13話(4)
◇
星暦一八七六年六月二十三日。時刻は朝の六時丁度である。
「ん……」
その目にちらつく眩しさで、ロコ・ルーチェは目を覚ました。まだぼんやりとする目で明かりの原因を探せば、カーテンの隙間から朝日が漏れているのが見えた。
「……また寝ちゃった」
そう呟きながら体を起こす。と同時に、背後に積まれていた本の塔が揺らぐ。
「あ……」
気付いた時にはすでに埋もれていた。バタバタと大小様々な本が床へ、ロコへと大量に落ちたようだ。自分を中心に、小さな本の山ができている。
「……ったい」
少しだけヒリヒリする頭を擦りながら、ロコはフラフラと立ち上がり部屋を出た。
下から漂う朝ごはんの香り。それに鼻をくすぐられながら階段を降りる。
「おはよう、ねぇさん」
ロコに声をかけられ振り返る女性。エプロンを身に着けた金髪青眼の彼女は、ユリャ・ルーチェ。ロコが幼い頃から、ずっと面倒を見てくれている近所のお姉さんだ。
「おはよう。あなたまたベッドで寝なかったでしょう。上から大きな音がしたわよ」
「もう」と頬を膨らませながら、ユリャはお茶を飲むのを一旦止め、ロコへ近寄った。それからピョコリと跳ねているロコの寝癖を治そうと、頭を撫でるように触る。
「読書家なのは嬉しいけど、寝る時はちゃんとベッドで横になりなさい。髪も乾かして歯も磨くこと。明日は成人式なのよ? 大人になるのよ?」
「わ、わかってるよ」
「本当に?」
心配そうにするユリャに「うんうん」と大きく頷く。そんなロコの耳に、青年の笑い声が聞こえた。
「騙されんなよユリャねぇ。そいつわかってねぇぞ」
二人の間に入ってきたのは灰髪青眼の男、カイ・ルーチェ。ロコと最も年が近く、幼い頃はよく一緒に遊んでいた幼馴染である。
「昨日まで男の誘い方も知らなかったお子様に、ルーチェとして大人になるって意味をすぐに理解できるわけねぇだろ?」
木製の椅子に座ったままニヤリとするカイに、ロコは顔を真っ赤にしながら言い返す。
「う、うるさい! おお男の誘い方なんて、そんなの知らなくても生きていけるから!」
「生きてはいけるが、パートナーがいないと寂しいもんだぞ」
「べ、別にいいもん! 一人だって生きていけるし!」
「どうだかなぁ……。ユリャねぇに家事を任せてるお前に、一人暮しなんてできるもんかなぁ?」
「バカにしないで! できるから! なんなら今から部屋の掃除して――」
「はいはい」と言いながら、ユリャは手を叩いて二人を止めた。
「まずは朝ごはんを食べましょう。部屋のお掃除はその後ね」
ニコリと微笑むユリャに、二人は「はーい」と大人しく返事をする。
これがロコの日常だった。母のような近所のお姉さんと、兄のような幼馴染。二人と過ごす毎日が当たり前で、たとえ喧嘩をすることがあっても、いつの間にかそれが笑い話になっている日々。そんな平凡な時間が明日も来ると、ロコは信じていた。
「…………ん」
星暦一八七六年六月二十四日。時刻は朝の六時丁度である。
ロコはそっと目を開け「あぁ……」と小さな後悔をもらした。本に埋め尽くされている視界によって、床で寝てしまったことに気付いたのだ。
「またやっちゃった……」
目をこすりながら一人呟くと、ロコは足元に転がる本を避けつつ部屋を出た。だが階段に近付いた所で、一瞬立ち止まる。鼻をくすぐるものがない。小さな違和に首を傾げつつも、ロコは下の階へ向かった。
冷たい石壁を伝いながら一階へ降りリビングを覗くが、やはり誰もいない。天気の良い日には必ずと言っていいほど外へ干される、パッチワーク製のラグやブランケットは定位置に置かれたまま。窓際に飾られている鉢花も、普段ならユリャが水を与えているはずだが、そこに潤いはない。
「どうしたんだろ?」
ロコが不安を呟いた直後、わずかな揺れと共に小さな異音が聞こえた。遠くで何かが爆発したような曇った音だった。
「何っ……?」
普段とは明らかに違う朝。ロコは恐る恐る玄関へ向かい扉をあける。目の前に見えたのは、木々の間から空へと舞い上がるいくつもの黒い煙だった。煙に紛れて、チラチラと黒く小さな欠片が風に煽られている。何かが焼けたようなそれは、呆然と立ち尽くすロコの頬を何度かかすめた。
村からやや離れているロコの家からは、その程度の異変しか見えなかった。これ以上のことは、村の中心部へ行かなければ分からない。だがロコは、すぐに動くことができなかった。
「ロコ‼」
その叫びにロコはハッとして、声のした方へ目を向ける。
「ね……」
上手く声が出ない。そんなロコへ駆け寄ると、ユリャは立ち止まることなくその手を掴み、村とは反対にあるルーマの森へ向かって走った。
「……ね、ねぇさ――」
「喋らないで! とにかく走って!」
言われるがまま、ロコはユリャと共に木々の間を駆ける。
村の女は家を守るのが仕事。ゆえに、ロコやユリャが森の中に入ることは滅多に無い。だというのに、ユリャは道が分かっているかのように進んでいく。木の根に足が取られることも、生い茂る草木によって体に傷を作ることもない。誰かが切り開いただろう道を、右へ左へと曲がりながら、ユリャはロコを連れて走っていく。
「“――死界の泉”」
男の声が聞こえた直後、二人は半透明の黒い球に包みこまれた。すぐにユリャは魔法に触れ浄化する。だが遅かった。二人の前には、すでにその男が立っていた。
「ご同行願おうか」
静かにそう話すのは、濃い緑色の服に身を包んだ緑眼の男――ルガーノ・トゥリール。剣と刀を右腰に携えているものの、その手には何も持っていない。どうやら一人で来たらしい。森の中に味方らしき人影はなく、周囲はとても静かだ。
ユリャはルガーノから目を離さないまま、そっとロコを守るように後ろへ隠す。
「その前に、あなたを彼らの指揮官とお見受けし、お願いしたい事があります」
ルガーノは、ユリャの背後で小さくなっているロコに一瞬目を向ける。
「聞こう」
「私の背にいるこの子を助けてください」
「ねぇさん!」
駄目だと言わんばかりに、ロコはユリャの服を強く握り引っ張った。しかしユリャは動じず、決してルガーノから目を離さない。
「この子は、ルーチェの中でも特別強い力を持って生まれました。その影響により、ただでさえ短命な我々よりも早くに寿命を迎えるでしょう。おそらく、五つ年の離れた私が彼女を見送ることになります」
「残り数分の命を数年に伸ばせ。そういう願いをしているのか?」
「いいえ」
ユリャはルガーノの前に跪いた。
「今この場で、この子一人を見逃してください。次に彼女と出会った時は、殺していただいてかまいません。一度きりでいいのです。私の命と力を引き換えに、この子を助けてください」
凛とした青い瞳で、ユリャはルガーノへ懇願した。その眼に恐怖はない。
「や、だ……」
ロコはユリャの目の前へ出ると、彼女を守るように抱き締めた。
「やだいやだ! 死ぬならねぇさんと一緒がいい‼ 一人は嫌っ、一人にしないで‼」
涙を零しながら訴えるロコの背を、ユリャは優しく撫でる。
「駄目よ、お前は逃げなさい」
「どうして‼」
「私が、お前に生きていて欲しいと思っているからよ」
ユリャは抱きついて泣きじゃくるロコを強引に引き剥がすと、そっと涙を拭ってやった。
「私は十分に生きた。お前が知らない楽しいことも沢山経験した。だから、今度はお前の番なんだよロコ」
ロコは否定するように強く首を振る。
「いらない。そんなのいらないよ。ねぇさんとカイがいないなら、私は何にも楽しくないよ」
少しだけ困ったように笑うと、ユリャはロコの頭を優しく撫でた。
「今は辛いかもしれないけれど、生きることは楽しいで溢れているんだよ。お前のねぇさんが言ってるんだから、信じて」
そう言ってロコへ微笑むと、ユリャは立ち上がりルガーノの前へ歩み出た。
「一度だけだ。次は無い」
「かまいません。行きましょう」
ユリャの言葉にロコが振り返った瞬間、ルガーノは詠唱を始めた。
「“錠を解け 開けよ扉 魔を喰らい 彼の地へ誘え 異界の鍵は我の手に”」
ルガーノとユリャの前に、光々しい緑色の扉が現れた。
無属性魔法 異界の扉。通称、転移魔法。個々の魔力と同じ色の扉が出現し、術者及び術者が許可した者、またはその双方を別の場所へ移動させる。移動先は、術者が行ったことのある場所のみ。詠唱を破棄した場合には、扉が現れず早く魔法が発動する代わりに、魔力も節約されてしまう影響で自分を含め二人ほどしか同時に転移ができない。
音もなく、ゆっくりと開かれる扉。その先は白く何も無い。そんな行き先のわからない扉へ、ユリャは躊躇なく歩を進めた。
「ねぇさん‼‼」
「ロコ」
叫ぶロコに、ユリャは笑顔で振り返る。彼女の長い髪を彩る、魔石を使って作られた紫の髪留めが小さく光った。
「成人おめでとう。大好きよ」
大切な人を引き止めようとロコは足を動かしたが、もつれて転ぶ。役に立たない震える足に苛立ちながら、それでも必死に手を伸ばすロコ。しかしその手は、指は決して届かない。
ユリャ・ルーチェは、ロコの目の前でルガーノと共に扉の中へ消えて行った。
魔法が光の粒として散り完全に解けた瞬間、ロコの想いは弾ける。
「っ……あああぁぁぁぁああぁぁぁぁあぁぁぁー‼‼」
◇