第二幕 猫夜叉 漆
「さて、ラン。準備はいいかしら?」
「できてはいますが、わたしに指図をしないでください、妖怪」
「……だからあなたも妖怪じゃない」
勇が青司の依頼を受けた、その明くる日。世間では月曜日と言われる週の始まりの日に、ランと七尾は連れ立って天海家の敷地から外へ踏み出した。
どうしてこうなった、とラン的には正直納得しきれていない部分もあるのだが、勇の代理だと思えばそんなことはどうでもよかった。彼女にとって、まず最も優先するべきは勇の意向だからである。
ならばその勇の意向とはどんなものなのかというと、
『昼間は学校あるからその間の捜索ヨロシク』
というものであった。
最初は学校を休んででも捜索、討伐を優先すると言っていたのだが、学生業をおろそかにしてはならないと苦言を呈してみたら渋々ながらも折れてくれた。代わりに提案されたのが、昼間自由に動けるランによる捜索である。
もちろん、それ自体に異論はない。あらゆる意味でランの目的とも合致している。
『ただし、七尾も一緒にな』
この言葉さえなければ完璧だっただろう。
勇としては、単純に最善手を打っただけなのだ。それは分かる。
ランが七尾の監視を兼ねていること。七尾が猫夜叉の知識を豊富に有していること。同時に行動していれば、合流、連絡が容易なこと。戦闘力の低い七尾をランがカバーし、戦術、戦略面を七尾がカバーする、ということまで想定されていて、その判断には反対のしようがない。
しかし、信用以前にどうしても七尾を好きになれないランとしてはこう……モヤモヤするのである。敵だから、とかそういう理由を抜きにしても、彼女のことが気にくわない。
どうしてなのかはよく分からないが――
「ラン?」
「ッ――」
唐突に声をかけられて、我に返った。先に家から出た七尾が、不思議そうに見上げている。
「準備、できたのでしょう?」
「え、ええ。できています。鍵をかける間くらい待ちなさい」
これから大事なお役目があるというのに、呆けるとはなんということか。頭から余計な思考を追い出すように大きく息を吐くと、ランは家の鍵をかけた。
*
平日の昼間であろうと、繁華街の人通りは多かった。陰鬱な曇り空が、今にも泣き出しそうな気配を醸し出している。
いまいち土地勘のないランと七尾は、とりあえず大きな通りに沿って歩くことにした。
二人揃って容姿が容姿であるせいか、幾分人目を引いたようだが、注視され続けるわけでもなかった。七尾が「認識阻害の術」の効果範囲を少し広げたせいだろう。
「現場は路地裏、だったかしら」
「どこの路地裏か、までは不明ですが」
不機嫌な表情のまま、ランは七尾を見ることなく返答する。露骨といえば露骨な態度に、七尾は思わず苦笑していた。
ランは背筋を凛と伸ばしたまま、周囲の風景を観察するように歩いていた。
その姿は毅然としている、というより、張り詰めている肉食動物を連想させた。
「わたしも随分嫌われたものね」
「……別に、嫌っているわけではありません。それ以前の問題です」
このかに問われたときも、彼女はそう答えていた。七尾のことが信用できない、というのは分かるのだが、それにしてもランは必要以上に攻撃的だ。単純に嫌いだから、信用できないから、などという理由ではとても説明できない。
会話の続けようがないので、仕方なく七尾はランと肩を並べて無言で歩き続けた。
信号機が赤になり、足を止める。目の前にそびえる一際高いビルの壁で、巨大なテレビがニュースを流していた。
「さすがに一晩で八人となると、報道せざるをえないわね」
ニュースの内容は、昨日聞いた内容そのままだった。周囲を見回してみると、警察官の姿があちこちに見受けられる。彼らも厳戒態勢で捜査しているようだが、運よく犯人を見つけられたところで太刀打ちできるものか――率直に言えば、新たな犠牲者になるだけだろう。
信号が青になった。二人は黙ったまま、横断歩道を渡る。
さすがに駅の近くともなると、交通量も多い。脇を走る、無数の自動車の群れ。なにげなく、視線を移す。
途切れ途切れに視界に入る、向かい側の横断歩道。その一角だけがぽつんと開けている。四車線の車道の向こうに、既視感のある姿を見つけた。
「――――あ」
視線が、絡む。
曇り空の下、それでも輝かんばかりの白い髪、白い肌、白い着物。恐ろしく人目を引くような容姿であるにも関わらず、誰一人として彼女に視線を向ける者はない。
白く白く白い姿と対照的に、その身に纏った妖気は尋常ではないどす黒さだった。そのあまりにも異質な気配に、誰も近寄ろうとしないのだ。だから、人通りが多くても、誰も気づかなくても、一部分だけぽっかりと穴が開く。
七尾自身とよく似た、彼女をそのまま大人にしたようなその女は、禍々しい紅い瞳をぎらつかせ、口の端を大きく歪めた。
「ら、ラン!」
「分かっています!」
人ごみの中に消えていくその姿を食い入るように目で追うが、交差する大量の車の間を突っ切って追いかけるのは不可能だ。
しかし、ランはイヌ科の動物の妖怪だった。
「その臭い、覚えた……絶対に逃がさない!」
横断歩道を渡りきると同時、また信号が変わった。進行方向を直角に曲がり、青信号になったばかりの横断歩道を渡るランを追い、七尾も走る。
さすがに獲物を追跡する場面となると、イヌ科の動物は強い。一切迷う素振りもなく直進するランの灰色に煌めく長い髪を目印に、なんとかついていく。
小柄であるが故に人の間を進みやすい七尾と違い、ランの体躯は平均的な十代の少女のそれと大差がない。にも関わらず、その動きは驚くほど滑らかだった。
人と人のわずかな隙間を一瞬で見つけて的確に縫っているかのようにスムーズで、進行に一切の停滞がない。
大通りから細い通りに入り、そこからさらに路地裏へ。あんなにたくさんいた人間も、見る間にその数を減らしていく。
路地裏から路地裏へと奥まったそこは、一つの異世界だった。
行き止まりになっているそこは、道ではなく密室として機能している。
周囲を建物の壁で囲まれた狭い道は、昼間でさえまともな光が差し込まないのだろう。曇り空である今ならばなお薄暗い。
街の死角とも言うべきその隙間に、ソレは佇んでいた。
「随分しつこく追ってきたわねぇ、イヌ」
紅い眼を禍々しく光らせ、ソレは嗤った。そして、視線をランから動かし――
「それと――まだ生きてたの? あたし」
七尾を、傲然と見下ろした。
「あなたこそ、霊体がスカスカじゃない。わたし抜きでよく身体をもたせられたわね、わたし」
それに対し、七尾は臆することなくツンとすまして返答してやった。
実際、七尾の見立ては間違ってはいなかった。保有する霊力はともかく、それを完全に行使するだけの霊体強度を、あの自分……猫夜叉は持ち合わせていない。昨夜人間を食い荒らしたのも、霊体の補強を目的としているはずだった。
猫夜叉はふん、と鼻を鳴らし、その美しい顔を憎々しげに歪めた。
「せっかく邪魔者を切り離したのに、今度は人間に味方してあたしの邪魔をする、というわけね。やっぱり直接殺してあげるべきだったかしら」
白い女から発せられる、どす黒い瘴気に全身を叩かれながら、それでも七尾は美貌に薄く笑みを張り付けた。
「そうね、それが賢明だったと思うわ。なにしろ自分のことだもの。知らないことなんてないものね」
「そう。そんなにお喋りなら今すぐにでもその口を塞いだ方がよさそうねぇ、あたし」
「さあ、そんなに簡単に殺せるかしら? 術の反動で身体が吹き飛ばないといいわね、わたし」
一触即発。白刃で斬り結ぶかのような言葉の応酬。ぶつかり合う視線が火花を散らし、緊迫感が際限なく高まっていく。
それは、お互いが同一の存在であったからこそ生まれる、最大級の嫌悪の感情。七尾自身にとって、猫夜叉はどうしようもなく、決定的に、確定的に、致命的に――目障りな、否定するべき存在だった。
2018/12/15現在連載中の作品はこちら
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二週間に一回くらいのペースでしか更新できていませんが、気長にお待ちいただけるとありがたいです。