第二幕 猫夜叉 陸
深夜――
「こんばんは、お嬢さん。今夜は月がよく見えるわね」
そう話しかけられたところまでは覚えている。ああ、確かに今夜は月がよく見える。綺麗な半月だ。もう少ししたら、満月が煌々と世界を照らすだろう。
そらが、こんなにもきれいだなんて。
ここなんねんも、おもったことはなかったから。
だから、月光の下、茫と立っている真っ白な女性が、銀色に輝く「なにか」を指先に生やしているのも、まるで夢のように感じていた。
頭の片隅で、自分の醒めた部分が、アレは危ないものだと言っていたけれど。
そんなはずがないじゃない。
だって、あれはとてもきれいなぎんいろだもの。
銀色の月明かりと、濃紺の闇。その間に、鮮やかな赤が混ざった。
なんて綺麗なトリコロール。けれどなぜだろう。赤の広がるのが速いのは。これじゃあ世界が真っ赤になってしまう。
「ねえ……みんな……あかい……よ?」
問い掛けに答える声は、あくまでも柔らかく。
「そうね。でも、世界で一番綺麗な色だと思わない?」
ああ、そうか。この色が一番綺麗な色なんだ。
わたしのせかいがいちばんきれいにそまるなんて。
それは、なんてしあわせ。
「そ……ね……。きれ……い」
紅に染まる世界を、彼女は素直に美しいと感じた。その赤すら漆黒に塗りつぶされるとも知らず。
「おやすみなさい、お嬢さん。良い夢を」
純白の肢体を赤く染め上げながら、彼女は口元を歪めた。
*
翌日。
この日も朝から雨だった。夜中は晴れていたらしいが、寝ている時間に晴れても嬉しくもなんともない。
雨の日曜日。一日部屋に引きこもって過ごそうと思っていた矢先に、勇の携帯電話が鳴った。着信相手は――当然ながら――知った人間だった。
「あんだコノヤロウ」
俺、かったるいなう。という主張を隠そうともせずに、ベッドに寝そべったまま、勇は電話に出た。愛想のない声が、電波に乗って相手の鼓膜を震わせる。
「俺だ、勇」
返事はさらに無愛想だった。しかしその中に、幾分親しみが込められているのも感じた。
「今時オレオレ詐欺か? 俺には事故るような息子はいません」
「茶化すな」
ギャグでごまかしてみても、やっぱり返事は無愛想だった。勇はため息交じりに起き上がると、外出する覚悟を決めた。
「ババアの差し金か? 随分話が早いな、青」
児玉青司は、児玉辰人の一人息子だ。辰人が高校卒業と同時に結婚、すぐに生まれた子供であったため、従兄弟たちの中でも最年長で、今年で十九になる。
青司は大学進学を機に上京していた。児玉家と懇意にしている旧家に世話になっているそうだが、実際のところアレはほぼ入り婿だ。というのが彼の状況を見た勇の見解である。
「今からこっちに顔を出せないか?」
「あー、七尾の件だろ? ヤだよめんどくせえ。今日雨降ってるじゃん」
「だろうと思った」
受話器越しにフーと大きなため息が聞こえた直後。
ぴんぽーん
玄関の呼び鈴が鳴った。
「……もう来てんじゃねえか」
どうやら外出はしなくて済んだらしい。
上京してきてから顔を合わす機会が増えたが、青司は一見近づきがたい印象を与える青年だった。表情の変化に乏しく、無愛想、かつ無口。父親のような気さくさはほとんどないと言っていい。
実際、このかが緊張で委縮してしまったのでランについていてもらい、リビングで出迎えたのは勇と七尾だけだった。
「そいつが、猫夜叉の出涸らしか?」
険の強い眼差しで、青司は問うた。黒いシャツに黒いスラックス、黒い瞳に黒い髪。名前に青とかついてるくせに、本人はこれでもかというくらいに黒い。ある意味七尾の対極に位置すると言えなくもない。
「七尾だ。俺がつけた」
対する勇はソファにふんぞり返りながら、その三白眼で青司を見据えた。
「あなたたち……揃って目つき、悪いのね」
そして、話題の中心にいるはずの妖怪の第一声がコレだった。
『ほっとけ』
勇と青司のツッコミが綺麗に重なった。二人分の視線を集めた七尾が、おかしそうにくすくす笑う。
「……で、用件は? やっぱり七尾を殺すってんなら、俺が相手になるぜ?」
気を取り直して、後頭部をがしがし掻きながら青司に問う。しかし譲らない一線は明確に刻んだ上で、だ。七尾も表情を引き締め、青司の返答を待った。
「いや。現場での経験は、勇。俺たちの中で間違いなくお前が一番積んでいる。梓も反対はしなかったんだろう? お前がそいつ――七尾といったか。七尾を生かしておくと決めたのなら、俺にも反対する理由はない」
お前を信用している。だから七尾には手を出さない。青司は暗にそう言った。
「それに、なんというか……弱そうだしな」
「ほっといて」
続く青司の言葉に、今度は七尾がむくれながら反論した。
「俺がここに来たのはそれと別件だ。まあ、厳密には別件と言えなくなるかもしれないが」
無言で続きを促す。青司はそのまま淡々とした口調で、続きを口にした。
「昨夜から今朝未明にかけて、この汐路町内で十代後半から二十代の若者が八人、死体で見つかった」
「それで?」
眉間に皺を寄せて、勇は身を乗り出した。この街で八人も、というのは穏やかではない。勇自身はともかく、このかや勇の友人たちにも危険が及ぶかもしれないのだ。
青司は黙って持参した紙袋の中身を取り出し、テーブルの上に広げて見せた。どうやら件の資料のようだが、事件が起きたのは昨夜のことだ。せいぜい死体の発見場所と被害者の簡単なプロフィール、あとは生前と死亡後の写真くらいしかない。
「おーお、派手に食い散らかしてんな、こりゃ」
勇は写真を見比べると、遺族に呪い殺されそうな台詞を吐いた。
しかし、そうとしか形容のできない惨状だった。まるで、大型の肉食動物にでも食いちぎられたかのような、不定形の肉塊。と――生命の輝きが感じ取れるような、精気に溢れた若者たちの写真。
生前と死亡後で同じ顔が並んでいるものは、一枚たりともなかった。
「……このかは席を外して正解だったわね」
隣で同じように写真を見た七尾が、ため息交じりに言う。
飛び散った鮮血、肉片、身体の一部。そんなものしか映っていない。所々見える黄色い粒状のものは脂肪だろうか? トウモロコシが食べられなくなりそうである。
原型などまるで留めていない、無残極まりない死体だった。否、死体、などと形容できるものではない。これはもう、ただの肉片だ。
「死体の残りは、これで全部らしい。この肉片以外は、どんなに捜索しても指一本出てこなかったそうだ。都市部での犯行において、死体の隠匿は不可能に近いにも関わらず、な」
「目撃者は?」
「深夜とはいえ、犯行現場はよりにもよって繁華街が中心だった。人通りの少ない道や路地裏で起こっているものの、人の目が皆無だったわけじゃない。――確証、とまではいかないが、気になる事実が一つある」
青司は一呼吸おいて、はっきりと、こう告げた。
「殺害現場の周辺で、全身真っ白な女が目撃されている。そいつの捜索、可能ならば封滅を頼みたい」
空気が凍りついた。
――自然、勇の視線は七尾に注がれる。七尾は、険しい顔つきで思考を巡らせているようだった。
沈黙が下りる。
それは十秒程度のことだったのか、もしくは数十分、数時間だったのか。気が遠くなるような静寂を引き裂くように、やがて七尾は口を開いた。
「ありえない、話じゃない、と思うわ」
その回答に、勇は聞き返す。
「根拠は?」
「……京都は児玉の本拠地だもの。霊力が落ちているのは向こうも同じだし、あの土地に留まっておくのは間違いなく危険だわ。だから、場所を変える。そして、力を蓄えてから改めて児玉家を潰しにかかるつもりでしょうね」
「土地は他にもあるだろう。どうして東京を選んだ?」
「単純に人口が飛び抜けて多いからじゃないかしら。山海の霊気を蓄えるよりも、もっとてっとり早く霊力を補充する方法があるもの」
血肉を喰らい、その魂を喰らい、最期に生まれる負の想念すらも喰らう。獲物の全てをその身に取り込むのだから、確かに効率はいい。
が――その行為は力を集めるための手段としては下の下と言っていいだろう。猫夜叉が自在に跋扈していた時代とは違うのだ。派手な殺人を隠しおおせるわけがない。必ず追及の手が伸びる。事実、この件も一晩にして露呈した。
「つまり、被害はこの街だけでない可能性も――」
「充分考えられるわね」
七尾の言葉に、勇と青司は揃って深いため息をついた。この街で見つかった死体は八人分。だが、実際の被害はそんなものではないだろう。とんだ健啖家だ。
その上目的はあっても動機がなく、法則性もない。夜に出歩く獲物がいなくなれば、躊躇なく家に押し入るタイプ。被害者は単に左を向いたか右を向いたかの違いで襲われただけだ。捜索、可能ならば封滅、という道程が、果てしなく遠い。
「まあ、まだ猫夜叉の仕業と決まったわけじゃないが、これが俺の要件だ。……受けてもらえるか?」
「オーケー分かった。引き受けよう」
勇は二つ返事で引き受けながらも、雲を掴むような話に暗澹たる気分だった。捜索にどの程度の時間がかかるのか、運よく見つけられたとして相手がどれくらい力を取り込んでいるのか。考えるだけでうんざりする。
「とりあえず、お前はこの街を調べてみてくれ。他の場所は、俺が探りを入れてみる」
「そりゃいいけどよ、こんな情報よくほいほい仕入れられるな?」
勇の疑問に、青司は造作もないとでも言うように、クールに答えた。
「蛇の道は蛇、というやつだ」
2018/12/15現在連載中の作品はこちら
https://ncode.syosetu.com/n5057ev/
二週間に一回くらいのペースでしか更新できていませんが、気長にお待ちいただけるとありがたいです。