第三幕 勇 参
『綺麗な毛並をしてるのね』
細く、たおやかな指先が、身体を撫でる。不快ではなかった。
眼が赤い。ただそれだけの理由で不吉だと言われ、度々人から追われた身からすれば、彼女の態度は不可解でもあった。
『怪我をしているのね。連れて帰れないかしら』
供の者には反対されていたようだが、結局、彼女は我を通した。抱き上げられ、背中を優しく撫でられる。初めてのことだった。
『そうだわ。せっかくだから、あなたに名前をつけてあげないと』
胸元から見上げた彼女の顔は、満面の笑みを浮かべていた。輝くような、美しい笑顔だった。
『それだけ綺麗な白なんだもの。それにちなんだ名前がいいわ』
そうね……と楽しげに考える素振りを見せ、彼女は再び口を開いた。
『うん、決めたわ。あなたの名前は――』
*
「なーなおちゃん!」
「フギャッ!?」
腹部に衝撃を受け、七尾は思わず猫々しい悲鳴を上げていた。
原身に戻ってソファでまどろんでいたら、どうも皿洗いを終えたこのかに頭突きをくらったらしい。腹にこのかの頭がめり込んでいた。
「こ、このか……」
なにか言おうと口を開きかけたところに、
「もふもふもふもふもふ~!」
「うにゃにゃにゃにゃ~っ!?」
第二波、襲来。
このかは七尾の腹に顔をうずめたまま、ぐりぐりと頭を動かした。くすぐったいような、むず痒いような、なんとも言えない不快感に反射的に爪を立てかけるが――なんとか自制して身をひねり、束縛から逃れて距離を取る。
「フーッ、フーッ……なんなのよ、もう……」
どうにもこの少女とは相性が良くない。というか、子供は天敵だ。行動パターンの予測ができないし、力加減はできないし、撫でるにしても毛並に沿って撫でてくれないし。
というか、いつの間に皿洗いを終えたのだろうか。少しまどろんだつもりが、存外熟睡してしまったようだ。
「あ~! 逃げないでよ~!」
ぷんぷん、と不満そうに膨れるこのかだが、
「逃げるわよ!」
「むー……とう!」
第三波。
ててててっ! と近寄ってくるこのかを、ババッ! とかわして距離を取る。
「にゅっ、やっ、ていっ」
次々繰り出される捕獲の腕を、すんでのところでよけてさけて回避する。
バッ!
ササッ!
ババッ!
バッ!
シュシュシュシューン!
バババババババッ!
高度な攻防がしばらく続いた。
「七尾ちゃーん、さーわーらーせーてーっ」
「イーヤーよーっ」
このかの俊敏さには目を見張るものがあった。殺気のようなものさえ感じられるほどだ。そのくせ表情は超ご機嫌で、七尾が全力で拒絶しているのにまるで気にした様子がない。
怖い。もの凄く、怖い。
捕まったらなにをされるか分かったもんじゃない。
猫としての身体能力を最大限に発揮すれば、このかを振り切って逃げだすことなどそう難しくもなかったが、このかのお守役として残っているがためにそれもできない。まさに絶体絶命である。
――とかちょっと思考している間に、このかが一気に距離を詰め、
「しまっ――」
「つーかまーえたっ」
捕獲された。
苦行の時間である。
がっちり抱きかかえられ、頭頂部に頬ずりをぐりぐりぐり、とかまされる。
「なーなーおーちゃーん」
ぎゅううう。
「げぇえええ」
締め付けが強くなると、肺から空気が絞り出されて、潰れたカエルのような声が出る。
これが千二百年も生きた大妖怪の姿かと思うと、我ながら情けなくもあるのだが――
それでも邪険にできないのは、勇の命令であるから、だけではなく。
「えへへ、ななおちゃーん」
このかの身体が小刻みに震えているのに、気が付いてしまったからだった。機嫌のよさげだった笑顔はなりを潜め、ぎゅうと強く抱きしめられる。しかし今度は、息ができるくらいに力加減がされていた。
頭に押し当てられたこのかの薄い胸の向こうでは、心臓が激しく脈動していた。
「ねえ、七尾ちゃん」
「なによ」
「お兄ちゃん、大丈夫かな」
そう呟いて小さく縮こまるこのかに包み込まれるように、七尾の身体も丸くなる。
このかの問いには、即答できなかった。
「このかね、知ってるんだ。お兄ちゃんのお仕事のこと」
七尾はなにも言わず、ただこのかの言葉を聞いた。
「お兄ちゃんは、幽霊とか見える人で、悪い幽霊とか退治するお仕事してて、でもこのかが怖がらないようにって、そういうお話はしないでくれてて、強くて、優しくて、カッコよくて、このかの、自慢の、お兄ちゃんで」
堰を切ったように、言葉が溢れだす。
「今日だって、ランちゃんとデートとか言ってたけど、ウソだもん。お兄ちゃん、お仕事行くときはいっつもおんなじ上着で行くもん。昨日から人殺しが街に出てるって、学校で言われたもん。きっとお兄ちゃん、そいつを退治しに行ったんだ」
少し鼻声で、このかはまくしたてた。幼いながらも、勇のことをよく見ている。幽霊退治、から人間相手かもしれない通り魔退治まで発想が飛躍するところが子供らしいが、今回に関してはそのものズバリ、大正解だ。
さて、どうしたものか。
「いっぱい人が殺されたって聞いたもん。お兄ちゃんが死んだらヤだもん。……ヤだぁ」
ぽたぽたと上から温かい水が降ってきた。どうやらよくない想像を働かせすぎて泣き出してしまったようだ。
七尾は思わず苦笑すると、拘束の緩んだこのかの腕から、するりと身を抜いた。
「あ……」
トン、と床に降りた七尾を、寂しげな声が追いかける。七尾はこのかの方を振り向くと同時に、少女の姿へと人化した。
改めてこのかを見ると、あれだけ元気だった姿はどこへやら、すっかりしおらしくなってぽろぽろ涙を流していた。
それを見て、再び苦笑する。
「バカね」
少しだけ身を屈めて、ソファに座るこのかの頭を撫でた。
「強くて優しくてカッコいい、自慢のお兄ちゃんでしょう? なら、信じてあげなさいな」
「なな、お、ちゃ……?」
「それにほら、ドジだけど――ランも強いのよ? あなた、あの子が妖怪だって忘れてないかしら? 人殺しだか通り魔だか知らないけど、妖怪に勝てるわけないじゃない」
我ながら薄い言葉だな、と思う。その人殺しの正体がもう一人の自分自身であると知っているから、なおのこと。
本来、気休めであろうとこんな言葉を口にする資格など、ありはしないのだ。
「だい、じょうぶ?」
「ええ」
このかの問いに、頷く。
「お兄ちゃん、帰ってくる?」
「もちろん」
頷く。
「う……」
このかは一度しゃくりあげ、
「うええええぇぇぇ……」
今度こそ、盛大に、泣いた。それはもう、夕方のランに負けずとも劣らぬ勢いで。
きっと、このかはこのかなりに、不安だったのだ。
勇がどんなことをしているかなんとなく分かっても、聞けなくて。
出かける勇が無事に帰ってくるという保証はどこにもなくて。
だから、誰かに。
根拠などどうでもいいから、状況を理解している誰かに、否定して欲しかったのだ。
お前の不安はバカらしいものだ、と。
その誰かが七尾だったというのは、なんの因果だろうか。
抱きついて泣きじゃくるこのかの頭を撫でてやりながら、七尾は少しだけ、このかを抱く腕に力を込めた。
服に染みこんでくる涙の熱さが、今は重い。
2018/12/15現在連載中の作品はこちら
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二週間に一回くらいのペースでしか更新できていませんが、気長にお待ちいただけるとありがたいです。




