証拠は裁判を有利に運ぶ材料になるだろう。しかし異世界へ行く仁に出来るのはそこまでだ。自分が加担した戦争の後処理をせずに逃げることを後ろめたく感じていた。だから同僚たちの申し出はとても有難く心強いものだった。
今まで彼らに薄っすら感じていた壁さえ悪質な環境が見せていた錯覚だったのかもしれないと思った。少なくともあの瞬間、仁たちは確実に同志だった。
橘の脅迫やハッキングは罪に問われるだろう。しかし全てが明るみに出れば情状酌量の余地はあるはずだ。仁が去っても、残された同僚たちが橘とその家族を支えてくれる。
そんな折、橘が意識を取り戻したという連絡が入った。仁はもう思い残すことなくスマートフォンを解約した。
夕闇の中にすっかり見慣れた物置小屋が立っていた。
シュテフィが扉に手をかざし、念を押すように振り返って仁を見た。
「いいか?」
「ああ。やってくれ」
「同期」
彼女の言葉と共に扉が青白い光を放ち始める。波長が合うまでに今までの数倍時間を要した。
「開錠」
ガシャリと錠前の外れる音がして溢れ出る光が黄金色に変わった。いつもと違い今日の光は散り散りになることなく燃え盛る炎のように扉から迸っている。
シュテフィの声に焦りが滲んだ。
「火竜の心臓だ。扉が閉まるぞ」
二人がかりで台車を持ち上げ扉の向こうに力任せに押し込む。仁はバッグを扉の向こうに放り込んだ。シュテフィが先に入り、仁が扉に手をかける。
「光が消えるとどこでもない場所に取り残される」
「ああ」
仁は扉の向こうに目をやった。
夕方の景色は一瞬で変わる。いつの間にか陽が落ちて藍色の夜が空を染め始めていた。遠くで電車の音が聞こえる。誰かの笑い声がする。止まっているような春の宵の空気が辺りを満たしている。
仁が最後に見るこの世界の景色だった。
「それじゃあな」
誰にともなくその言葉が出た。
扉を閉めた瞬間、光が散り散りに霧散し、巨大な窓ガラスが粉々に割れるような音が響き渡った。
世界の周波数が切り替わり波長が途絶えたのだろう。本当にぎりぎりのところだったらしい。これで永遠に元の世界との繋がりがなくなった。
後には夜明け前の静寂だけが残された。
「感傷で涙が出そうというのならまた手を貸そうか?」
一瞬、彼女が何を言っているのか分からなかった。言葉の意味が分かったとき仁はがくりとうなだれた。
「お前なあ……! あのとき俺がどんな気持ちで」
お前に感謝してたと思ってんだよ。
その台詞はシュテフィの左手によって物理的に押し留められた。彼女は魅入られたように窓の外を見つめている。右手で何かを指し示し、小声で囁いた。
「ジン」
仕方なくジンは彼女の指先を目で辿った。今、地平線の彼方に上り始めた朝日に向かって、一斉に飛び立つ五羽の青い鳥の背中が見えた。