1話(3)
◇
男と女の子が路地裏から出ると、そこは人の川だった。向かい側へ渡るどころか、入ることすら危険そうな川が、帝都の大通りに出来ている。
「通れそうにないですね。退かしましょうか?」
頬に手を当て困った顔をしながら、黒髪緋眼の女の子――アリアはちらり隣を見た。
「必要ない。こうなる事はわかっていた」
白髪緋眼の若い男――リンは少し上へ目を向ける。
こちら側と向かい側の建物の間。大通りの真上にかけられた布には「歓迎 勇者御一行様」と書かれていた。他にも、大通りに面した建物の窓からは「おかえりなさい」「ありがとう」などと書かれた布が垂れている。
星暦一八七六年七月二日。その日、シャレン通りは人で溢れていた。というのも、魔王征伐の旅に出ている勇者一行が、今日ルーセンドルプ帝国の都を訪れると、少し前から国中で噂されていたのだ。故に、数百年に一人という奇跡の人を見るため、都で一番大きい道であるこのシャレン通りには、朝から人が押し寄せている。
「勇者様がいらっしゃるとはいえ多すぎますよ」
アリアは「ふんっ」と背伸びしてみるが、その高さは大して変わらない。ジャンプもしてみるが、長い黒髪と白黒のメイド服が揺れるだけ。
「何も見えませんね。リンさん、肩に乗せてください」
「断る」
リンの素っ気ない返事に、アリアはぷくっと頬を膨らませた。だが目の前のシャレン通りを眺めているリンに、アリアの可愛らしい仕草は映らない。
「女の子を肩に乗せられるんですよ?」
「アリアは女の子と呼べる年齢ではない」
「失礼ですね。私は――」
アリアが反論しようとしたその時、シャレン通りに歓声が響き渡った。リンとアリアは、声が聞こえてきた方向――シャレン通りの南へ目を向ける。いつの間にか人の川もその流れを止め、多くの人々が南を向いていた。
遠くからでもよく見える、真っ白な高い壁と水色の門柱。門柱には青地に白い獅子と剣が描かれた紋章――帝都と外を繋ぐ唯一の門たる証が堂々と飾られている。
「間に合ったみたいだな」
路地裏から聞こえた声に、アリアは口元を緩ませ振り返る。
「五分遅刻ですよ、マスター」
マスターと呼ばれた青年が薄暗い道から一歩踏み出すと、その青みがかった黒髪と銀灰色の腰布が風に揺れた。
「それくらい平気だろ。あの勇者一行を傷つけられる人間なんていないしな」
そう言って、ユニリスタは眼鏡を軽く押し上げる。
「あら、そんな事言っていいんですか? 誰かに聞かれていたら『魔法使いが仕事を怠けようとしている!』などと噂され、また呼び出される可能性がありますよ。次は保護者同伴で」
「一番の問題児がずいぶん余裕だな。今後一件でも苦情があれば、俺は魔法師になるどころか協会から追い出されるかもしれないんだぞ」
「それ前月も――」
何か言おうとするアリアの頬を、ユニリスタが軽くつまんで横に伸ばす。直後、また歓声が上がった。それは始めに聞いた歓声よりも大きく近い。
声の方向を確認すると、ユニリスタはアリアから手を離した。
「仕事だな。アリア」
「はい! 周囲に殺気は感じられません!」
「リン」
「事前に聞いていたもの以外で強い魔力は感じられない。今この辺りにいるのは、一般人か騎士団の連中だ」
「よし、二人はそのまま警戒しててくれ」
そう言ってユニリスタは、周りを見回し何かを探し始める。
「ところでマスター、言われた配置は向こう側ですが渡らなくていいんですか?」
「今更移動できないし、どっちいたって変わらねぇよ」
「また怒られそうな事を言ってます」
「この程度じゃ怒られねぇな」
カラカラと笑うユニリスタの手には、人一人が座れる程度の木箱。それを路地裏の入り口近くに置くと、そこへ腰かけ壁に寄りかかる。それから入り口に向けて片足を伸ばした。
「一人だけ休憩ですか?」
「ばーか、俺なりに警戒してるんだよ。こういう盛り上がってる時ってのは、家の中を荒らしたり、人混みに紛れて盗みを働くやつが多くなる。でもこうしてれば、路地裏から出てきた悪いやつを引っかけられるだろ」
「そんなドジがいるんですか?」
「そんなドジ専用の罠だ」
「やっぱり休みたいだけなんですね」
「ずるいです」などと言いながら、アリアはちょこんとユニリスタの隣に座った。
「わかってねーなーアリアは。この罠がどれだけ優れて――」
ドッ。
何かが、ユニリスタの足に衝撃を与えた。
ズザァ。
直後誰かが、ユニリスタの前で派手に転んだ。
アリアは目の前に倒れている「それ」から、殺気はもちろん、直後まで気配を感じなかった。
そして不可思議な事に、リンは「それ」から魔力を感じなかった。
そんな存在が、何の細工もないユニリスタの足に引っ掛かり倒れている。
全て、一瞬の出来事だった。
「…………え」
ユニリスタの声には、底の知れない不安と緊張が乗っていた。今目の前で倒れているのは――フード付きのマントで容姿を隠しているその人物は、何者なのかと。
しかしその感情は、一声で吹き飛んだ。
「――あの子大丈夫?」
誰が発したかは分からない。けれどその声は、勇者を見に来た人混みから聞こえていた。
「え、何々?」
「何かあったの?」
少しずつ、少しずつ声が大きくなる。それはユニリスタが転ばせた人物へ向けて。一人、また一人と感染するように広がっていった。心配、不安……彼らの興味は様々な方へ向いている。だが最も多いのは「原因」だろう。ユニリスタへの視線も着実に増えていた。
彼の額から静かに汗が伝う。それはまるで警告だった。これ以上の注目は危険であると。
「っ……」
勢いよく立ち上がったユニリスタの袖をアリアが掴んだ。
「何者かわかりません。危険です」
「でも放っておくわけにはいかないだろ」
「ですがっ――」
「大丈夫。お前達がいるだろ?」
不安気なアリアの頭を撫でると、ユニリスタはその人物へ近付いた。
「おい」
その声にビクリと身体が反応した。意識はあるようだが返事はない。
「なぁ、大丈夫か?」
声をかけながらそばで膝を付き、ひとまず顔色を見ようと手を伸ばす。直後、その人物はゆっくり身体を起こし始めた。その様子に、ユニリスタはホッと息をもらす。
「なんだ動けるのか。よかった。転ばせて悪かったな。こっちも仕事で……っていうか、どっか怪我してな――」
覗き込むように見て、息を飲む。少女だった。歳は十五、六だろうか。顔にはまだ少し幼さが残っている。フードの中で揺れる金色の髪も目立つが、最もユニリスタの目を引いたのは彼女の瞳だった。海とも空とも言える、深く鮮やかな青眼。そこから大粒の涙が溢れていた。
「え、な……」
固まるユニリスタには目もくれず、少女はポツリと言う。
「……酷い」
◇