マリーは幸せなお茶を飲む。
「うーん……?」
「どうしたの、姉さま?」
姿見の前で唸っているのは、アリシア。鏡越しに不思議そうな顔で覗き込んだのは、マリーだ。
「だって、現実感がなさすぎて……」
「まだそんなことをおっしゃってるの?」
何着目かすでにわからないドレスの試着をして、疲れているのだろう。アリシアの口から愚痴がこぼれ落ちた。
屋敷にドレスデザイナーと服飾師を呼んで、ドレスを仕立てるなど、王宮で行われるデビュタントの夜会に出席した時くらいしか経験はない。それなのに、このところ連日のように服飾師が来て、ドレスの調整を何着も行っている。
ついでに言うと、今、このときも別の部屋では、デザイナーとルーカスが打ち合わせを行っているはずだった。
「ねえ、マリー。今日の試着はこれで最後だったわよね? これが終わったら休憩しても構わないわよね? のどが渇いてしまったの」
「きっと兄様も待っておられるわ。休憩させてもらいましょう」
笑いをこらえて、マリーは答えた。
お茶会で、ルーカスにアリシアを引き合わせてからというもの、ルーカスの行動は恐ろしいほどに早かった。
まず、ハインツ邸に集まるメンバーから、アリシアの人柄や、うわさ話の聞き取りをした。王宮官吏試験を受けるという話は皆が知っていて、どの部署もアリシアを欲しがって、水面下で牽制し合っているという。アリシアが試験に合格しないとは誰も考えてはいなかった。
次に、ルッツ伯爵と会い、あっという間に懐柔した。アリシアの父親は、当然娘の結婚については心配していたが、彼女の尋常ではない知識欲や好奇心から、普通に家庭に収まるタイプではないことをよく理解していたのだ。アリシアについても、次にルッツ領を治める弟が少しでも有利に動けるようになるように、と、自分自身のことではなく、領地や弟のことばかりを考えていることも不安に思っていたらしい。案の定、婚約に至る前に、丁寧に相手方から断りの手紙をもらった。決してアリシアが悪いわけではないし、アリシア自身もあまり気にしてはいないようには見えたが、少しずつ、自己肯定感は削られていき、とうとう『自分は結婚には向いていない』と言うようになってしまった。そうなると強く結婚を勧める気にはなれず、自分の好きにしたら良いとアリシアには言った。
決して、どうでもいいと思って言った言葉ではなかった。
ルーカスは、ハインツ子爵夫人を介して出会った実妹がとても世話になっていること、その様子を見て、この人ならばと思ったということを、丁寧に真摯に、ルッツ伯爵に伝えた。その結果、強制するのではなく、アリシア自身が頷くのであればという条件を勝ち取った。
王太子妃の侍女に推挙する、という案が出ていたことは、ハインツ邸のお茶会の帰りの馬車の中で、ハルトから聞かされた。レーベンブルグの言語に通じていることはアリシアとの会話の中でも明かされては居たが、それを王族が把握していたことは知らなかった。
翌日、ルーカスは王太子に、『王太子妃の侍女に推挙するのは、私が彼女に完全にふられてからにしてください』と願い出た。断るのではなく、答えを保留にしたのは、当然アリシアのためだ。自分がふられるとは考えたくないが、アリシアが王太子妃の侍女という仕事に結婚以上の魅力を感じる可能性は、なくはない。
そこで王太子からは、いくつかの提案を受けた。
もし、ルーカスとアリシアが結婚するならば、外交官として二人で、周辺諸国との交渉会議に出向いて欲しい。もしくは、外国で駐在という形で仕事をしてもらう可能性があることも考えて欲しい、と。
ルーカスも、周辺国の言語にはある程度明るい。それにアリシアがいるのであれば、ずっと二人一緒に行動する必要はなく、通訳を雇用する必要もなく、それぞれ別々の外交行事に参加できる。こんなに都合が良いことはない、ということだ。
そのあたりは本当にアリシアと結婚できたら考えても良いですよ、と答えたものの。王太子の思う通りになるかどうかはわからない、とは思っていた。
が。手紙を交わし、何度か二人で、あるいはマリーも一緒に三人で出かけるうちに、ルーカスがアリシアを手放せないと思うようになってしまった。
プロポーズの言葉は、唐突だったと思う。今、この人を逃してはならないと思ってしまったら、自然と「結婚してくれませんか?」という言葉になった。
何の飾りもなく、思い出になりそうな美しいシチュエーションを用意する余裕もなく伝えた言葉だったが、アリシアはほんの少し驚きはしたものの、すぐに、「ルーカス様やマリーと家族になれるのは、嬉しいです」と答えてくれた。
夏の社交のシーズンと同時に、王都学院の入学試験が行われる。そのタイミングでアリシアの家族と、カレンベルグにいる両親を王都に呼びつけ、婚約の儀を交わすこととなり、結婚は来年の春頃とした。
マリーはさんざん、兄をポンコツ扱いしてはいたが、ルーカスは有能だった。あっという間にアリシアを囲い込んで、婚約にこぎつけてしまった。
「でもね、マリー。こんなにたくさんドレスは必要ないと思うの」
「仕方ないわ、姉さま。兄様は好きな女性を自分の思う色やデザインで美しく着飾らせて、夜会で見せびらかすのが嬉しくて仕方ないってことを覚えたばかりなんですもの。せめて結婚するまでは付き合ってあげてくださいな」
擁護しながらも、マリーも苦笑している。
どのドレスもアリシアにはよく似合っていたし、滑らかな手触りで、光沢のある上品な生地が使われていて、本当に美しかった。
「マリーも作っていただいたら良いのに」
「私はほどほどでいいんですー。婚約が決まったら、お嫁入りの時にたくさん作ってもらいますから」
「そうね。それも良いわね」
お疲れ様でした、と声をかけられ、ようやくドレスの試着や調整から解放された。着替えがあるからとルーカスは追い出されていたが、ずっと隣でつきあってくれていたマリーは楽しそうにしてはいたものの、アリシアと同じく、休憩なしだった。
デイドレスに着替えて、ルーカスが居る応接室に向かう。
「アリシア!」
「試着は問題なく終わりましたわ」
「そうか」
嬉しそうにルーカスが頷く。このように、一人の女性にでれでれになる兄はかつて想像だにしていなかったが、相手がアリシアなので良しとした。なにせ二人を引き合わせたのはマリーだったし、アリシアと義姉と妹の関係になれるのは、嘘偽りなく嬉しいことだった。
テーブルの上に広げられているのは、葉を編み込んだような繊細な模様のレースの見本だ。
「これは……?」
「レーベンブルグの北部地方に伝わる特殊なレース編みだそうだ」
「繊細で……素敵ですわね」
「ウェディングドレスの袖に取り入れてもらおうと思うんだが、どう思う?」
「素敵ですわね。でも、間に合うんですの?」
「ドレスの裾一周分となると、かなりの分量が必要ですが、袖口だけならばなんとかいたします」
デザイナーが太鼓判を押すのであれば、なんとかなるのだろう。ルーカスがすっかり乗り気なので、任せることにした。
打ち合わせが終わって、デザイナーと服飾師たちが退室した。客の見送りは使用人に任せている。
メイドが淹れてくれた紅茶を飲んで、ようやく一息ついたアリシアが、ほぅ……と息を吐いた。
「姉さま、疲れちゃった?」
「それはすまない。休憩できる部屋を用意させ……」
「そこまでは疲れてませんわ。大丈夫です。ただ……」
視線を落とし、言葉を探しているアリシアを、ルーカスはじっと見つめている。
忠誠心の高い犬のようだ、とマリーはこっそり思ったが、もちろん表情は変えず、黙っている。面白い話が聞ければ、あとでこっそりハルト宛に手紙をしたためるつもりではあるが。
「なんだか、急にいろんなことが変わってしまったり、いろんなことが起きたから。まだ頭がついてきてないというか。夢の中にいるみたいな、というか」
「それは……諦めて、慣れてもらうしかないかな」
「ルーカス様こそ、こんなにあっという間に色々決めてしまわれて、途中で私のことが嫌になったりしませんか? それがちょっと心配で……」
「信用されてませんわよ、兄様」
アリシアは本気で言ってるのだが、援護射撃に口を出したマリーの口調は、二人を茶化しているようにしか聞こえない。
マリーは、この二人なら大丈夫だという確信があるから、軽口が言えるのだが。本人たちは未来に向かってようやく歩調を合わせて進み始めたばかりだから、不安になったり、慎重になったりするのは、ある程度は仕方ないことだった。
「信用されるには、信用してもらえるよう努力を続けるしかないな」
「信用してないわけではありませんわ! ただ、私が、自分に自信がないだけですから……」
不意にルーカスは立ち上がり、アリシアのそばで膝をつき、その手を取った。
「ルーカス様!?」
アリシアはどうかそのままでと懇願され、居心地悪そうではあるが、アリシアはソファーに腰を下ろし姿勢を正した。
「私が急ぎすぎてる感は、否定できない。でも、なるべく早く君を、僕の妻に迎え入れたいと思ってしまったんだ。君の不安や心配はできる限り取り除けるよう努力する。愛してもらえるように努力するから、どうか……」
「なにをおっしゃってるの」
アリシアはくすくすと笑い出した。
「ルーカス様のスピードについていくのが精一杯で、ルーカス様のお役に立ててるのか不安で。このままで大丈夫なのかしら、どんくさいからとまた見捨てられたらどうしよう、と思ったりすることはありますけれども。私はもうとっくに、ルーカス様のことを愛してますわ」
「アリシア! ありがとう」
ルーカスはアリシアの指先にキスを落とした。
「あーあ。こんなにデレデレの兄様を、これから当分見てなきゃいけないのね、私」
結婚したら、アリシアはルーカスの屋敷に入る予定だ。マリーも、この屋敷から王都学園に通う予定である。
「新婚さんのお邪魔になるから、学生寮に申し込んだほうがいいかしら」
「えっ? それは……私がいやだわ。せっかくマリーと過ごせる時間が増えるのに」
ルーカスだけでなく、マリーも喜ばせてしまうのだから、本当にアリシアは人誑しだと思う。だけど、マリーはアリシアのことが大好きだから、いくらでも誑されてかまわないとおもってしまうのだ。
それになにより。アリシアが幸せそうに笑ってるのを見れるのは、それだけで純粋に嬉しいことでもある。
「――ハルト様に会いたくなっちゃった」
「そうね。近い内にお呼びしたいわね。でも、もうすぐ王都学院の試験があるから、それが終わってからになるかしら」
三番目とはいえ、王子であるハルトは、学業以外にも王族としての仕事をいくつもこなしている。しかもマリーとは密かに婚約内定してはいるが、正式な婚約者というわけではないので、こっそりと人の目を盗んで会わなければいけない。
それに、王都学院の入学試験は、絶対に失敗できない。一応、家庭教師たちからは大丈夫だというお墨付きはもらえているものの、試験というものに『絶対』の大丈夫はないとわかっている。
アリシアは、マリーのハルトに会いたい気持ちをよくわかってくれている。だけど、やらなきゃいけないことはやらなきゃいけないということも、ちゃんと教えてくれる。そういう人だ。
「あーあ。早く春にならないかしら」
マリーは呟いた。
面倒なことは一気にすっ飛ばして、きっと楽しい、すてきな時間がそこにはあるだろうと思ってしまうから。
ただ、口を開けて待っているだけで、その幸せな時間が来ることがないこともちゃんとわかっているけれども。
春の温かな日差しの下で、色とりどりの花に囲まれて、真っ白なウエディングドレスを着て微笑む、大好きな姉さま。微笑むアリシア姉さまを見て、幸せそうに笑うルーカス。
想像しただけで、胸の奥がほんのり温かくなる。いつかそんな温かい日をハルトと迎えられたら……などと考え始めて、慌てて止めた。まずは学院の入試に合格すること。無事に卒業すること。それから、ちゃんとハルトの婚約者とみんなに認められて、それからの話だ。
やらなければいけないことはたくさんある。頑張らなければ、と思った。
アンヌマリー・カレンブルグは、ゆったりとお茶を飲む。
眼の前には、幸せそうに微笑み合う兄と、もうすぐ正式に婚約がかわされるアリシアがいる。
香りも味も良いが、いつも淹れてもらっている紅茶である。だけど、今日の紅茶はいつもよりとびきり美味しかった。
『マリーのお茶会』は、いったんこれで終わりです。
SNSで告知したりなどはしなかったのに、沢山の人に見つけていただき、読んでいただけて本当に嬉しかったです。本当にありがとうございます。
この後ですが、学生になってからのマリーと、アリシアとのお茶会とか、ちょっとしたエピソードがあったりします。いったん『完結』とさせていただきますが、このあとにこっそり1~2話の追加があるかもしれません。




