5 俺は野暮じゃない。
普段はあまり遠出はしない。野良猫にとって縄張りというのは絶対だからだ。
相手の縄張りを荒らせば返り討ちにあうこともある。餌を手に入れるために怪我をしては意味がない。できるだけ無駄な争いはしないように、曲がり角では様子を見て慎重に移動する。自分より強そうな猫とすれ違った時は、目を見ないようにしてやりすごす。
こんな風に危険を冒してまでわざわざ遠くに出かけるのは、発情しているメス猫と遭遇するためである。春先や秋に発情するメス猫が多いと言われているらしいが、そんなものは猫次第である。年中発情しているメス猫だっているかもしれない。
結局のところ出会いは一期一会である。
遭遇した時にピンときたらやるときはやる。それが俺の信条だ。
最近出席した猫集会で、やたらと綺麗な白猫を見たという噂が立っていた。しかも発情期を迎えているというのだ。それはぜひこの目で確かめに行かなければならない。
そう決心したあの日の俺は、普段なら足を伸ばしたことのない川沿い方面に向かって歩いていた。メス猫の匂いを探していたはずが、美味しい匂いが漂ってきて、そちらに気をとられてしまう。
少し離れたところから、白いもくもくとした煙が立ち上っていた。脂の焼けた匂いと焦げ目の香ばしい匂いが食欲をそそる。白猫を探していたということも忘れて、匂いに吸い寄せられるようにその場所へ近づいていった。
そこはまさしくパーティー会場だった。
七輪がずらりと並べられ、秋刀魚が次から次へと焼かれている。人間が蟻の行列のようにずらりと並んで、秋刀魚が焼きあがるのを待っていた。
なんという桃源郷だろう。
めくるめく幸せな匂いに包まれて、俺はうっかり小躍りをしてしまいそうだった。
「さんま引換券っていうのがないとダメなんですか」
聞き覚えのある声の主は、俺の使い魔ならぬ救世主のあの男だった。
「あれ? 君は」
俺に気づいた男は、近寄ってきて頭を撫でた。相変わらず撫で方が上手である。
「こんなところまでわざわざ来るなんて、結構グルメだね」
別に俺は秋刀魚が目当てで来たわけではない。白猫を探しに来ただけだと言うつもりで俺はニャーと鳴いたが、どうせ伝わらないだろう。だがグルメだと言われるのは悪くない。褒められるのは大好きだ。礼儀として一応返事をしてやっただけである。
「君にもおすそ分けができたらよかったんだけど。並べないみたいなんだ。ごめんね」
男は申し訳なさそうに言う。どうやらこのお祭り騒ぎの行列に並ぶ権利すらないと言われてしょんぼりしているようだ。
「あの……券あげます」
男に声をかけたのは夏目さんだった。さんま引換券とやらを男に差し出した。
「え、でも夏目さんは?」
「友達に無理やり誘われて来ただけで、本当は秋刀魚って苦手なんです。美味しいけど小骨いっぱいあるし、食べ方が下手くそだからみっともないって怒られるし」
夏目さんはどう見ても一人である。連れの人間はどこにもいない。この女は嘘をついているなと思ったが、俺は見て見ぬ振りをする。
男は微笑んで夏目さんから引換券を受け取った。
「ありがとう。じゃあ……半分こしようよ。僕が小骨を取ってあげるから」
夏目さんは予想外の展開にうろたえているようである。口をパクパクとさせて何か言おうとしているがほとんど声になっていない。
「で、でも、あの、その」
「何時間も一人で待つのもアレだから、付き合ってもらえると嬉しいかな」
この男は案外ぐいぐい行くタイプのようである。けれどよく見ると引換券を持つ手がかすかに震えている。男なりに精一杯の勇気を振り絞って勝負に出ているのかもしれない。さすが俺の使い魔である。がんばれ使い魔。応援するぞ。
「お礼にデザートぐらいなら奢りますよ」
あと一押しだ。俺は夏目さんの足元に近づき、頭を擦り付ける。ほら男が誘っているんだぞ。レディーとして真摯に答えるべきだぞ。
花見の時のように夏目さんは百面相をして、表情をくるくる変えながら悩みに悩んでいた。夏目さんは俺に対してはぐいぐいくるくせに、この男が相手だとポンコツになるようだ。もしかしたらまた逃げるのかと思ったが、今度は違ったようだ。
「えっと、その、じゃあ一緒に」
「よかった」
ほっとしたように男は微笑む。目の前で何度も女に逃げられる残念な男を見るのは忍びなかったので、俺も少しだけ安心した。
もちろん相手は夏目さんである。四度目の正直なら問題ないが、三度ある事は四度ある場合だってある。急に気が変わって逃げ出す可能性もゼロではない。絶対ということはないから注意が必要だ。
「あそこが一番最後だって」
男に促されるようにして、夏目さんも秋刀魚を待ちわびる行列の最後尾に向かって歩き出した。照れ臭そうにしている夏目さんは男と目を合わせない。
どうやらこの女は気になっている相手から目をそらす気質があるのかもしれない。面倒臭い女だ。せっかく二人の仲が進展しそうだと思ったがこれでは先が思いやられる。
やれやれと思いながら俺は二人の後を追いかけた。
行列に並んだ男がポケットからチラシを出して何かを確認した。
「近くで落語もやってるみたいだ。後で一緒に観に行きませんか」
「あ、はい」
二人の会話はよそよそしい。すぐに話題が途切れてしまう。もっと仲良くしろよお前たちと応援するようなつもりでニャーと鳴くがあまり効果はなさそうだ。
風に乗って流れてくる秋刀魚の匂いに混じって、発情しているメス猫の匂いがする。周囲を見回すと白猫と目があった。どうやら噂のメス猫らしい。銀目金目と言われるオッドアイで誘うような目つきをしている。これは相当なタマである。噂になるのも無理はない。俺だってさくっと一目惚れをした。
このチャンスを逃すものかと俺は白猫の元へ走った。逃げる白猫を追いかけ、背後から覆いかぶさり夢中で腰を振る。三十秒ほどで出すものを出して、恍惚のまどろみの中にいると背後から視線を感じた。
振り向くと夏目さんと男がほぼ同時に目線をそらした。俺と白猫による華麗なる交尾の一部始終をずっと見ていたようだ。無粋な奴め。二人ともなんだか顔が赤い。そんなに恥ずかしいなら見なければいいのに。人間というのは面倒臭い生き物だ。気まずい雰囲気をなんとかしようとしたのか男がぽつりという。
「気にしなくていいよ。僕もああいうのよくやるし」
夏目さんが固まった。俺だって固まった。なんてことを言い出すんだ俺の使い魔め。野良猫だったら外でもどこでもやるのは当たり前だが、人間がそれをやったらダメだろう。
「あ、違う。違うよ。交尾のことじゃなくて。肉球の匂いを嗅いだりとかのことだから」
男は早口で必死に言いわけをする。
「けっこう癖になる匂いがするよね。昔実家で飼ってたから。その気持ちわかるよ」
どうやら男が猫の扱いに慣れていたのはそういうことのようだ。
「だからもう隠さなくていいから。というか僕を見る度にダッシュで逃げるのはやめてもらえると嬉しいです」
夏目さんは申し訳なさそうに小さく頷いた。
「足速いよね。なにかスポーツやってたの?」
「高校まで短距離の選手でした」
どうりでダッシュが得意なわけである。あの加速度は青春時代の名残だったようだ。
「夏目さんって、会社だといつも僕と話す時だけ緊張して固まってるけど、普通に接してもらえると助かるかな。なんか怖い先輩が後輩いじめてるみたいな感じになってるから」
「すみません」
夏目さんは頭をさげる。それを見て男は慌てる。
「あ、責めてるんじゃなくて。昔からおとなしい感じの子に警戒されるのは慣れてるし、自分の見た目が怖いのは自覚してるから」
「怖いとか……そんな」
「いいよ気を使わなくても。親戚の赤ちゃんとかも僕の顔を見ると絶対泣くし」
男が道化師のように笑いながら悲しい顔をする。
そんなことないですよという否定の言葉を待っているのかのような間がしばらくあった。お世辞でもいいから相手のお情けの言葉が欲しいという、人間特有の面倒臭いやりとりだ。猫ならニャーで済む。まったくもって回りくどい。
だが夏目さんの口から出てきた言葉は予想外のものだった。
「卒業制作のジオラマを見たんです」
「ジオラマ?」
男は何のことだかわからずにきょとんとしている。俺も理解不能だ。いつものことだが夏目さんの行動は明後日の方向から飛んでくるので、まったく先が読めない。
「猫が縁側にいる。古い日本家屋のジオラマです」
「ああ大学のときの。そういえばそういうの作ったな。懐かしいな」
夏目さんはずっと頭を下げたまま、男の顔をまったく見ない。さきほどからずっと言葉を足元に向かって投げている。
「私ずっと悩んでたんです。建築関係に進むか、一般企業に就職するかどうか。そんな時にあのジオラマを見ました。いつかこういう縁側があって猫が幸せそうにしてる家に住みたいなって。そういう家を作れる人になれたらいいなって思えて、やっと道が決まったんです」
男は驚いたような表情をした。男の目に光が灯る。言葉が心に刺さった時に、人間はよくこんな目をする。男は夏目さんを見た。
「ちょうどそれを作ってたときに実家で飼ってた猫が死んじゃってね。勉強も課題もバイトも何もかもがカツカツで、時間が足りなくて追い込まれててさ。忙しいし旅費がもったいないからって、その年に限って帰省してなかったんだ。それで死に目に会えなかった」
男は苦い顔をする。
「なんかいつでも会えると思ってたけど。そうだよな。猫って人間より早く死ぬんだよなって思って。当たり前だけど。それであの縁側に飼ってた猫を置いたんだ。ジオラマの中だけでも生きててほしいなって思って」
男は俺のことをちらりと見て微笑んだ。俺を見ているようで、本当はその瞳の奥には男が飼っていた猫の姿が浮かんでいたのかもしれない。
「忘れてたよ。僕もそういう家を作りたいと思ってこの業界に入ったんだった。いいことを思い出した。ありがとう」
「お礼を言いたかったのは私のほうです」
夏目さんは小さく首を振る。
「就活で心が折れてたときに、あのジオラマのおかげで救われたんです。その日からやっとエントリーシートや履歴書の志望理由に嘘を書かなくても良くなりました」
夏目さんの手は落ち着きなくブラウスの袖やスカートを触っている。
「あのジオラマを作った人が先輩だったって会社に入ってから知って。私の人生を変えてくれた人と一緒に働けるとは思ってもいなかったので、とてもびっくりして」
夏目さんの頬も耳も赤い気がする。今なら頭の上で目玉焼きが焼けるかもしれない。
「先輩の前で失敗しないようにとか、変なこと言わないようにとか、気をつけようとすればするほど普段はやらないミスをしたりとか、しっちゃかめっちゃかになって。いつもの自分じゃなくなっちゃって。だから緊張するのはそのせいです。先輩が怖いからじゃないです」
「……そっか。よかった。ずっと嫌われてるのかもって思ってたから」
「とんでもないです」
夏目さんはようやく男の目を見て返事をした。
「むしろ大好きです」
その直後にしまったという表情をして、夏目さんは吐き出してしまった言葉を食べようとしているのか、口をアワアワさせている。残念ながら一度口にした言葉は取り返せない。人間のくせにそんな当たり前のことも知らないようだ。
男は夏目さんがうっかり投げつけたど直球な言葉を受け取って、しばらく動きが固まっていた。物理的なカウンターでも食らったような顔をしている。もしかして人間の言葉にはダメージが設定されていて、当たると痛かったりするのだろうか。
やっとのことで言葉の意味が脳まで達したのか、途端に男の顔も耳も赤くなった。こちらの頭の上でも目玉焼きがこんがり焼けそうである。
「あ、ありがとう。どうしよう。先に言われてしまったな」
「え?」
「僕も夏目さんのこと大好きですよ」
もしかしたらそのままキスをするんじゃないのかというぐらい、二人は長く見つめ合っている。こんな行列の真っ只中でなければきっとしていただろう。だから目でキスをしてるようだ。
夏目さんにとって男は運命の人だったということか。どうなることかと肝を冷やしたが相思相愛だったようだ。ビビらせやがって。俺が変に気を回す必要はなかったようだ。
ある意味ショック療法とでもいうのだろうか。俺の交尾を見た直後から、二人の雰囲気が少し変わったような気がする。二人の間にあったバリアのようなものが少しだけ薄くなった。俺もちょっとばかしとはいえ、恥ずかしい思いをした甲斐があったというものである。
その後二人がどう過ごしたのかは詳しくは知らない。白猫に会うという当初の目的も達成したことだし、これ以上二人を観察するのは野暮だと思い、俺は帰ることにしたからだ。秋刀魚のおすそ分けに興味がなかったと言ったら嘘になるが、男女がいちゃついているところをじっと見て邪魔をするほど、俺は野暮じゃない。
その日を境にして、俺の餌やり当番は夏目さんだけでなく男が一緒に来ることも増えた。それなりにうまくいっているということだろう。ある意味俺が愛のキューピッドをしたようなものだから、餌という恩恵を受けるのは当然である。
とりあえず俺は秋刀魚の焼ける匂いを思い出しながら川沿いを歩き、パーティー会場となっていた場所も確認してみたが、夏目さんどころか誰もいない。せっかく遠出をしてみたがどうやらここにも夏目さんはいないようだ。ついでに白猫も探してみたが見当たらない。まったくもって無駄足である。
仕方がない。次は俺と夏目さんが白い子猫と初めて出会った場所に行ってみるか。俺は商店街近くの路地裏に向かって歩き出した。




