第14話
東條の部屋に戻ると、東條は懐中時計を丹念に磨いていた。執事に手入れをさせないのかと思ったが、存外まめなところがあるようだ。
「おや瑞祥君、どこに行っていたんですか」
おれは少し考え、銀烏涙の件だけを東條に話すことにした。小夜子との関係や前の婚約者のことは、軽々しく問いただせるような問題ではない。迂闊に東條を刺激して、小夜子を傷つける結果になることは避けたい。
「……黒岩の目的が分かった」
東條は手を止めて俺を見る。
「この館に銀烏涙という宝石があるそうだな、奴はそれをお前から強請取ろうとしている」
東條はなるほどと小さく呟いた。再び時計を磨き始める。
「それは困りましたね、私はあいにくとあれの場所を知らないのですよ。父がどこかに仕舞ったんだとは思いますが、これでは差し上げられません」
久世君なら分かるかもしれませんね、という口調がどうにも呑気で、おれはつい苛立った。
「家長のお前が知らなくてどうする、高価なものではないのか」
「ええ、それはもう。その辺りの一般人なら一生不自由なく暮らせるくらいのものでしょうね」
ですがねぇ、結局はただ美しいだけの石ころです。東條は事も無げに言ってのける。
「当家の資産全体に対しては、何百分の一かの価値しかありません。しかも、それ自体富を生むような性質のものではありませんしね。これが純金なら、まだ投機のたねにもなったのですが」
ぬけぬけとした言い種だが、東條の言わんとするところはなんとなく察した。ある意味黒岩の言う通り、東條は小夜子のためなら、そんな宝石は弊履のごとくに投げ出すだろう。とはいえ、強請屋に餌をやるのが今後のためになるとも思えないが。
東條は磨き布を置き、ぱちんと時計の蓋を閉じた。鎖を丁寧にジレに留め、時計を胸に仕舞う。
「あれは多分、父が使っていた部屋のどこかにあると思います。今その部屋は珠名君が使っていますが。鍵も彼女に渡してあります」
「珠名が? 何故だ」
「小夜子君の部屋の隣なんですよ。最初は私が使う予定だったのですが、自分がつきっきりで小夜子君の面倒を見たいからと追い出されてしまいました」
おかげで私はこの客間暮らしです、と東條は両手を広げて苦笑した。なるほど、小夜子が離れた部屋にいた理由が分かった。
東條は部屋の中にある扉を指差した。
「あれは浴室です。この家にはすべての客間に浴室がついていますが、小夜子君と珠名君がいる部屋は浴室を共有しています。あんな風に二つの部屋をつなぐ内扉があって、そこから行けるんですよ」
確かにそれならつきっきりで小夜子の看護ができそうだ。おれは珠名の行動力と献身ぶり、そして東條の呑気さに舌を巻いた。
「いくらお前にとって大事なものでないとはいえ、そんな高価な物があるかもしれない部屋を、あっさりと他人に明け渡すとはな」
「はは、珠名君にはそんな心配は不要ですよ」
東條は笑って手を振る。
「珠名君の家も、我が家に勝るとも劣らぬ資産家です。あの程度の石に変な気を起こしたりはしません。彼女はこの別荘にも何度か遊びに来てくれていますが、その類いの不祥事は一切ありませんよ」
そういえば黒岩は、藤原の家と東條の家に金融業を巡る長年の確執があるとも言っていた。今のかれらを見る限りでは信じがたいが、珠名の実家もなかなかの分限者なのは本当なのだろう。
「それに本当に大事な物はこうして、肌身離さず持ち歩いていますから」
東條は片眼をつぶると、先程の懐中時計の鎖をつまんでみせた。しかし、東條が大事にするだけあって良い品なのだとは思うが、件の宝石ほど高価な物には見えない。金持の価値観は分からないものだ、おれは小さく鼻を鳴らした。
「そういう問題か? 曲がりなりにも主人を主寝室から追い出すとはな。お前は珠名に随分と我儘放題にさせているようだ」
「いえいえ、とんでもない。珠名君には本当に助けられているんです」
東條は小さくかぶりを振る。
「彼女は本当に優れた才女ですし、小夜子君も頼りにしています。まさか、年の暮れにこんな山奥まで着いてきてくれるなんてね」
私ではあんな風に行き届いた目配りはできません、本当の意味で小夜子君の助けにはなれませんから。そう東條は笑ったが、その笑みにどことなく自嘲の気配が感じられた。この男なりに、妹を妻にしていることに負い目があるのだろうか。
「珠名君が変わらず小夜子の友だちでいてくれて、本当に感謝しているんです。それに二人の仲の良さは羨ましいくらいですよ。いつまでもあの二人には親友でいてほしい」
東條は目を伏せた。相変わらず微笑んではいるが、とても寂しそうな眼をしている。不意に巨大な崖の縁に行き当たったような気がして、おれはつい言葉に詰まった。おれとかれとの間に、底なしの奈落が口を開けている。
欲しいものをすべて手に入れているはずの彼のどこに、こんな孤独が潜んでいるのだろうか。おれはろくな相槌も打てないまま、しばらくその沈黙に呑まれていた。