第二幕 猫夜叉 捌
「会話は、もう終わりましたか?」
押し殺した声で呟き、ランが一歩前に出た。濃紫色の竹刀袋が、はらりと地面に落ちる。中から出てきたのは、黒い鞘に包まれた、一振りの刀だった。
「――児玉の猫夜叉。お前をこの場で滅します」
左手に刀を下げたまま、ランは静かにそう言った。全身の力を抜きつつも一切の隙がないその姿は、戦場に佇む侍にも見えた。
湿り気を帯びた風が、彼女の灰色の髪をさらりと撫でた。
ランと猫夜叉との距離はおおよそ十メートル。その中の一歩。ランはただ一歩だけ、前に出た。
かちゃり、と刀が鳴る。それは緩く握っていた刀の鞘を、強く握り直した音だ。
歩きながら、ランは静かに刀を身体に寄せ――腰の位置へ持っていく。
そこでようやく、猫夜叉はランを見た。狂気を孕んだ紅い眼が、嗤っている。
間合いが詰まる。相対する距離は六メートル。一足の間合いには充分すぎるほどに、近い。
ランから放たれる殺気は、初夏の熱気を真冬の凍気へと変えていた。静かに、路地全体を包むように流れる殺気は、七尾の肌すら凍らせるかのようだ。
ランはぴたりと足を止めると、今まで鞘だけを持っていた刀の柄を、残る右手でそっと握りしめた。
腰の重心は低く落とし、足は肩幅よりさらに広い。鞘に包まれた刀は捻ったランの上体に隠れている。
――居合の、構え。
鋭いだけだった殺気が、明確な刃となって猫夜叉に向けられた。
「ふッ――」
ただ一度だけ、短い吐息。
「――あ?」
薄汚れたビルの壁に、どす黒い赤が飛び散った。
瞬間、猫夜叉の首元からスプリンクラーのように血が噴き出す。
「な、ん――」
目を剥いた猫夜叉が言葉の続きを発する前に、刹那の瞬きが二度。その二度で、猫夜叉の体躯に新たな線が二本刻まれた。
脇腹と、胸。線はすぐに赤い滲みを生み、猫夜叉の白い身体を侵していく。
初めに傷を負った瞬間から、猫夜叉とて理解していた。
これは斬られたのだ、と。
しかし同時に理解できなかった。
どうやってあの間合いから、自分を斬ったのか、が。
ランが抜刀と同時に放つ剣閃は、ただ一瞬の光にしか見えない。
刀身が伸びているわけではない。猫夜叉が認識できない速度で間合いを詰め、斬っているわけでもない。
猫夜叉は自らの意志で、傷を負った自分自身を否定した。その強い精神とイメージが、霊体の傷を消してゆく。霊体が肉体より優位にある妖怪は、物理限界を精神力で超えることができる。強い意志が、霊体の瞬間的な自己修復を可能にするのだ。
傷を塞いだ直後、四度目の閃光が瞬いた。それを気配だけで察知し、斬撃が飛来する直前に猫夜叉は跳んだ。
見えない斬撃の間合いが測れない以上、後ろへ跳ぶのは危険だ。前へ跳ぶのは論外、左右は返す太刀で追われる。ならば、追いにくい方向へ跳ばねばならない。
瞬時に思考して、彼女は路地裏を囲む壁へ跳びつき、その爪をコンクリートに打ち込んだ。
ビルの壁に蜘蛛のように張り付いた彼女の真下を、激烈な殺気が、霊力を伴って駆け抜けていった。放たれた霊力はコンクリートの壁にぶつかり、そのまま霧散して大気に溶けた。壁には傷一つない。
「剣圧――!!」
猫夜叉は一目で不可視の斬撃の正体を看破した。
抜刀の瞬間に発生した剣圧に霊力を乗せ、霊体にのみ効果のある「飛ぶ斬撃」として撃ち出す。周囲に物理的な影響を与えず、対象とした霊体のみを容赦なく断ち切る、まさに対心霊、妖怪に特化した攻撃だ。霊体の構造に欠陥のある今の猫夜叉には、被弾そのものが無視できないダメージになる。
ランに目をやると、彼女は刀を頭上に掲げ、鞘から抜き放つところだった。
怖気が走る。
猫夜叉がコンクリートから爪を引き抜くより先に、五度目の剣閃が閃いた。地面に叩きつけけるかのごとく振り下ろした斬撃は、これまでの神速の居合と異なり、刀の刀身をはっきりと猫夜叉に視認させる。
鞘から抜き放たれたのは、刃渡り二尺三寸五分、反りの小さな一振りの刀だった。
刀としての造形は恐ろしく古く、刀身の半分までが両刃となっている、特徴的な切っ先両刃造り。剣から刀への過渡期に打たれたであろう、至高の一振り。
あの刀を七尾が、猫夜叉が、忘れるはずがない。
「朝霧ッ――!」
ランの手の中にある刀を見た猫夜叉は、紅い眼を血走らせて見開いた。
そしてそれは、爪を引き抜いて離脱、という猫夜叉の判断を致命的に遅らせる。
斬撃と共に解き放たれた霊力は、まるで蛇のように地を這い、壁を垂直に駆け上がり、狙い違わず猫夜叉の右腕を断ち斬った。
「!!」
途端、猫夜叉の身体は重力に引かれて落ちていく。ランはその落下点を予測し、六度目の居合の構えを取った。落下点までは、おおよそ六メートル――!
「そう。イヌに扱われてでも、あたしを止めようって言うのね、朝霧。また、あたしを否定するのね」
落ちてくる猫夜叉がなにかを呟いているが、ランは意に介さない。ただ敵を両断せんと、一歩だけ踏み出す。
ランはその一歩で、残った六メートルをゼロにした。
流れる身体。踏み出した一歩は、同時に必殺の斬撃を繰り出すための踏み込みになる。
まばたき一回する間もなく、ランは猫夜叉の目の前に迫っていた。
振り向いた猫夜叉と、視線が絡む。
「――――」
ランが刀を抜き放つ。
「――アハッ」
猫夜叉が、嗤う。
「ッ!」
「ハッハァ!!」
斬り上げる斬撃と、振り下ろされた爪が、正面からぶつかり合った。
ギィン、と甲高い音を上げ、両者の力は一瞬だけ拮抗する。
拮抗した力はすぐに反発を生み、互いを弾き飛ばす力に変わる。
吹き飛ばされたランは、着地と同時に再度踏み込まんと、空中で器用に身を捻り、受け身を取った。
吹き飛ばされてから着地に至るまで、ほんの一、二秒程度のことだっただろう。
しかし、ランが着地するはずの場所には、影があった。
文字通り、影である。
薄暗い路地裏で、かろうじて輪郭を保っていた猫夜叉の影が、長く伸び、さらに立体的に膨れ上がる。どす黒い、巨大な鬼の貌が、ランを待ち構えていた。
そしてソレは、唐突に、その巨大な口をがばりと開けた。
「な――」
ランが着地をする、まさにその瞬間のことであった。今更止まることなどできようはずもない。
まるで自ら飛び込むかのごとく、ランは巨大な鬼に呑まれていった。
「――――」
その時の気分をなんと表現すればいいのだろうか。ごっくんと大げさに喉を鳴らしてランを嚥下する巨大な鬼の貌を、七尾はただ呆然と眺めていた。
ランが弱かったわけではない。むしろあれだけ猫夜叉と渡り合えたのだから、相当な手練れだ。油断があったわけでもないだろう。
惜しむらくは――というか唯一にして最大の判断ミスは、猫夜叉の術式を想定していなかったこと。否、術式を使用すると思わなかったことだ。
霊体は霊力という同質の力にすこぶる弱い。術式を使用した者の霊体さえ、多少なりとその反動で影響を受けるほどに。
例えばそれが、霊体の強度が十分にある七尾やラン、肉体で霊体を保護している勇であれば、その反動は無視できるだろう。しかし、今の猫夜叉は一目見て分かるほどに霊体の構造が穴だらけだ。事実、今発動した術式の反動か、右腕の修復が追いついていない。
そんな状態で術を撃ってくるなどとは、誰が想像するだろうか。
――想像、してないければならなかった。
ランにできなくとも、勇にできなくとも、七尾だけは、想像できていなければならなかった。
ランの持つ刀の意味を、朝霧がどれほど七尾と猫夜叉にとって重要なのかを知っていたからこそ、なおのこと。
これは間違いなく、七尾のミスだ。それも致命的と言えるほどの。
しかし、そのミスを気にしていられる場面でもなかった。ランがいなくなれば、次の標的は七尾自身である。七尾は猫夜叉を睨み据え、口を開いた。
「で? 彼女、取り込んだの?」
猫夜叉は、七尾の鋭い視線を受けてなお、禍々しく笑っていた。
「ええ、そうねえ。あのイヌ、霊力はかなり上質だものねェ」
「――――」
七尾は内心歯噛みした。ランの保有する霊力は、質、量ともに児玉の直系筋に劣らない。いや、むしろ人間より使用の制限がない分、勝っていると言ってもいい。あのクラスの霊力を持っている妖怪など、現代では数えるほどだろう。
猫夜叉がランを丸ごと取り込んでしまうような事態になれば、いよいよ止めようがなくなる。ただでさえランは朝霧ごと呑まれてしまったというのに、だ。
「でも残念。今あのイヌを取り込んだら、あたし内側から破裂しちゃうのよね」
猫夜叉は歪んだ口元を隠そうともせず、嫌らしい笑みを浮かべ続けている。
今、猫夜叉の霊体は脆弱だ。その補強をするのなら、土生金で土気から霊力を得るのが最も安全かつ確実だろう。だからこそ裸虫――土気に属する人間を襲い、喰っているのだ。
その点、ランは四足の毛虫、七尾や猫夜叉と同じ金気の妖怪。同じ属性であるが故に力は補いやすいが、それが霊体の許容限界を超えるようなものであった場合、内部崩壊は必至である。
「なら、どうするつもりなの?」
「安心していいわ。少し遠くに行ってもらっただけよ。人質……この場合イヌ質かしらね? に使うって手もあるけど、アレを閉じ込めておくだけの余裕もないし」
猫夜叉は愉快そうに笑いながら、
「ただ――コレだけは取り上げておかないとねェ?」
どす黒い泥の山のように盛り上がった自らの影に、その白磁のような腕を突き刺した。
ずるり、と引き出されたのは、
「朝霧……!」
ランが手にしていた、反りの小さな古刀。
「あのイヌ、コレが扱えないのかしら? コレがただの刀じゃないことくらい、分かっているわよね、あたし?」
猫夜叉は、まるで愛しむかのようにその刀身を胸に抱き――陶酔した声で呟いた。
「ああ……おかえり朝霧。朝霧。会いたかったわ朝霧。もう何も心配いらないわ。あなたを殺したあなたの敵は、全部あたしが殺すもの」
「朝霧は――そんなこと望んでいなかったわ」
七尾ははっきりとそう告げていた。猫夜叉の言は、七尾にとって到底許容できないものだった。
七尾は「彼女」が好きだった。好きだったから、最期の願いを聞こうと思った。
猫夜叉は「彼女」が好きだった。好きだったから、いなくなることに耐えられなかった。
元は一つだったモノが、どうしようもなく食い違ってしまった。
猫夜叉の紅い眼が、ぎらりと一際強く光った気がした。その表情にはもう、笑みは浮かんでいない。そこには、凄絶なまでの憎悪だけがあった。
「あんたはあたしのくせに、まだそんなことを言っているのね」
「あなたこそわたしのくせに、まだ分からないみたいね」
睨み合いは、数瞬のことだった。視線を外したのは猫夜叉の方からだった。
「……まあ、いいわ。今更どうにかなるものでもないし」
その通りだ。意志が統一されているのなら、こうして分かれることなどなかった。
「そうね。じゃあ、これからどうするつもり?」
「今は退いてあげる。あんたを殺すのは容易いけど、それであたしの霊体に反動が来るのは面白くないわ」
その言葉と同時に、猫夜叉の影は再び巨大な鬼の貌を形作った。そのまま今度は、猫夜叉自身を呑みこんでいく。
「次に会うときは――必ず殺してあげるわよ、あたし」
為す術なく立ち尽くす七尾の前で、猫夜叉を嚥下した影は地面に溶け込むように消えてしまった。後には何の痕跡も残っていない。空間を超えて移動した以上、追跡のしようもなかった。
「朝霧……」
疲れの滲んだ声で呟き、七尾はビルの壁にもたれかかった。
思い出したかのように、空が泣き出した。
2018/12/15現在連載中の作品はこちら
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二週間に一回くらいのペースでしか更新できていませんが、気長にお待ちいただけるとありがたいです。