マリーと、笑わない少女
主に冒頭、ちょっとわかりにくかった場面に、書き足しをしてます。
基本、変更はありません。ちょっとした追記くらい(たぶん)の書き足しです。(2024/06/16)
「アリー姉さま! ただいま帰りました」
クラスメイトのアンヌマリーに半ば無理やり連れて来られた屋敷の応接室で、アンヌマリーは遅れて現れたデイドレスの女性に抱きつく勢いで駆け寄った。
若くはあるけれども、アンヌマリーから事前に聞いていた話から察するに、現れた女性はこの家の女主人だろう。アグネスは慌てて立ち上がった。
「おかえりなさい、マリー」
背はあまり高くなく、同じ学生だと紹介されても納得してしまいそうなほど、可愛らしい人だ。髪をアップにまとめているけれども、既婚女性には到底見えなかった。
アンヌマリーが、アグネスを振り返った。
「アリー姉さま。こちらが、昨日話した、私の友人のアグネスよ」
「アグネス・クラウゼンと申します」
アグネスは慌てて、ぺこりと頭を下げた。
その拍子に、自分の着ている学生服がこの場所にはそぐわない、違和感のあるものだということに気づいてしまった。
「アリシア・カレンブルグよ。初めまして」
「は、初めまして」
「緊張しないで良いのよ。今日だってアンヌマリーが無理矢理引っ張ってきたのでしょう?」
「そんなことはないわ! ねえ、そうよね、アグネス」
「そうね、一応、今日の放課後は用事があるかどうかは確認してくれたものね」
笑ってごまかそうとしているアンヌマリーをちらりと眺め、アリシアがため息をついた。
「本当に。思いついたら即行動しないと気がすまないのだから。マリーが迷惑をかけてしまって、ごめんなさいね」
「だって姉さま、いつも兄様とあっちこっち出掛けちゃって居ないことのほうが多いんですもの。捕まえられる時に捕まえておかないと、すぐ居なくなっちゃうし。アグネスもアリシア姉さまの話に興味持ってたから、早いほうが良いかなと思って」
仕方がない子ね、とアリシアは苦笑する。しかし決して本気で嫌がっているわけではなさそうだった。急に引きずってこられたアグネスへの配慮のほうが大きいように思えた。
「クラウゼン子爵令嬢、とお呼びしたほうが良いかしら?」
「いえ。アグネスと呼んでください」
「では、私のこともアリシア、と」
二人は顔を見合わせて頷きあった。
ちょうどタイミングを見計らっていたのか、アンヌマリーの帰宅を確認したメイドがお茶の支度をして、会話の途切れたタイミングでテーブルにお茶とお茶菓子を並べ始めた。
「どうぞ座って。昨日こちらへ戻ってきたばかりだから、あまりちゃんとした準備ができなかったのだけれども」
そう言いながらも、皿の上にはスコーンや、親指と人差指でつまめそうなサイズのフルーツのタルト、クッキーが並んでいる。
「学院でお昼ご飯を食べてるでしょうから、甘いものだけでも良いかしらと思ったのだけれども。セイボリーも用意したほうが良かったかしら?」
足りないと言えば、今から軽食の類を用意できるというのだろうか、とアグネスはぼんやり考えた。
「私は大丈夫。スコーンもあるし。アグネスは?」
「あ、えっと、私も大丈夫です」
名前を呼ばれて慌てて答えた。
三人しか居ないお茶会なのだから、ぼんやりしている暇はない。自分が喋っていない間に、後の二人で会話が進んでしまう。気をつけねば、と思った。
「アグネス。あまりだらだらしていても何だから、まずは昨日、マリーから聞いた話を確認させてもらってもいいかしら?」
「はい。えっと……」
「学院を卒業して就職するとして、どのような職種に就くのが良いか、どうすれば仕事が探せるか、そんな感じの相談、と聞いているのだけれど。合ってる?」
「はい。ざっくりと言うと、そんな感じです」
アグネスは、自分が三人兄妹の末っ子であること、長兄は嫡男で家を継ぎ、姉が近く結婚する予定であることを話した。姉は王立学院ではなく、家政科のある女学院を卒業しているが、さほど成績は良くなかったらしい。しかし、上の上とは言えないものの、そこそこ顔もスタイルも良く、ドレスもよく似合い、ごく普通に猫は被ってはいるものの、まぁまぁ男性には従順であったので、結婚相手も割とすんなりと決まった。
しかし問題が起きたのはそれからで。嫁ぐ時の持参金、嫁入り道具、結婚衣装……なんやかんやとお金が消えていった。愛娘が嫁ぐのだからと、父親がいい顔をしすぎたというのが一番の理由だ。
アグネスは決して器量が良い方ではない。それは自分でもわかっている。
兄の後継者としての教育もまだまだ半ばで、しかもこれから結婚相手を探さなければいけない。そちらにどのくらいお金が要るのか、アグネスにはまったく想像ができない。
アグネスは、三番目の子。しかも次女だ。結婚相手を親がみつけてくれたとしても、持参金が不要な訳ありの相手である可能性が高い、と読んでいる。
王立学院へ通わせてもらった恩は当然感じている。が、これ以上、親に負担を掛ける必要もないだろうとも思うし、育ててもらったから親の言いなりにならなければいけない、ということもないだろう。
だから、卒業したら自分で仕事をして、どうにか生計を立てられないだろうかと考えていたのだ。
しかし。アグネスは勉強に専念するあまり、友人というものに恵まれなかった。自分から友人を作りに行くという勇気もなかった。自分は子爵家の、しかも次女。学院内では身分は問われないとはいえ、身分の高い相手に近づこうなどとすれば、下心があると噂される可能性だってある。
そう思っていたのに。
「いつも難しい顔をしているのね。眉間にシワができちゃうわよ」
そんな失礼な言葉をかけてきたのが、アンヌマリー・カレンベルグだった。
適当にあしらっても、アンヌマリーは挫けることがない。しょっちゅう話しかけてくるし、授業でわからないことがあれば尋ねに来る。
やがて、アンヌマリーの婚約者候補だという噂の、テオドール・ルッツまで引き連れて話しかけてくるようになった。
やや、ぶっきらぼうな語り口調のテオドールだったが、どうやら雑な対応をしているのはアンヌマリーを相手に話している時だけで、アグネスが困っている時などは穏やかな声で、丁寧に話をしてくれたりした。
今、学院内で話ができる相手と言えば、教師を除けばアンヌマリーと、テオドールくらいである。
しかし、婚約者候補がすぐそばにいるアンヌマリーは、学院を卒業したら結婚の準備を進めると言う。テオドールは、地方の領地持ちの伯爵令息である、卒業したら領地へ戻るらしい。
これが男子生徒ならば、もう少し情報があったかもしれない。しかし、悔しいことにアグネスは女である。仕事と言えば思いつくのは、どこかの侍女やメイドとして働くか。平民と混じって商売をする……と言っても元手は必要だから、それは難しいだろう。お針子をするには技量が足りない。たいていの貴族令嬢は、学院を卒業したら結婚の準備をする。家庭に入るのが女性の幸福とする風潮は今も強い。
そんな事を考えて行き詰まっていた時に、テオドールから、アンヌマリーの姉の話を聞かされたのだ。
周辺諸国の言語に明るいので、王太子の右腕と言われるルーカス・カレンベルグに見初められ、王太子の代理として二人して周辺諸国を駆け回っているというが、一時は王宮官吏試験を受けようとしていたとか、隣国のレーベンブルグから輿入れされた王太子妃の侍女に推薦されていたとか、いろんな噂があるらしい。
「噂が本当になる前に、うちの兄様が見初めてかっさらったんだけどね」
「学院の試験が終わった日にいきなり『実は婚約が決まりました』って打ち明けられた時の衝撃は、この先、一生忘れないと思うよ、僕は」
アンヌマリーとテオドールが口を揃えて言うものだから、アリシア・カレンベルグという人に会ってみたいと思ったのだ。
とはいえ、『今、レーベンブルグに行ってるの』から、わずか三日ほどで会う機会が設けられるとは思っては居なかった。
「いろんな問題が複雑に絡まってるわね。少し話を整理して考えてみましょうか」
ゆったりと微笑みながらアグネスの話を聞いていたアリシアが言った。
「金銭的な事情があって、できれば親の勧める結婚相手とは結婚したくない、って話していたけれども。結婚することに忌避感は? 実は好きな人がいるとか、そういう……」
「そういう方はいません。男性を好きになるということがよくわかりません。私はこういう性格で、見た目もこれですから、お相手を探すというのも難しいかと思いますし。結婚は、今のところ考えられません」
そんな事はないと思うんだけれどなぁ、と、マリーが独り言のようにぼやいた。しかしそれは、マリーが友人だから。贔屓目というのもあるのだと思う。
アグネスの答えに、アリシアが頷いた。
「仕事をした場合、親に進学に要したお金を返さなければいけないとか、仕送りが必要だとか、そういうことは?」
「……あるかもしれません。姉の結婚で結構使ったみたいですから。兄の結婚の時にどうなるか、想像がつきません」
「でも、アグネスが働いて稼いだお金は、アグネスのものよね? 学校で学ぶための支援は親の義務だと押し切ることは可能だし。お兄様の結婚はアグネスにはほとんど関係ないわね」
「もし仕事先へ押しかけてきてお金の無心をするような親だったとしたら、カレンベルグ領へ行きましょう。そこまで逃げれば、なかなか追って来れないと思うわよ」
アンヌマリーが悪い笑顔を浮かべている。そうしたいと言えば応えてくれそうな、悪い顔だ。
そもそも、アンヌマリーは辺境伯の令嬢である。侍女の一人や二人、上手く潜り込ませてくれるだろう。そこで上手くやっていけるかどうかはアグネス次第ということか。
「あとは、そうね。アグネス自身にやってみたいことはないの? 好きなこととか。興味があることとか」
「趣味はありませんし。得意なことも別に……」
「姉さま。アグネスは字がとてもきれいなのよ。読みやすくて丁寧な字を書くの」
口を挟んだアンヌマリーに顔を向けたアリシアだったが、ゆっくりと首を傾げた。
「あら。マリーはどうしてそれを知ってるのかしら。ノートを借りたりとか、授業中にこっそり手紙を回したりとか……」
「してないわ! ほんの時々、ちょっとだけしか……」
だんだん声が小さくなっていく。
確かに授業中の手紙のやり取りは褒められた内容ではないが。ノートに関しては、授業の復習を昼休みにしたり、試験前に勉強した時にお互いに見せあったという話だから、大目に見て欲しいところだ。
「お説教は後にしましょう。時間がなくなっちゃうわ。ねえアグネス、周辺諸国の言葉の読み書きはできる?」
「学院で学んだ程度の読み書きなら……」
「それならば、例えばなんだけど、隣国から来た書類をあらためて、関係各所へ回す前に、翻訳した訳文を書いて添えたり。逆に隣国へ送る書類を翻訳して作り直したりとか。そういう仕事もあったりするわ。そういう仕事は男女関係なく、文字がきれいだとか、仕事がていねいだとか、そういう理由で雇用されてたりするみたい……って、これはハインツ先生のサロンに来られる方から教えていただいた話なの。届くまでに時間がかかるくせに、内容を吟味して処理するのに時間をかけられないから、とても厄介な仕事だって話もしていたんだけどね」
小さく肩をすくめて、アリシアが苦笑した。
侍女やメイド、家庭教師などという仕事以外にも、アグネスにできそうな仕事が探せばあるのではないか、と、アリシアの言葉を聞くうちにうっすらと期待が湧いてきた。
「――ハインツ先生のサロンに参加できるように、私から口添えしてみましょうか?」
王都学院のハインツ師は、自宅にもいろいろな本を集めており、時に卒業生のために自宅を開放して、本を貸し出したり、集まった者たちで意見交換をしていたりする、らしい。
そこに集まるのは、ハインツお気に入りの、成績優秀な卒業生ばかりだという話を聞いたことがある。
「でも、私の成績では……」
「ハインツ先生のサロンは、成績優秀な人が集められてるって噂になってるでしょうけど、本当はそうじゃないの。誰でも参加できるわけじゃないけれども、成績だけではだめなの。人の話を聞くことができる、自分の意見を持っている、向上心がある人がサロンへ参加できるの」
「その話は初めて聞きました! 姉さま、私も……」
「マリーは必要あるかしら? マリーに必要なお勉強はハインツ先生のサロンではないわね」
単純な成績で言うならば、アグネスよりアンヌマリーのほうが上である。だけど、アンヌマリーにはハインツ先生のサロンへの推挙は認められないらしい。基準は成績だけではないとアリシアは言うけれども。なにか選定や推挙に値する基準があるのだろう。参加したことがある経験者だけが、それを理解できるのかもしれない。
「アグネスはそこで、いろんな人の話を聞いて、いろんな人がいろんな場所で、いろんな仕事をしていることを学ぶといいんじゃないかしら、と思ったのだけれど。どうかしら?」
アンヌマリーが、キラキラと目を輝かせてアグネスを見ている。どうやらマリーにはアグネスの考えている事はお見通しらしい。
「興味は、あります」
「なら、先生にお手紙を書いておくわね。サロンで話に参加するよりも、色んな話を、言葉は悪いけど盗み聞きさせてもらってくるのが良いと思うわ。聞いた話はサロンの外では他言無用だけど」
王宮に勤めている人たちが喧々諤々とやりあっているという噂だが、話題は王宮内のことが多いだろうことは予想ができる。それを聞いたままに外で話すことが良くないということも、わかる。
「あと、先生のご自宅の図書室の本が色々と充実しているから。学院にない本はハインツ先生のところに行けば見つかるって言われてるから。本棚をゆっくり観察してくるだけでも勉強になると思うわ」
「わかりました。やってみます」
ぺこりと頭を下げると、アリシアが微笑んだ気配がした気がした。
どうなるかはアグネスにはわからないけれども、学院では誰に相談すれば良いのかすらわからなかった事が、二手、三手と前へ進んだ気がする。
「合わないと思ったら、無理はしなくていいわ。でも、たぶん、今のアグネスには、いろんな話を聞いてみるということが必要なことだと、私は思ったから」
「そうそう。卒業する時に気に入った仕事がみつからなければ、一緒にカレンベルグへ行きましょうよ。そっちでなにかみつかるかもしれないし。親とも勉強とも離れて、のんびりすごせば、いい出会いが見つかるかも」
「そうね。最悪、そうさせてもらうのもいいかもしれないわね」
などと話していると、扉の向こうの廊下が不意に騒がしくなった。
ノックの音と、ほぼ同時に、学院の制服を着た男性がドアを開いた。
「アリー姉さま!」
「テオ。マナーがなってないわ。お客様も居られるのに失礼よ」
姿を現したのは、アンヌマリーの婚約者候補と言われている、テオドール・ルッツ。アリシアの弟だった。
「テオ様のお茶もすぐに用意いたしますね」
慣れた様子でメイドがお茶の準備を始める。一応ここは、アンヌマリーとアリシアの住んでいる、カレンベルグ邸のはずなのだが。勝手知ったるという様子である。
「アリー姉さまが帰ってきたっていうのに。生徒会の引き継ぎで忙しいし。ハルト様はこれだけは片付けておいてって仕事押し付けてくるし。最低限やらなきゃいけないことだけ片付けて、大急ぎで帰ってきたけどね」
「まぁ。途中で帰ってきたの? ハルト様、怒ってらっしゃらないの?」
二人はハルト様、と気軽に呼んでいるが、正式な名はハルトヴィン。この国の第三王子である。アンヌマリーたちより一学年上で、現在は第三学年。卒業も近づいているので、生徒会の仕事がじわじわと第二学年のテオドールたちに回ってきているのだ。
「学院に入学したときは、生徒会の仕事を手伝う予定はなかったんだけどなぁ」
「あら。ハルト様のご指名だったじゃない」
「ほとんど侍従というか、ハルト様専属の使いっ走りなんだけど。なんでこんな目に遭ってるんだろうなぁ」
「さあ。どうしてかしらぁ」
「アリー姉さまが久しぶりに帰ってきてるから会いに行きたいので帰らせてくださいって正直に言ったら、今日はもう良いよって許してもらえたけどね」
「さすがハルト様。お優しいわね」
二人の会話を聞きながら、アグネスは小さな違和感に気づいてしまった。
二人の会話のやりとりのテンポが良いのはいつものことである。一学年上のハルトヴィン殿下との接点はよくわからないが、テオドールがやたらとハルトヴィンに気に入られているようだ、ということはわかる。それがなぜなのかはわからないけれども。
そうではなく。えっと……
アグネスは考える。小さな違和感について。
「アリー、姉さま……?」
三人が一斉にアグネスに向いた。
「アグネス、どうしたの?」
「今、唐突に気づいたんだけど、テオドールはアンヌマリーのことを『お前』とか『こいつ』って呼ぶことが多い気がしてたんだけど。もしかして『マリー』って呼んでたのは、私の聞き間違いで、二人でアリシアさんの話をしてた、ってこと、ある? 『アリー』って」
マリーとテオは顔を見合わせ、そして笑い出した。
「あなたたち。学院ではそんな感じなの? まったく……」
アリシアは困った顔をしている。
「当然。だって、共通の話題って、授業のことか、昼に何食べる? って話か、アリー姉さんのことしかないし」
「アリー姉さまのことなら、いくらでも話せるし。相手がテオだから全然遠慮が要らないし」
……これってもしかして、同族嫌悪って言うのかな。間違いなく、シスコン対シスコンの会話なのだけれども。
二人の会話のテンポとか、いつもよく似ている気はしていたんだけど。とても仲良さそうに見えるものの、踏み込ませないで打ち合っているみたいな空気感みたいなものがあったような気がしていたのだ。
そこで、また新たな疑問が浮上した。
アンヌマリーの兄、ルーカス・カレンベルグと、アリシア・ルッツが結婚したのだから、アンヌマリーとテオドールが結婚したところで、それぞれの家に生じる利益は皆無に等しい。よほどそれぞれ個人同士の仲が良くなければ結婚に進めるメリットはないはずだ。それなのに、テオドールは、アンヌマリーの婚約者候補と呼ばれても否定しない。
否定はしていない。だけど、肯定もしていない。
ということは、アンヌマリーの婚約者(もしくは、婚約者候補)は別に居るってことになる……んじゃ、ないのかしら?
え……っ? あれ……?
ハルトヴィン殿下に使いっ走りのごとく使われ。振り回されて。
婚約者候補ということで、本物の婚約に関するトラブルや妨害などから目を逸らす役目を担っている……とか? まさか、ね。 でも……。
もしかしてもしかすると、テオドールって、人が良すぎるんじゃないかしら。
アグネスは唐突に心配になってしまった。
「何をひとり百面相してるの?」
アンヌマリーがアグネスの顔を覗き込んだ。
アグネスは顔を上げた。
「先ほど、好きな人は居ないと話しましたけれど。結婚という話もまったく想像できませんけれども。――好き、という感情とこれは違うものだと思います。ですが、興味が湧きました。多分。――テオドール・ルッツという人に」
アグネスの眼の前で、名前を告げられた当の本人は、紅茶を噴き出し、最愛の姉にこってり叱られるという、少々可哀想な事態が発生した。
学院の寮に住んでいるアグネスを、ルッツ邸へ戻るテオドールが、遠回りして送ってくれることになった。
「さっきはごめんなさい。思いついたまま言葉にしてしまって。何も考えてなかったから……」
テオドールが叱られる原因を作ったアグネスは、しょんぼりをうつむいていた。
「驚きはしたけれど、怒ったりしてないし。君が謝ることじゃない」
そういってテオドールは笑った。その笑顔がアリシアによく似てるなと、アグネスはぼんやり思った。
「謝らなきゃいけないのは僕のほうかもしれない。ある人と約束があって、言えないことがいくつかあるから。アンヌマリーはアグネスと友達になりたくて、全部話してしまいたいみたいだけど。約束は約束だから。約束した相手にちゃんと筋を通してからでないと、本当のことを勝手に話すのは良くないと思うんだ」
「勝手に想像するのは良いの?」
「その想像が当たってるかどうかは答えられないかもしれないけれど。想像するのは、その人の自由だから止められない」
「そうね。確かにそうだわ」
アグネスは頷く。
「いつか、その秘密は、私にも分けてくれるの?」
「そう遠くないうちに」
「なら、待つわ。私、アンヌマリーやテオドールと、今よりもっと、ちゃんと友達になりたいと思ったの」
「うん。なるべく長く待たせないよう、がんばってみる。でも、待たせても必ず話すから。待ってて」
「楽しみにしてる」
カレンブルグ邸は、学院までそう遠くない。あっという間に学院の馬車溜まりまで着いてしまった。
先に降りたテオドールに手を差し伸べられ、エスコートされて馬車を降りた。
「今日、アリー姉さんと会って、話をしてみて、ちょっとは収穫あった?」
「それはもう、いろいろ。あと、卒業する時に仕事がみつからなければ、カレンブルグ領へ行けばいいとか、マリーが」
その言葉に、テオドールが突然、真顔になった。
「……なに?」
「――ルッツ領はなにもないところだけれど。本当に珍しいものなんて何も無い、ただの穀倉地帯だけど。ただ、秋の麦が実る頃の景色はすごくきれいなんだ。風に金色に揺れる麦畑をぼんやり眺めるのも、悪くないと思う。カレンブルグ領じゃなくて、きっとルッツ領も悪くないと思うから。……だから、ルッツ領に来るというのを、選択肢の一つとして考えてみてくれたら、僕は嬉しい」
アグネスは、ほんの一瞬だけ目を閉じて、見たことはないその景色――揺れる金色の麦畑を想像してみた。
なんだか、それを思うだけで、心がふわりと温かくなった気がした。
仕事も、こんなふうに、難しく考えるのではなく、心がふわりと温かく感じるように探してみればいいのかもしれない。
多分、いろんなことを考える時間は、まだあるだろうから。
「じゃ。気をつけて」
「気をつけてって。学院の敷地内なのに?」
「うん。それでも。本当は寮の入り口まで見送りたいところだけど。あらぬ噂を立てられたら君が困るだろうから」
そんなところまで気がついてくれて、気を配ってくれるなんて。
本当に変な人。いい人。だけど、人が良すぎるの。ちょっと心配。
アグネス自身は気づいていなかったが、その口角がゆるく上がっていた。アンヌマリーにはさんざん「アグネスは難しい顔ばかりして、全然笑ってくれない」と言われていたというのに。
「送ってくれてありがとう。じゃあ、行くわね」
テオが頷いたのを確かめて、アグネスはテオへ背を向けた。
「また明日!」
寮に向かって歩き出したアグネスの背中に、声が追いかけてくる。
「また明日」
振り向いて、アグネスはテオドールへ手を振った。
テオドールはアグネスを見つめたまま、微笑んでいた
これでいったん、マリーのお茶会のお話はおしまいになります。
最初に思っていたより、たくさんの方たちに、マリーたちのお茶会に参加していただけた気がしています。ありがとうございました。読んでいただいて、心から感謝しています。
これは内緒のお話ですが。
ハルトヴィンは卒業記念パーティーの時に、正式にアンヌマリーを婚約者として伴って出席します。その頃には、テオの「マリーの防護壁になる」という役目は解除されます。
で、マリーたちの卒業パーティーでは、マリーはもちろんハルトのエスコートで出席しますし。テオはアグネスにドレスを贈って、なんやかんやあったりするものの、一緒に出席することになります。本当は、最初にマリーがアグネスに声をかけた頃から、テオは真面目なアグネスのことが気になってたようです。
こういう裏話的なものも、本文の中できっちりと書いて「ご想像におまかせします」とできたら良かったのですが。完全に技量不足です、上手く書ききれませんでした。今後の課題としてがんばります。