分身殺人事件 2/2
数日後、友人の妻の死体が発見された。状況から事故死と見られたが、現場に不自然な点が残るとして、警察は殺人の可能性も視野に入れて捜査をしているという。だが、友人の妻の周辺に、彼女に恨みを持つような人物は浮かび上がってきていないらしい。ただひとり、夫を除いては。
だが、その夫――つまり友人は、妻の死亡推定時刻に完璧なアリバイを持っていた。研究者仲間の会合で、現場から飛行機でも数時間かかる土地に滞在していたのだ。しかも、終始同行者の誰かしらや、現地の人間と行動をともにしており、数時間はおろか、数分たりともひとりになる機会はなかったことが何人もの口から証言されている。よって、どんなに心証が黒かろうが、友人に妻を殺せるはずがない、というのが警察の出した結論だった。
彼が使った“トリック”に気付いたのは、私だけだろう。
「君がやったんだな」
後日、友人の自宅を訪れて私は言った。
「そうさ」
彼はあっさりと認めた。そうなのだ、今や二つの肉体を持つ身となった彼は、ひとりを会合に出席させ、もうひとりを現場に残して実行犯としたのだ。事故死に見せかけたのは念を入れてのことだろう。だが、普段から夫婦間の関係がうまくいっていなかった彼に嫌疑がかかるのは避けられない。警察の捜査の手が自分に伸びることは分かっていたため、彼は“完璧なアリバイ”を作った上で犯行に及んだのだ。
「あれは、僕が今まで味わった中でも特に奇妙な感覚だった」彼は、まるで勝利の美酒を味わうように、赤いワインが入ったグラスを傾けて、「仲間たちと宴会に興じていながら、もう一方であいつを殺してるという、まったく正反対の状況を同時に知覚していたんだからね。それに、実行犯のほうの肉体が警察に聴取されても、会合のときのことを何の淀みもなく、実体験のようにすらすらと自然に証言できるからね。どんなに警察に疑われようが、何も恐れることはないよ」
「君、そんなことを話してしまっていいのか? 僕が警察に行くことが絶対にないとでも?」
「行かないさ。だって、行ったところで、誰が君の話を信じたりするものか。犯人は二つの肉体を持ち、それをアリバイ工作に使った、なんていう荒唐無稽な話を」
私は嘆息した。確かにそのとおりだ。彼が“二人一緒”に人前に出るなどというミスをするとは思えないし、私が研究所まで警察を案内したとしても、彼のことだ、すでに機械は、ちょっとはそっとでは見つからない場所に隠してしまっていることだろう。
「というよりも、どうして君は奥さんを殺したりしたんだ? そりゃ、前々からあまり仲がよいふうには見えていなかったが」
「簡単な話さ。邪魔になったからだよ。どうしても離婚を認めない。無理やり別れることは可能だろうけれど、莫大な慰謝料を請求される。あんな女相手に出す金なんて、一文たりとも持ち合わせていないね」
友人は美味そうにワインを口に含んだ。
「だからって、何も殺さなくとも」
「だって、離婚しなけりゃ、別の女性と結婚できないじゃないか」
「えっ? それじゃあ」
「そうさ」
ワイングラスをテーブルに置いた友人は、うっとりとしたような恍惚とした表情を顔に浮かべた。今日に限って友人が“ひとり”しかいないと思ったが、もう一方のほうはどうやら、その新しい相手と一緒にいるらしい。
それから数週間後、私は友人に呼び出された。あの一件以来、私は彼と距離を置いていたのだが、こうして呼ばれれば駆けつけてしまう。自分でも腐れ縁だと思う。
「君に、もういちどあの機械を動かしてもらいたい」
「あの機械って……」
「決まっている」
「じゃあ、君は、もうひとり新たに自分――いや、“肉体”を生みだして、三人になろうってことか?」
「正確には違うな。新しい肉体を生み出すのは正解だが、僕が三人になるわけじゃない」
「どういうことだ?」
「殺されたんだよ。僕が」
「えっ?」
「彼女が逆上してね。包丁で腹をぶすり、さ。いや、参ったよ。死ぬのがあんなに苦しいなんて。もう二度とごめんだね」
彼は苦々しい顔をした。ひとつの自我が二つの肉体を持っている以上、一方が死ねば、その感覚や記憶を否応なく受けてしまうということか。
「で、でも、君が殺されたなんて、そんなニュースは聞いていないぞ」
「当たり前さ。みんな彼女の妄想ってことにして片付けたんだから。彼女が犯行後、冷静になって警察に通報したりせず、恐らく殺人を犯してしまったというショックをのせいだろう、その場で気を失ってくれたので助かったよ。もうひとりの僕が殺されたことを知った僕が、すぐさま現場に駆けつけて、死体を処理して、彼女を起こしたんだ」
「殺したはずの人間が目の前に立っている。さぞ驚いたんじゃないかな」
「だろうね。最初はとりつく島もない恐慌ぶりだったよ。でも、何とか気を落ち着かせて、僕を刺したことはすべて妄想だったんだと言い聞かせた。納得したかどうかは怪しいがね」
「それで、また肉体を作ろうと」
「そういうことだ。頼めるだろ?」
「ところで、どうして君が刺されるなんてことになったんだ?」
「逆上したって言っただろ。あんな感情的な女だとは思わなかった。もう彼女との関係も終わりにするつもりなんだ。まだ籍を入れていなくて助かったよ。とりあえず、僕を刺したことは妄想と片付けさせることに成功はしたけれど、不審に思って警察に話しに行く可能性もゼロじゃない。そうなったら、以前の妻のこともある。事をぶり返されないとも限らない」
「また刺されたときのための用心というわけか」
まるで影武者だなと思い、私は呆れた。が、彼は真剣な表情のまま、
「それもあるが……やろうと思っているんだ」
「やるって、まさか?」
「そうだ。彼女を殺す。また鉄壁のアリバイを確保したうえでね」
「……そのための“共犯者”として必要というわけか」
「ああ。やってくれるだろ。前も言ったが、こんな重要なことを頼めるのは君だけだ。今回は謝礼も出す」
「……」
私は考えた――いや、考える振りをした。ここまで来たらもう私も共犯者のようなものだ。しかも、絶対に捕まるはずのない犯罪だ。
「……分かった」
私が了解すると、彼は安堵の表情を見せた。
「ところで」と私は、「君が奥さんを殺してまで付き合おうとした女性って、どんな人なんだ?」
興味があって訊いてみた。
「そういえば、話していなかったな。君も知っている人だぜ」
「えっ?」
「僕たちの集まりに、たまに参加してくるだろ。いつもポニーテールにして眼鏡をかけている子さ。気が利いて素直な子なんだが、嫉妬深いというか、あんなに執念深いところがあることまでは気付かなかった。君も女性と付き合うときは、よく相手のことを観察したほうがいいぜ」
それから数日後、友人の“肉体”を作る準備が整い、私は再び研究所を訪れた。
「よろしく頼むぞ」
彼はそう言い残して機械に入っていった。
私は携帯端末を開き、ある画像を表示させた。いつかの集まりで撮影した集合写真の一部をトリミングしたものだ。私と彼女がたまたま隣になって写真に収まったものは、これ一枚きりしかない。ぎこちない笑みの私の隣で、ポニーテールに眼鏡の彼女は、屈託のない笑顔を浮かべていた。
間もなく麻酔薬が効いて、装置の中の友人は完全に意識を失うだろう。そのとき彼は完全に無防備になる。いつか彼自身も言っていたように……。
お楽しみいただけたでしょうか。
作中のように、ひとりの人間を分割して二人にする技術が実現可能となったとしたら、「自我」はどうなるのでしょう。双方に別々の人格が生まれるのだとしたら、「自我」も肉体と一緒に新しく誕生するのでしょうか。分身する人間が三十歳だと仮定したら、分身も当然、そのオリジナルが生きてきた「三十年分」の記憶を持っているはずで、「三十年生きた人間の自我」というものをゼロから一気に生み出せることになるわけです。
また、分割したあと、それぞれは当然別の人生を歩むことになるわけで、それからさらに数十年も経過したら、二人(?)はもう、まったく違う価値観を持つ、完全な「別人」となるはずです。スピリチュアルな考え方をすれば、それはつまり「魂」というべきものを人工的に作り出せるということになるわけで、考えれば考えるほどわけが分からなくなります。そんなことをネタにして書いてみました。
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。