8 俺だって夫婦喧嘩は食わない。
公園の花壇裏に戻ると、俺はうつらうつらと舟を漕ぎだした。
夢を見たり見なかったり。何度も起きては寝てを繰り返していた。
なぜだか今頃になって秋刀魚の匂いがしてきた。おかしいな。どこか近所の家で秋刀魚を焼いているのだろうか。
それにやたらと耳元で小さいおっさんの声や拍手と笑い声が聞こえてくる気がする。うるさくて目が覚めてしまった。もう辺りはすっかり暗くなっている。
そういえば前にあの男が一人で公園に来て、餌やり当番をした日があったなと思い出した。近寄ってきた男は、ちょっとばかりいつもよりお高い猫缶を俺の前に差し出した。
「今日は夏目さんはお休みなんだ。熱を出しちゃってね。あ、今度はズル休みじゃないよ」
そう言って男は苦笑する。やはりあの夏目さんがダッシュで逃げた日のズル休みは、男にばれていたようである。
俺は男がくれた猫缶を遠慮なく平らげた。なかなか美味い。腹いっぱいになるまで見守っていた男は、頃合いをみて優しく撫でてくれる。
いつものようにこいつの撫で方は上手だ。心地よい。ここも撫でろと俺は顎をあげる。望み通りに喉元を撫でられ俺はゴロゴロと喉を鳴らす。
「知ってるかい? 夏目さんは花見より前に、君に会ってたんだよ」
嬉しそうに話す男の顔を思い浮かべながら、消え入りそうな記臆をたどる。そういえば男が話していたのはこんな話だった。
夏目さんがまだ学生で就職活動をしていた時のことだ。どこかのバカが騒ぎを起こして電車が止まった。そのせいで夏目さんは面接の時間に遅れそうになっていたらしい。
ただでさえ方向音痴の夏目さんはパニクっていたそうだ。
見知らぬ街。面接を受ける会社のビルが見当たらない。時間は迫る。どうしよう。もう終わりだ。
そう思っていた時に黒猫が目の前を通ったという。その黒猫が入っていった路地裏を見ると奥まった場所に小さなオフィスビルがあった。それが目的のビルだったのだ。
夏目さんはギリギリ面接の時間に間に合った。そのとき面接の案内役をしていたのがあの男だったらしい。あまりにギリギリに到着したので、きっと道に迷ったのだろうなと思って男は話しかけたそうだ。
「初めてくる人はみんな迷うんですよね。大丈夫でしたか」
すると夏目さんはこう答えた。
「はい。猫が助けてくれたので間に合いました」
「猫が……ですか」
「あ、な、なんでもないです」
男は夏目さんの返事を聞いて、最初は冗談かなと思ったらしい。だがあまりに真剣な表情でそう答えた夏目さんがなんだか面白くて、この子変わってるなと思ったそうだ。
「もしかしたら一目惚れだったのかな。あ、これは夏目さんには内緒な」
それからずっと夏目さんのことが気になっていたんだと男は笑う。
夏目さんが花見の時に俺を見ていたのも、面接の日に道案内をしてくれた黒猫に俺がそっくりだったからのようだ。
確かにその面接の日とやらは、俺がメス猫を追いかけて縄張りの外まで足を伸ばしていた頃だった。道のど真ん中で右往左往して、バカみたいにうろうろしている夏目さんらしき女とすれ違った覚えがある。
なんだこいつと見上げながら路地裏に入ると、その女は後をつけてきた。
あまりに真剣に俺のことを見ているので、危ない猫さらいかもしれないと少しだけ身構えた。だがその女は別のビルに入っていったので警戒を解いて、俺はメス猫探しに向かったのだ。
餌をくれた人間でもないのに、花見の時に少しだけ夏目さんに見覚えがあったのは、危険な人間候補として記憶していたからのようだ。
「君がいなかったら夏目さんは面接に間に合わなかったかもしれないし、花見の時も僕は夏目さんに話しかける勇気が出なかったかもしれない。さんま祭りの時もそうだ。僕と夏目さんは君がいなかったら仲良くなれなかったかもしれない」
俺もそう思う。だが俺だってこの男には何度も助けられている。お互い様というやつだ。少なくとも俺と夏目さんとこの男には、なんらかの縁があったということだろう。
「だから君には感謝しているんだ」
そう言った男の表情は幸せそうだった。
よく考えてみたらあれだけ猫を撫でるのが上手な男が浮気なんかするわけがない。きっとあの妊婦はただの知り合いだったのかもしれない。もしかしたら七輪と秋刀魚を貸し出す業者だったのだろうか。
いろいろ考えてもわからないものはわからない。ただの野良猫が人間の男女の仲なんて勘ぐるだけ無駄ということだろう。夫婦喧嘩は犬も食わないって言うぐらいだ。猫だってそんなものは食いたくない。
あの二人はまだ結婚していないから夫婦じゃないけれど、できれば幸せになってほしいと俺は思っている。そしてずっと俺の餌やり当番をやってほしいと願っている。
そういえば今日は何も食べていないのに、まったく腹が減らない。
やはり調子が悪いのだろうか。
それにしても夏目さんがここに来なくなった理由は結局なんだったのか、よくわからないまま今日は終わった。
もうそろそろ来てもいい頃ではないのか。もう待ちくたびれた。なんだか疲れてしまった。
横になって寝返りをうつ。前足を投げ出してだらしない姿で横になっていると、いつの間にか眠っていた。