その時の僕は間違っていなかった
2024年 1月 1日 午前11時より、連載開始。
→次回 9月24日 午前11時に更新。
「遠ざかるものと、そうではないこと」
歯医者に行ったのは、いつ振りか? グイグイと口角を引っ張られ、歪んだ顔が形状記憶していた通りに戻った後。手加減のない歯科医に口内の事情を訊ねられてから、自分の人生の中を振り返ってみた。
何度かあった気はするが、まあ、「ここ」は25年?振りかな。
受付のベルを鳴らすと、奥から若い女性が一人だけ出てきた。
他に人はいない。
夕方の時刻で、今は完全予約制。
流行の病の所為もあり、患者がすれ違うこともない。
誰かがいない場所。
おんなじ声。
電話で予約した時の声は、この若い女性だ。
受話器越しに伝えた事情は、
しばらくぶりに歯医者に来たこと
「ここ」には、むかし通っていたこと
僕の母は度々、口内トラブルでお世話になっていて、この手加減のない歯科医について、受診するたびに感想をこぼしていた。
「その歯医者さんはいい人なんだけど、ちょっと厳しいんだと思う。周りのスタッフにも言い方がキツかったりするから。だから、そんなものだから着いて来れなくて辞めていく人が多いんだと思う」
ガリガリガリガリッ
「いや」「うん?」「ちょっと待てよ」「ああ」「だよなあ」
歯科医は、先の尖った器具を使って歯の状態を確認したあとで、自分の見解を確かめるように、うーんと、唸ってから、納得をさらに進めていた。
「一応、レントゲンも撮ってみるね」
レントゲン後、診察台に戻ってから、頭上を見上げた。
ぼんやりと昔が蘇って、おんなじ診察台の上で顔がはっきりしない若い男の姿が浮かんだ。
そのはっきりとしない表情のどこかに、今の歯科医の姿が重なった。
ああ、そうだ、あの若い痩せていた先生ーー
記憶が一息ついたら、見上げた頭上に昔とおんなじの手動でモニターがやってきて、撮影されたレントゲンを見せられた。
念入りにレントゲンの確認してもらうと、歯科医は納得を深めた。
「やっぱり、銀歯は大丈夫だわ。しっかり被さっているし、詰め物の中に汚れはないね。年齢的に歯周病とかあってもおかしくないけど、ない。歯を食いしばったりして、痛くなったのかもしれないね」
歯を食いしばる。ああ、言われてみると、仕事でそんなことがよくある。
注意しなくては、と思った。
注意?
我慢、我慢の仕事。
避けることのできない痛みに耐えること。
「歯の汚れだけ取っておくね」
ガリガリガリガリッ
先の尖った器具。
加減のない先生の治療は、昔はどうだったかな?
痛みの記憶は、残ってない。
避けることのできない、今ある、痛みだけだ。
ガリガリガリッの後、診察台に備え付けられた場所でうがいをする。
薄まってゆく血の色。
治療中は、ただ一人、あの若い女性が先生の横で助手をしていた。
何だか先生と息が合っているように思った。
先生が言った。
「歯医者にかかるのは、しばらくぶりみたいだけど、最後に来てから、どこか別な歯医者には行った?」
記憶を辿ってみる。
いや、行ってない。
「俺が治療したところだわ」と、先生は言った。
記憶を辿ってみる。
ーーおぼろげな25年くらい前が、近づいていた
頭上では、モニターがまた手動で、遠ざかっていったーー
診察台から離れてゆく先生は言った。
「そうかあー。やっぱりこの銀歯を作ったの俺だわ。この銀歯の詰め方、どっかで見たことあるなあと思ったけど、俺なんだ」
再び遠ざかってゆく何かに、僕は言った。
「それは昔の自分が間違ってなかったってことじゃないですか」
一瞬、何かが立ち止まった。
「それが普通なんだよ」
謙遜なのか、そう言って、その場を立ち去って奥に行ってしまった
25年振りくらい前に治療してもらった歯があって、その時、銀歯を入れてもらったところ。おんなじ、この歯医者。
痛みは、「ここ」にはない。
偶然にも、奇遇にも、当然にも、という。
「ありがとうございました」
診察台の横で、先生の助手も兼任していた若い女性に伝えた。
受付に来ると、先生が座っていた。
昔のカルテを引っ張り出して、懐かしそうに見ていた。
「やっぱり俺だわ」
ーー遠ざかってゆく何かに、記憶が追いついたーー
僕の代表作は、
恋した瞬間、世界が終わる -地上の上から-
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