7 俺の餌やり当番に死なれては困る。考え直せ。
探し物をしていると、探していない物をうっかり見つけてしまうなんてことはよくある。
今日の俺もまさしくそれだった。夏目さんを探すつもりで出かけたスーパーの駐車場だったが、そこに現れたのは夏目さんではなく俺の使い魔ならぬあの男だった。
俺がいろいろと手助けをしてから夏目さんは男と二人でよろしくやっているものと思っていた。なのに男が連れているのは夏目さんではなく別の女だった。
しかも腹がでかい。体は細いので太っているわけではない。いわゆる妊婦というやつだ。
どういうことだ。俺は混乱した。
つい最近も夏目さんと二人で餌やり当番をしていたはずなのに。何がどうなったらこんなことになっているのか。
もしかしてこの男が浮気をしたせいで、夏目さんは傷心のあまり俺の餌やり当番を忘れてしまっているのではないのか。
これは調べなくてはならない。
夏目さんを探すのは一時中断することにして、俺はこの男を尾行することにした。
男は両手に白い買い物袋を提げている。重そうだが中身は見えない。妊婦にたらふく食わせるためのご馳走でも入っているのだろうか。
本当なら夏目さんが食べるかもしれなかったご馳走を、この妊婦が食べるのかと思うと腹立たしい。
きっと夏目さんなら俺にご馳走を分けてくれるだろうが、この妊婦では無理そうだ。一人で二人分は食いそうだ。そんなことを考えながら俺は二人の後をつけていく。
しばらく歩くうちに縄張りを外れた道に入ってしまった。ほかの猫がいないか確認しながら、二人を見失わないように慎重に尾行を続ける。ようやく男と妊婦はこじんまりとした一軒家の前で足を止めた。
男がチャイムを鳴らすと、家の中から出てきたのは夏目さんである。世の中の全てを呪っているかのような鬱々とした表情の夏目さんが男と妊婦を中に迎え入れる。
まさか前に買っていた宝くじが当たって、この家を手に入れたということなのだろうか。いやそんなめでたい雰囲気ではない。
もしやこれは修羅場というやつなのではなかろうか。きっと三人で今後のことを話し合うためにこの場所に集まったに違いない。
浮気相手と三人でこんな閉ざされた場所で顔を突き合わせる状況なんて、想像しただけで股間の玉が縮みあがる。あの男が持っていた袋の中は、ご馳走どころか血で血を洗うための戦いの武器が入っていたということなのだろうか。なんという恐ろしき所業。
もちろん俺たち猫だって、メスの取り合いが原因で修羅場になることは日常茶飯事である。
だがこんな逃げられないような場所では絶対に喧嘩はしない。青空の下どこにでも逃げられる場所でしか戦わない。命が惜しければそうするのが当然だからだ。
俺はこの争いの行方を見守るために、屋敷の中を見渡せる場所を探して移動する。塀の上に登り家を回りこむように進むと縁側と小さな庭が見えた。
少しくたびれた感じはするが、なかなか居心地の良さそうな作りになっている。
なんとなく昔飼われていた家に似ている気がする。縁側は大きなサッシを挟んで客間につながっているようだ。この塀の上からなら夏目さんたちの様子を観察できそうである。
家の中をよく見ると様子がおかしい。人が住んでいる家というより空き家という感じだ。窓にはカーテンもなく部屋の中には家具もない。
部屋の中にいた男が袋から何かを出した。七輪だ。黒い炭のようなものも出している。まさかそんなものを家の中で使うのか。
嫌な予感がする。そうだ。こんな場面を前に見た覚えがある。
昔飼われていたときに主人が見ていたサスペンスドラマというやつだ。家の中で七輪をつけて一家心中するという話だったはずだ。
やめろ。早まるな。
俺は何度もニャーと鳴く。
だが夏目さんたちは話し込んでいるようで、まったく気づいてくれない。
やめろー。俺の餌やり当番にそう簡単に死なれては困る。考え直せ。
ふと夏目さんがこちらを見た。気づいてくれたのだろうか。サッシを開けて庭のあたりを見回す。だが俺を見つけることができなかったのか、ガッカリしたような表情をする。
「……こんなところにいるわけないよね」
夏目さんが泣きだした。肩を揺らしている。慰めるように男が背後から抱きしめた。
なんてことをするんだ。見ている俺がうろたえた。浮気相手が目の前にいる状態でそんなことをして大丈夫なのか。
「じゃあ頑張って。私の知り合いも一週間ぐらいかかったみたいだから」
夏目さんと男をじっと見ていた妊婦は寂しそうな顔をしてそう言うと、そのまま部屋を出て行った。どうやら俺が心配していたような修羅場にはならなかったようだ。
しばらくすると夏目さんがようやく泣き止んだ。男は夏目さんの頭を優しく撫でる。
「やれることはなんでもやってみよう」
夏目さんから離れた男が、七輪を縁側に持ち出して炭を入れる。てっきり家の中で使うのかと思ったら外で使うようで一安心である。これで七輪を使った一家心中はまぬがれたかもしれない。
男がもう一つの買い物袋から出してきたのは秋刀魚だった。どうしてここで秋刀魚が出てくるのか、俺にはさっぱりわけがわからなかった。
そんなに夏目さんと男は秋刀魚を食べたかったのか。もしかしたら仲直りのために、付き合うきっかけとなった秋刀魚を一緒に食べようということなのだろうか。よくわからない。
男は七輪に火をつけて秋刀魚を焼き始める。白い煙が立ち上った。いい匂いがしているはずだが、俺にはあまり感じられない。風向きが違うのか、それとも鼻が詰まっているのだろうか。
そういえばなんだか寒気がする。風邪でも引いたのだろうか。最近やたらと耳鳴りというか、ずっと小さいおっさんが耳元でしゃべっているような声も聞こえることがある。
しばらく冬に逆戻りしたかのように急に冷え込む日が続いていたから、そのときの疲れが出て体の調子が悪いのかもしれない。
夏目さんが一度部屋に入って、大きなゴミ袋を手にして戻ってきた。白い煙の上にゴミ袋をかざしている。しばらくして空気をたっぷりと含ませてから、ゴミ袋を縛って風船のようにする。
いくつか同じように袋を作ると、夏目さんと男はじっと見つめ合って頷いた。男は夏目さんの手を握り微笑んだ。
「目黒のさんま祭りに来てただろ。だからきっと大丈夫だよ。信じよう」
「……うん」
消え入りそうな声で答えた夏目さんを、男は抱きしめ優しく背中をさする。
驚かせやがって。心配して損したぜ。なんだかんだで修羅場は無事に乗り切れたようだ。今回は何もしていないが秋刀魚のおかげで仲直りしたのなら、きっと俺のおかげに違いない。
よろしくやってるなら明日はちゃんと餌やり当番に来いよ。今日の所はこのぐらいで勘弁しといてやるというつもりで俺はニャーと鳴いておいた。
俺は夏目さんと男を観察するのをやめて、寝床にしている公園に戻ることにした。
塀を飛び降りて門のある方へ歩いていると、パジャマを着たままのばあさんと女子高生が立っているのが見えた。淡い色合いの花柄パジャマがあまりに場違いだ。
「おばあちゃん、帰ろう。ここはもう違う人のお家なの」
女子高生がばあさんをなだめながら連れて行こうとしている。老婆が俺の方を見た。
「こっちおいで、クロ」
老婆の声はなんだか懐かしい記憶を呼び起こす。そうだ。俺は昔クロと呼ばれていた気がする。
だが俺を飼っていたのは、こんなしょぼくれた老婆ではなかったはずだ。もっと元気でよく笑うばあさんだったはず。
きっと俺のことを別の猫と間違えているんじゃないのかと思ったが一応ニャーと鳴いてやる。ばあさんが少し笑った気がする。
「何言ってるの。クロなんかいないでしょ。ずっと前にいなくなっちゃったの忘れたの。しっかりしてよ」
女子高生は泣きそうな顔で、無理やりばあさんを連れて行ってしまった。
きっと徘徊老人というやつなのだろう。たまに街中を一人でふらふらと歩いている老人がいるが、あのばあさんのように戻る家を忘れてしまった人間だったのかもしれない。
今日はいろんな場所に行ってやっと夏目さんを見つけたが、結局餌やりに来なくなった理由はわからないままだ。
なんだか疲れた。とっとと公園に戻って早めに寝ることにしよう。