9 俺は人間が嫌いだったんだ。
俺は夢を見ていた。
まだ俺が子猫だった頃だ。母親から無理やり引き剥がされて、見たこともない家につれてこられた。カゴから出た途端にソファーの下に入り、隅っこまで逃げて怯えていた。
「今日からここがクロのお家よ。怖くないから。出ておいで」
床に這いつくばって、心配そうに見ているのは年老いた女だった。ミルクを用意しておもちゃで必死に俺の気を引こうとしている。
俺はずっとミャーミャーと鳴いていた。かーちゃんのところに返せ。みんなのところに返せ。人間なんて嫌いだ。大嫌いだ。そう思っていた。
泣き疲れて眠ってしまって、気がつくと老婆の腕に抱かれていた。暖かい。かーちゃんの身体みたいだ。
無意識におっぱいを揉むようにふみふみと前足で老婆の身体を押し続ける。でもミルクは出てこない。おかしいな。やっぱりかーちゃんじゃない。
スンスンと鼻で老婆の身体を嗅ぐ。変な匂いがする。俺は爪を立てた。老婆が痛がっている。
「あらあら。御機嫌ななめですね」
後でその変な匂いは洋服に染み込んだナフタリンという防虫剤の匂いだと知ったけれど、その時はまだこの老婆が年寄りだから枯れかけた人間は変な匂いがするのだと思っていた。
「私が抱っこしてあげる。クロおいで」
赤いランドセルを背負った少女が俺を抱き上げた。抱き方が下手くそだ。足もぷらーんとなって落ち着かない。もっとしっかり抱っこしろよと抗議するように、俺はミャーと鳴いた。
「返事した。かわいー」
少女はぎゅっと俺を抱きしめる。加減を知らないのが、バカみたいに顔を擦り付けてくる。うっとおしいが悪くない。甘くていい匂いがする。
「そんなに無理やり抱っこしないの。優しくしてあげなさい」
老婆に注意されて、少女はぷいっとそっぽを向く。
「クロだっておばあちゃんより、私のほうが好きだもんねー」
少女は実に返事のしがたい、恐ろしい質問を投げかけてくる。ミャーと肯定すれば少女は喜ぶが老婆が悲しむ。返事をしなければ少女が悲しむ。どうしろというのだ。
仕方ないので俺は尻尾だけで返事をして、少女の腕から逃れるとミルクの元に走った。
「ミルクが一番好きだって。食いしん坊だなーもう」
少女は笑っている。よかった。怒らせずにすんだようだ。
この家に住んでいるのは老婆だけで、少女は時々遊びに来ているようだ。二人は俺のことをとても可愛がってくれる。甘やかしてくれる。何をしても可愛いと褒めてくれる。
居心地のいい縁側も庭もある。餌もうまい。思ったよりこの場所は悪くない。
ちょっとぐらいなら人間と一緒にいてやってもいいかなと思っていた。なのにある日突然、その思いは砕かれた。
朝から家の中が慌ただしいなとは思っていた。お気に入りのソファーで寝ていたはずなのに、いつの間にか俺はカゴに入れられていた。がらんとした部屋には、老婆も少女もいない。
必死に俺はカゴから出ようと体当たりをした。鍵が壊れて脱出すると、空いていたサッシから外に出た。遊び慣れた縁側にも庭にも誰もいない。
門から街に出て走り回って探すが、老婆も少女も見当たらない。
路地裏で見たこともない野良猫に睨まれて、逃げまわるうちに家にも戻れなくなった。
俺はまた一人ぼっちになった。
だから人間なんて嫌いなんだ。
優しくされなければ、こんなに寂しい思いをすることなんてなかった。
俺をこんなに寂しがりにした人間なんて大嫌いだ。
夢の中の小さな俺は泣いていた。
ずっと忘れていた。そうだ俺は人間が嫌いだったんだ。どうせ捨てられるのに。どうせ忘れられるのに。裏切られるぐらいなら、初めから期待なんかしなければいいのだ。
信じるほうがバカなのだ。
だから、いまさら夏目さんを必死に探す必要なんてなかったのかもしれない。
そう思った時に目が覚めた。