マリーと、アリシア
アリシア・ルッツが、マリーと出会ったのは、二ヶ月ほど前。王立学院在学中に世話になった恩師ハインツの邸宅に立ち寄った時のことだ。
ハインツは領地を持たない子爵位ではあったが、学院での給与のほとんどを書籍に変えているのではないかと言われるほど、専門性の高い書籍を個人で所蔵していた。王宮の書庫、学院の図書室、王都図書館に次ぐ規模の蔵書数とも言われている。
そして、ハインツ邸では、ほぼ毎週土曜日に、ハインツの教え子たちに書庫を開放していた。だが、誰でも自由に入れるわけではない。ハインツが許可した教え子のみが、それを許されるのだ。
ハインツ邸での過ごし方は、学院や王都図書館で求められるような「静寂・静粛」のルールはない。本を読むことに集中している者のそばで、勉強会という名目で文献について激しく意見を交わす者もいる。
ここでは、身分差はほとんど問題視されることはない。貴族もいれば、平民もいる。集まってくる年齢もまちまちだ。王立学院出身で、ハインツに目をかけてもらえた成績優秀者、という共通点しかない。
王宮の文官も多いが、実家の商会を継いだ者、研究所に入った者。いろんな職種の者がいる。
茶会や夜会への参加が難しい者たちが集まって議論を交わす。舞踏会や茶会のような華やかさはないが、ここは確かに情報が交錯する交流の場であった。
とある土曜の午後、アリシアがハインツ邸のサロンへ顔を出したのを聞きつけて、恩師ハインツの妻、テレーゼ・ハインツが現れた。
「今日はむさくるしいおじさんたちの相手ではなく、私に時間をいただけないかしら?」
「はい。ハインツ子爵夫人」
「堅苦しいことはなしにしましょう。テレーゼと呼んでちょうだい」
「はい。ありがとうございます。テレーゼ様」
そうして、その日、案内された別室で引き合わされたのが、マリーだった。
「初めまして。マリーと申します」
優美なカーテシーで挨拶してくれたのは、金色の柔らかいウェーブをハーフアップにした、可愛らしい少女だった。
故意に家名を隠しているような気はするが、そこは触れないでおくことにした。
「マリーは私の親戚……、のようなものかしら。王都のタウンハウスにご家族は居るのだけれども、かなり忙しい方でね。私の時間があるときは、こうして相手してもらっているのだけれど。いつまでもおばさんの相手ばかりというのも可哀想で。年が近い人と仲良くなってくれたらと思ったの」
聞くと、マリーはアリシアの四つ年下。領地にいる弟と同い年だという。
「ならば、来年は王立学院に進学される予定でしょうか?」
王立学院は、貴族、平民別け隔てなく入学の資格はあるものの、試験に合格しなければ入学することはできない。入学希望者は多く、倍率も高いので、王立学院の入学合否が確定してから別の進学先を選ぶのが一般的である。
王立学院に進学するということは、それなりに優秀な成績を収めている、もしくは自宅で家庭教師についている場合、それと同等の学力があると認められているということだ。
「はい。その予定です」
迷うことなくマリーは答えた。
「マリーには王立学院入学のための家庭教師をつける予定ではあるのだけれど、学院についての疑問や不安に思うことを尋ねることができる人がいないの。この子は今までほとんど領地に居たものだから、こちらに友達もいないし」
アリシアは今年、学院を卒業したばかりだ。学院に関する疑問の払拭ならば、ハインツ子爵夫人よりもアリシアのほうが適任だろう。万が一、その場で回答できないような疑問があっても、在校生につてがあるので調べることも可能だ。
その程度の話相手ならば、とアリシアは了承した。マリーと同じ年頃の令嬢を友人として紹介してくれと言われるより、よほど簡単だ。しかも、土曜だけではなく、土曜日でなくても、いつでもハインツ邸の図書室に訪問しても良いという破格の待遇だ。断らないわけがなかった。
その日以来、アリシアとマリーはハインツ邸で、時にはアリシアの屋敷で会ってお茶を飲みながら話に花を咲かせたり、時には(お目付け役や護衛はついていたが)二人で街へ出かけたりした。
マリーは家名を明かそうとはしなかったが、時々家族の話題を口にすることがあった。実家には長兄が継ぐ予定で、つい最近結婚し、奥様が家に入られたこと。母が義姉に家や領地に関することを教える役を担っていて、マリーの相手まで手が回る状態ではない。勉強も、入学に必要な最低ラインの習得は済んでいる。それならばと、次兄が暮らしている王都のタウンハウスへ行き、王都での生活に慣れたい、と半ば無理やり両親を説得して出てきた、とか。
本当は、王都の生活に慣れたいよりも、王都にいる文通相手に会ってみたい、領地に居てはその機会がなかなか訪れないこと。
親しくなるにつれ、そんなことをぽつりぽつりと語ってくれた。
「お兄様にその話はしたの?」
「仕事が忙しいって、毎日帰ってくるのがとても遅いの。お休みの日だってお部屋にこもって仕事をなさってるわ」
もしかすると、テレーゼ・ハインツ子爵夫人はそのあたりの事情も把握していたのかもしれない。親ほど年の離れた子爵夫人よりは年齢が近いアリシアのほうが話がしやすいだろう。ついでに言うならば、甘いお菓子があれば、マリーはおおむねご機嫌である。アリシアが聞き手に回れば、とりとめなく話をしてくれた。日頃、話す相手があまりいないのだろうとアリシアは思った。
「そういえば、マリーは正式なお茶会に参加したことはあるのかしら?」
ハインツ邸で会っていた二人と、たまたま暇を持て余していたというテレーゼを交えてお茶を飲んでいた時のことだった。尋ねられたマリーはふるふると首を振った。
「どなたか若い方が参加しておられるお茶会が……」
あったかしら? とテレーゼが首をひねる。
せっかく王都での生活に慣れようと言うのだから、お茶会に出席するのは悪くはないとは思う。
眼の前のティーカップを眺めながら考えていたアリシアは、視線を感じて顔を上げた。
不安そうな顔のマリーと目が合った。
「……そうね、いきなり本番というのは不安よね」
その時ふと、小さな頃に母が、アリシアにお茶会ごっこをさせてくれたことを思い出したのだ。
招待客は家族だったり、侍女もいたり、それこそ、ごっこ遊びの延長ではあったが、アリシアに招待状を作らせ、当日のテーブルセッティング全般を任され、主催者を気取って客をもてなすのだ。その中で、お茶会のルールやマナー、会話術などを教え込まれたと思う。
「一度、マリー主催でお茶会を開催してみませんか? 正式なお茶会ではなく、お茶会ごっこというか、実技講習の延長ということで。場所は私の屋敷を提供します。うちの使用人たちはお客様に慣れているし、私もフォローがしやすいと思いますし。お客様役は……うーん、ここのサロンに来られているどなたかにお願いしてみるとか……?」
「あら。それは楽しそうだわ」
テレーゼは微笑んだ。
「マリーはどう?」
「楽しそう、です。でも、アリシア様のご迷惑になりませんか?」
「いきなり知らない方ばかりのお茶会に参加するより、一度、身内だけのお茶会を経験しておいたほうが良いでしょうね」
「うちは問題ありません。お茶会や食事会があると、うちの使用人たちは、それはそれは大喜びと言うか、とても張り切ってくれると思うわ」
母が王都で暮らしていたころ、タウンハウスでは頻繁にお茶会が開催されていたという。その頃から勤めてくれている使用人も多いので、きっと同じように上手くやってくれるだろう。勤めて日の浅い使用人の訓練にもなる。ごっこ遊びの延長ならば、招待客の人数も多くする必要もない。アリシアにもルッツ邸にもさほど大きな損失はないだろう。
ついでに言うならば、お茶会で出す料理は、万が一を考えて多めに準備をする。余ったときの処理は、使用人たちに任せてある。メイドがこっそりお菓子をつまみ食いしようが、通いの使用人がサンドイッチの残りを持ち帰ろうがアリシアは見て見ぬふりをする。そういう暗黙の了解があるから、たとえ普段より負担が増えようと、ルッツ邸の使用人たちは誰も大声で文句を言わない。
「マリー。これだけしょっちゅうアリシアにお世話になっているのだし。いっそ、お客様役にお兄様をお呼びしてはどうかしら? マリーも相手がお兄様ならば、あまり緊張しなくて良いのではないかしら?」
「おばさま! それは素敵なアイデアね」
マリーの家族へ、頻繁に会っているアリシアの身元などは、マリーやテレーゼから伝えられているだろうが、アリシアも直接マリーの家族に挨拶をしておきたい気持ちがある。
「マリー。お兄様にご都合を聞いてきてくれる? それに合わせて予定を立てましょう。それから……招待状はマリーが書いてね。正式な招待状を作るのよ。アドバイスは私がするわ。それと、今回のお茶会の趣旨の説明はマリーにお願いしたいけれども、私からもお手紙を書くわ。お手紙の配達はお願いできる?」
家名を聞いていないので、郵便や配達人を使って連絡することができないのだ。いや、問えば答えてくれるかもしれないが。しかし、マリーが居るのだから、手紙のやり取りはマリーを介したほうが早いだろうし、突然届いた見知らぬ相手の手紙だからと処理を後回しにされることもないだろう。
「ねえ、マリー。どうかしら?」
「やってみたいです!」
即答である。アリシアとテレーゼは視線を交わし、にっこりと微笑みあった。
お茶会の趣旨を説明した手紙を書き、マリーに預けてから、三日後には返事があった。
喜んで招待に応じる。日程は調整してから、後日妹へ直接伝える。それから、アリシアへの感謝。マリーはしょっちゅうアリシアの話をしていて、礼を言う機会が欲しかったので渡りに船であること。
そんな言葉が、几帳面さを思わせる丁寧な文字で綴られていた。
それと、もうひとつ。
マリーには秘密にしておいて欲しいのだけれども、お茶会に自分の友人を一人同行させてもよいだろうか、という。マリーは直接会ったことはないものの、何度か手紙を交わしたことがある人物だという。それならば、相手は誰とは問わず、あくまでもお兄様のご友人とマリーには伝えて、四人でのお茶会の準備をする、と返事を書いた。
手紙に封蝋はあるものの、家門を表すものではない。あくまでも私信というていである。
お茶会には、どなたがいらっしゃるのやら。
隠し事が多い分、不安が多いお茶会である。しかし、マリーの兄には、これはマリーのお茶会主催のための練習であり、正式なお茶会ではないこと、お連れの方にもその旨はしっかりと理解しておいてほしいと伝えてある。
表面的なお茶会の準備は、マリーとアリシアで整えた。
その裏で、マリーには伝えてはいないが、考えつく限りのトラブルやアクシデントと、その対応について執事と話はしてある。
準備は万端、のはず。
何度か交わした打ち合わせの手紙に書かれていた『お会いできることを楽しみにしています』という文字を思い出す。
アリシアも、その人に会えるのが楽しみにしていた。