君の波乱を願う
時は出会いを刻んで、別れを刻んで進む。
港町でお菓子を買う僕と、思い出と、想いの交錯のお話です。
どうかあなたの行く先が、決して穏やかでなく波乱に満ちた素敵なものでありますように。
「珍しいわね」
「なんだよ、客に向かって」
ドアを閉じる前にカウンターに見知った顔を見かけて、それにその顔が思いきり顰められていたものだから、僕は溜息をついた。
「別に」
「ならいいだろ」
店内はがらんとしていて、昼の青空を歩いてきた僕には暗い。手近な席に鞄を降ろすと、僕はカウンターの前に立った。
「なに、冷やかしじゃないの?」
「僕がそんなに暇に見えるかい」
「ええ、まあ」
「なんだと」僕は口を尖らせながらも、カウンターと一体になったショーケースを眺める。大小様々、色とりどり。
「あんたにスイーツの趣味があるなんて、意外だわ」
「悪い?」
「そんなこと言ってないじゃない」
彼女は長い睫毛を伏せた。メモを覗き込んでいるのが見えて、微笑ましくなる。
「君が店の手伝いをしてることの方が、よほど驚きだよ」
「偉いでしょう」
「まったくだ」
品揃えを見る為にしゃがみこむ。僕の服についていた砂が舞った。
ガラスのケースはよく掃除されていて綺麗だが、それでも僕は目を細めた。
「タルトってどれ?」
「これとこれとこれよ」
ケース越しに指で示される。少し迷って、僕は一番小さいものを選んだ。
「じゃあ、これを二つ」
「はあい」
彼女は銀のトングを持った。ショーケースを裏から開く。
「持ち帰るよね?」
「そうだね、お願いします」
紙の箱を取り出して、彼女は手際よく焼き菓子を入れる。僕は代金をカウンターの上に出した。スムーズに買い、店を出る。
二重のドアを開けて外に出れば、再び晴れ空。まだ暑い季節ではないとはいえ眩しく、乾いた風も日陰を求めて彷徨っているようだった。
僕は石畳を歩く。傾斜になっている大通りを下る方向に歩いていけば、すぐにその端へと辿り着いた。目の前にはなだらかな石造りの斜面が横いっぱいに広がっている。
それを登る。坂の終わりに辿り着くと、砂を孕んだ風が強く吹き付けてきた。
高めの襟に口を埋めて、僕は歩く。埠頭だった。木箱の積み下ろし作業が行われているようで、活気がある。喧噪を横目に進めば、やがて風と波の音とともに、岸壁へと辿り着いた。
腰を下ろす。
「あっ、いた!」
後ろから声がして、僕は振り返った。
「やっぱりここなのね」
「店番は?」
「ちょうど終わったの」
「そっか」おつかれさま、そう言おうとして、何故か声が出なかった。僕は俯く。
そんな僕に構わず彼女は近づいて、隣に座り込んだ。
「あの子、行っちゃったんだ」
「……話したっけ?」
「聞いてないけど」
彼女はその澄んだ瞳で遠くを見つめていた。
「この町にあの子が来てから、ずっと一緒だったじゃない。今日は一人だったから」
「なるほど」
僕は俯いた。海風が渦巻く。
「分かってたことじゃない」
分かっていたことだ。船乗りは船に雇われ、街と街を渡る。ずっとこの町にいることなどなく、すぐに海の向こうへ行ってしまうことなど、知り合ってすぐに知った。筈だった。
「そうなんだけど」
「だからそんな似合わないお菓子なんて買ったんでしょう」
「……まあ、そうなんだけど」
表面をナパージュで艶めかせたタルトは、旅立つ人へ送る水。別れ際に人に送ったり、他界した者を想ったり、そういった側面の強い菓子だった。
「でもこういうのは直接渡すものよ」
「知ってるよ」
僕は今朝を思い出した。
いつものようにあの人に会いにいって会えなかった。
大きめの船が今朝早くに港を出た。
僕は待って、昼まで待って、ついに会えなかった。
「別れの言葉すら、言わせて貰えなかったんだ」
思い出すだけで目が鼻が強張ってくる。僕は俯いた。
「そっか」
「今更こんな所にいても、こんなものを買っても、何の意味もないのに」
相変わらず乾いた風が重たく、煩かった。
「じゃあ、食べちゃおうか。それ」
彼女は言うと同時に、僕の持っていた箱を勝手に開く。二つある焼き菓子のひとつを取り出し、何のためらいもなく齧った。
「ちょうど二つあるね」
「それはあの人の……」
「保ってせいぜい一日なのよ、こういうお菓子は」
彼女は持っていたタルトを少し砕き、僕の口元へ押し付けた。
「なにするんだよ……おいしい」
「当然よ、うちの店のスイーツなんだから」
言いつつ彼女が手で示すままに、僕はもう一つを手に取った。
フルーツの香りがする。
「あのね、特別な贈り物をするのって、もう会えない別れ際にするものなのよ」
さく、さく、乾いたクッキー生地が心地よい。
「あの子だって、もう二度とここに来ない訳じゃないでしょう。半年後か一年後か知らないけど、船乗りってそういうものじゃない」
冷えたゼラチンが喉を癒す。
「そうやってまた会った時に、昨日会ったときと同じようにするのが、本当の友達っていうやつなんじゃないかしら」
果実が、砂糖が、舌で踊る。
「そう、だね」
「だから今は別れじゃないの。また今度、よ」
「うん」
「また急に現れて、変な土産話をいっぱい聞かせてくれるわよ」
彼女は手をはたいて生地のかすを落としながら、立ち上がった。店の制服の裾がくたびれている。
「あら、もうこんな時間」
「店番、本当は抜けてきたんじゃないの?」
「ご名答。この時間はお客さんは少ないけど、それでもそろそろ戻らなくちゃ」
彼女は肩を竦めた。
「あんたも程々にして帰るのよ」
「はいはい」
「またね」
彼女は歩き出す。僕はその背を追って振り返り、手を振った。
「ありがとうね」
「まあね。今後ともご贔屓に」
「機会があれば」
彼女を見送る。小さくなって見えなくなって、僕はやっと夕暮れの空に気が付いた。
僕は立ち上がった。海辺に居るとすぐに砂まみれになってしまうのがよくない。
顔を上げれば、目の前には細かい砂の砂漠が広がっている。夕陽に照って、黄金に赤銅に燃える。遠くの砂上船の影が、蜃気楼の上を飛んでいた。
「またね」
乾いた風に言葉を乗せる。
今も船の上で、君は笑顔でいるだろうか。
船の旅路は退屈しなくて好きだった、と笑ったあの人を思い出す。
次に会ったらどこへ行こうか。一緒にお菓子でも食べに行こうかな、考えて歩き出す帰路は、暖かい。
読んでいただき、ありがとうございました。