マリーとアリシアと、お客様
馬車が到着したと聞いて駆け出したマリーを、アリシアは慌てて追いかけたが、早足では追いつかない。
あとで、淑女はドレスで廊下を走らない、と叱らなければいけないな、と思いながら、その背中を見失わないようについていく。
「ちいにいさま!」
玄関の扉を開いたマリーが、馬車から降りてきた男性の姿を見て呼びかけた。
馬車のそばには先に降りた侍従らしき男性があと二人。
……侍従が二人、ですか。侍従というか、あれは……。
「ちいにいさまは止めなさい、マリー」
男性の声に、アリシアは思考を無理やり止めた。今、それを考えるときではない。どうせすぐに判明するはずだ。
呼びかけられた男性がマリーに向かい合って苦笑している。柔らかい金色をした髪を首の後ろで一つに括っているが、その色はマリーとよく似ている。やや青みの強い緑色の瞳も、目鼻立ちもマリーとそっくりだ。
「マリー。お客様を紹介してくれる? それとも、席に移動してからのほうが良いかしら」
「あっ……」
マリーはやらかした、という表情になる。ほんの一瞬、お茶会の主催であることを失念していたようだ。
そんなマリーの心境もすべて読み取って、自分の胸の高さにあるマリーの頭をするりと撫で、それからアリシアへ顔を向けた。
「初めまして。ルッツ伯爵令嬢。私はルーカス・カレンブルグ。アンヌマリーのすぐ上の兄に当たります」
カレンブルグ。北方辺境領を治めている貴族だ。確か嫡男が領地に居て、つい最近婚姻が成されたという話を聞いている。しかも、ついでにしれっとマリーの名前、アンヌマリーという本名が明かされた。しかしついさっきまで『マリー』と呼んでいたものだから、いきなり『アンヌマリー嬢』と呼び替えるのもおかしな気もした。ほんの少し悩んで、アリシアは、とりあえずこのお茶会の間はアンヌマリーを『マリー』と呼ぶことにした。
長兄を大きい兄様、次兄を小さい兄様と呼ぶのは、小さい子供にはよくあることだ。マリーが小さい兄様を『ちいにいさま』と呼ぶのはまぁ良いとしても、アリシアより明らかに年上の男性がちいにいさまと呼ばれるのは、家族仲が良くていいことではあるが、お茶会という公の場ではあまりよろしくはない。
あとでマリーへ注意することがまた一つ増えてしまった、とアリシアは心のなかでため息をついた。
「ねえ、ルーカス」
馬車の中から声が聞こえた。少年の声のようだ。
「もういいかな?」
もう一人のお客様。マリーにはルーカスの友人、とだけ伝えてある。とはいえ、アリシアもその人が誰なのかは詳しく訪ねてはいない。
侍従の合図を確認して、少年が馬車を降りてきた。
マリーと同い年くらいだろうか。マリーより少し背が高い、けれどルーカスには及ばない、成長途中の少年だ。髪は黄金を模したような深みのある金色。瞳は青。
少年は小さくアリシアに頭を下げてから、マリーへと向き合った。
「ああ、やっとマリーに会えた」
嬉しそうに微笑んだ少年に、一瞬呆けたマリーだったが、すぐに気がついたようだった。
「……ハルト様?」
「そうだよ。マリー」
アリシアは予想してはいたが、ハルトは家名を名乗らなかった。しかしマリーはそれでも、ハルトのことがわかったのだ。直接会ったのはこれが初めてでも、今までに何度も手紙をやり取りして仲を深めていたことがアリシアにもわかった。
会えたことが嬉しくて笑いあっている二人が、なんとも微笑ましい。
「そうだ! まずは……」
ハルトは振り返り、侍従から紙袋を二つ受け取った。
「お土産。食べてほしくて買ってきたんだ。マリーの大好きな……」
「チョコレート?」
「そう! 前に、手紙に書いてあったよね。チョコレートが大好きだって」
そんな些細なことまで覚えられていたことを、マリーは恥ずかしがって、顔を真っ赤に染めながらうつむいてしまった。
「マリーの分とは別に、ルッツ伯爵令嬢の分も買ってきてあるんだ」
「まあ、ありがとうございます。ハルト様。宜しければ私のことはアリシアとお呼びください」
そうさせてもらうよ、とハルトが頷いた。
「ハルト様。これは今日のお茶会に出させて頂いてもよろしいでしょうか?」
「僕は構わないよ。マリーは?」
マリーの意向を確認してくれるあたり、ハルトは紳士的だ。
「アリシア姉さまにお任せします……」
小さな声で、マリーは答えた。
それならばと、近くに居たメイドを呼んで、ハルトのチョコレートを先ず提供できるようにしてほしいと、厨房へチョコレートを運んでもらう。
「マリーはお客様をご案内してね?」
「はい!」
「ハルト様。先に行ってくださいますか」
ルーカスにはなにか思惑があるらしい。
頷いたハルトは、マリーに案内されて歩き出した。その後ろを、侍従の一人が静かについて行く。
「アリシア嬢、ええと……」
「申し訳ありません。ちょっとだけお待ちくださいね」
アリシアは執事のハンスを呼んだ。
「ハルト様の侍従の方が、今日提供するお茶や食べ物を確認したいとおっしゃるようであれば、指示に従ってほしいの。私に確認は必要ありません。料理長たちへの説明は任せるわね。侍従の方たちは食事の暇がないでしょうから、サンドイッチをお弁当にして、持って帰れるようにして差し上げて。もちろん御者の方にもね」
「お嬢様の読みが当たりましたね」
小さな声でハンスが囁いた。
本当はあたってほしくはなかったのだけれど。
小さく笑って肩をすくめて見せたアリシアに、ハンスは微笑む。やらなければいけないこと、してほしいことは伝わっている。後は任せておけばいいだろう。
ハンスがもう一人の侍従を連れて厨房へと向かった。
アリシアとハンスのやり取りを見ていたルーカスが大きく息を吐いた。
「後回しになって申し訳ありません。お話を伺うより先に動いてもらったほうが良いかと思いまして」
「まいったなぁ……」
ルーカスは苦笑しながら、右手で顔を半分覆っている。
「ええと……なにかまずかったでしょうか?」
「いや。何も言ってないのに、話が通るのが早すぎて、ちょっと驚いただけだから。アリシア嬢、この分だとハルト様の正体もすでに気づいているね?」
「――第三王子ハルトヴィン殿下、ですよね?」
「ご明察。そのとおりだよ」
「ええと……殿下とお呼びしたほうが良いのでしょうか。不敬に当たりますよね……?」
恐る恐る尋ねるアリシアに、ルーカスは笑った。
「本人が家名を名乗ってないのだから、このまま気付いてない振りで居てあげて。今回は第三王子としてではなく、アンヌマリーと友だちになりたいハル、と名乗る予定だったんだけどね。先にマリーが『ハルト』と呼んでしまったから」
「不敬に当たらないのであれば良いのです、家に迷惑がかかると困るなとか、私だけの咎で済めばいいな、とか、思っただけですから」
「ないない。絶対にそれはないから。安心して」
では、そのように、とアリシアは了承し頷いた。
「というか、あの二人が侍従ではなく護衛だってことも、気づいてるよねぇ」
「身のこなしが違いますから。気がつきますわ」
提供するお茶や食べ物を確認する、というのは、護衛が毒見をするのであれば従うように、という指示でもある。そのあたりは詳しく説明せずとも、ハンスが汲み取ってくれている。厨房で料理長たちにうまく説明してくれるはずだ。
まいったな、と頭を抱えてはいるが、ルーカスはなぜかとても楽しそうである。
「さっき、執事が『読みが当たった』って言ったよね。どう読んでたのか、尋ねてもいいかな?」
「はい。マリーは家名を明かしませんでしたが、言葉遣いや身のこなしを見れば、相応の立場の貴族の令嬢だということはわかります。何より、ハインツ子爵夫人の紹介ですから。隠されていても、身辺は保証されてるのは間違いない、と思いました。そんなマリーのお兄様と、マリーに会わせたい人となると、ルッツ家より家格が上の方がお客様として来られる可能性があることは予想できました。もともと、うちと親交のない家の方だったならば、今日提供される食べ物の安全や、お茶会の席の安全を確認したいとおっしゃる可能性はあるかな、と」
アリシアがあまりに淀みなく答えるものだから、ルーカスは笑い出しそうになってしまった。
普通の令嬢であれば、お茶会の参加者が第三王子だとわかった途端、慌てふためいてもおかしくはない。だから、ハルトヴィンは家名どころか本名も明かさずに、最後まで『マリーと友達になりたい、ルーカスの友人』という体を守ろうとしていたのだ。それなのに、あっという間にバレてしまった。しかもそれが判明してもなお、落ち着いて客への対応を変えてくるのだから、豪胆にもほどがある。
にこにこと微笑んでいる姿は、華奢で頼りなげに見えるにもかかわらず、だ。
丁寧で華奢な手紙の文字からは読み取れなかった、アリシアの生来の気質というものだろうか。
「そろそろマリーがしびれを切らしてそうですわ。ご案内しますね」
「ああ、うん。そうだね」
促されて歩き出したルーカスが、ふと何かを呟いた気がして、アリシアは立ち止まった。。
「ルーカス様、何か?」
「何も」
「気になることがあれば、すぐにおっしゃってくださいね」
「うん。ありがとう」
再び歩き出したアリシアの背中を追いながら、こみあげてきそうになる笑いを無理やり飲み込む。
実のところ、ルーカスは女性との駆け引きはあまり得意ではない。カレンブルグ領を継ぐのは兄の予定だが、ルーカスは王太子の補佐官として王宮に勤めていて、そこそこの収入がある。しかも未婚、婚約者も居ないとなると、女性の方から勝手に集まって来てしまうのだ。なんとか会話を繋ごうと話しかけてくるのを笑顔で聞き流すか、忙しさを理由に断ち切るかのどちらかだった。
アリシアは、今までであった女性とは、ずいぶん違う。もう少し話をしていたい、と思ってしまった。今日はマリーが主催のお茶会で、アリシアはその補佐という配役だと理解しているにもかかわらず、だ。
つい数日前に、マリーがルーカスに言ったのだ。
「きっと……ううん、絶対、兄様はアリシア姉さまのことが好きになると思うわ。だって私、すっっっ……っごくアリシア姉さまのこと、大好きになってしまったんですもの」
アンヌマリーが、知り合ったばかりの令嬢を姉さまと呼ぶほどに仲良くなったのは、悪いことではない。
が。
そこまで考えて、思考を止めた。
とりあえず、考えるのは後で良い。今日はマリーが主催するお茶会を楽しむことが一番の目的なのだから。
「こちらですわ。どうぞ」
アリシアの開いたドアの向こうには、明るく柔らかい光の差し込むサンルーム、ガラス越しに見える庭には色とりどりの花が咲き誇っていた。