申梁山サルハリヤマ
新月の日の深夜の家の外に明るいのはわずか街灯と自動販売機の照明のみ。光を渇望しそれぞれに著しくまとわりつく多数の蛾の騒々しい羽音。目に入れることを望まない自分が進む先は扉を出てすぐ正面の道路、その右側方向。それは宅地から離れ、木々に覆われた申梁山へと向かう道筋。
等間隔でない街灯、進むほどに広がっていく次の明かりへの距離。それと反比例し増えていく闇。影。微塵も感じないのは寂しさ、怖さ。夜を伝いたいと願う原動力は、山からの自らを呼ぶ声と、ほんの少しばかりの好奇心。
気付かぬうちにアスファルトから砂利道へと移り変わっていた通り道。だんだんと大きく見える申梁山。とうとう途切れた街灯、だが、不思議にもいつも以上に夜目が効く自分には与えられない影響。変わらない踏み出す足のテンポ、この心理状態。
耳障りな鈴虫の鳴き声。
狭まる道、おそらくこの先草むらに呑み込まれるだろうことに、些細だが確かな無常。
星々の頼りなさ。きっと一筋も地上に到達しない、恒星からの便り。何も与えない空、見上げることはひたすらに、無意味。
増す、道の険しさ。申梁山目前の座標。
尖り、太りゆく砂利の粒。道の傾斜。膝を持ち上げ軽快に、腕をよく振り豪快に、そう進歩していた前半。
が、知らない声にそれを咎められた自分。
従う必要は無いにも関わらずしかし、声の言うままに自ら変えた身体動作。先程までと異なり、ザッザッと引きずって運ぶ足。蛞蝓や蝸牛の方法。しかしながら、薄れゆく疲労感。
正しい好奇心。善なるものに拠るところの声。
判断。今までは他人任せ、けれど少なくとも今日限りはことごとく自分任せ。
進行。進行。進行。
そして。
申梁山。願わくは、知らない声の住処。
その眼前。到着するは玄関口。山の名が刻まれた、今にも倒れそうな立て札。それはおそらく、失われつつある山の存在の表出。
入口に鳥居。材質は腐った木。
奥に続く、うねうねと奇妙に曲がる細黒い山道。
唾。口に溜まり少し留まるが、すぐに飲み込み。
ごくり、と音。
同時に、固まる決心。先へ進むという結論。
視線。つま先への注視。
大きく吸う息、そして、左の足、小さく、されども山と山以外とを分け隔てる分断線を確かに跨ぐような一歩。
ザクッ。
…途端、ヒュッ、と、一陣の風。通り過ぎる左頬の横。
明らかに敵対的な風の出所、自分のこれから行く先。
静かにそろそろと上げる頭。同時に上昇したのは目線。
捉えたもの。
二つ並んだ赤い点。一組、二組、三組、いや…数えきれぬ組。びっしりと。
それは、紅の眼。
それが向く先は、自分。
響き出す、低く唸る獣の声。それは意味を為さぬ声のようで、だがしかし、感じられる、自分を呼んでいた声と、何処か通ずるところ。
と、突然に猛スピードで一斉にこちらへ駆けてくる全ての眼。シャシャシャと為る音。
逃げなければ、との考え。だがそれは赦されずその原因は、申梁山に踏み入れた足の、地面とのどうしようもない、なす術ないほどの接着。恐らくは脱出不能の罠。
そうか自分は蛾。
あの声は誘蛾灯。人を呼ぶ餌。人を餌とするための。
本当は抱くことが誤りだった好奇心。真実は私に対して悪であった呼び声。
ドドドド…自分の上に覆い被さってくる重み。餌にありつこうとする、執着の現れ。
重み、重み、苦しみ、次第に自分は逃れられぬ檻に。獣達で形作られた檻に。
シュッ、と、これは音でなく、胸の辺りに感覚。もう見えないが、痛み。残酷な痛み。これは包丁か、いやでも多分刃物ではなく、きっと獣の尖った爪で、パックリと、スパリと、開胸された事実の申告。ああ、痛み。ブチ、ブチ、ブチブチブチと聞こえる音。これは、血管を千切りながら、私の心臓が取り出される音。
痛み。だが溢れぬ涙。生じるは単なる見窄らしい後悔。
私の死。
予測出来なかった死への後悔。
だがそれと別に生じるは、これまでに感じ得なかった愉快。
私の滅亡が、特殊性に彩られている喜び。
目を閉じてみよう、委ねてみよう自らを意識の消失に。
申梁山への感謝。紅眼の獣への感激。
脳裏。
申梁山、獣、申梁山、獣、申梁山、申梁山、申梁山、申梁山、申梁山、さるはりやま、さるはりやま、さるはりやま、………