3 俺は騙された。
花見での出会いから数日後のことだ。夏目さんと再会したのはラーメン屋の前だった。
この店の親父さんが鰹節や煮干しを気まぐれでくれることがあるので、俺はたまに顔を出しに行っていた。あまり人が並んでいない日は材料が余っているのか、餌を奮発してくれることが多い。
その夜も客は少なかった。
挨拶代わりにニャーと鳴くと親父さんが顔を出して鰹節をくれた。
店先で食べていると、また背後から視線を感じて振り返る。スーツ姿の夏目さんがいた。花見の時と同じように見ていないという振りをしている。だが全身からこちらを気にしているというオーラがだだ漏れである。
気になる。実に気になる。俺の悪い癖が発動した。
いくら誘っても振り向かないメス猫ほどちょっかいを出したくなる。それと同じだ。
俺は夏目さんの足元まで近寄って頭を撫で付ける。触ることさえできないほど怖がっていた猫に擦り寄られて、さぞかし震えていることだろうと思って見上げた俺は、突然の息苦しさに襲われた。
「やっぱり無理」
なにが起こったのか最初はわからなかった。夏目さんは俺を抱き上げて、ぎゅっと胸の谷間に押し当てていたのである。苦しい。この女俺を殺す気か。
「なんか似てるなと思ったら、やっぱりあの時の子だよね」
騙された。完全に騙された。こいつは猫嫌いなんかじゃない。むしろ猫狂いの類だ。
「この性格悪そうなブサ顔、もーたまらん」
この俺に対して、性格悪そうだのブサ顔だのなんたる暴言。はべらせているメス猫達には、いつも男前と言われているこの俺を侮辱するつもりか。
「ずっと我慢してたのに。ダメだやっぱり触ったらダメだった。ものすごく飼いたい。でもペット禁止だし。うわぁーどうしよう。どうしよう」
俺に顔を擦り付けるわ、前足を掴んで肉球を勝手に匂って恍惚とした表情をするわ、やりたい放題である。
辛抱たまらん状態になった俺はなんとか逃れようと体をくねらせて逃げようとするが、思いのほか夏目さんの力は強くてびくともしない。
だがこの女はいい匂いがする。
ふと五年前に人に飼われていた時のことを思い出した。
主人の孫に匂いが似ているのかもしれない。まだ大人にはなりきってない少女は、時々遊びに来るたびに俺を抱きしめて撫で回していた。猫の扱いに慣れてなくて、下手くそだが愛情たっぷりな撫で方がそっくりだ。
懐かしい。ずっと抱かれているのも悪くないと一瞬思ってしまったのはここだけの秘密だ。
いかん。このままでは俺はおかしくなってしまう。
せっかく板についてきた野生の誇りが薄れてしまう。
必死に助けてくれという意味を込めてギニャーと鳴いた。こんなときに限って俺がはべらせているメス猫どもは近くにいないようである。使えない奴らめ。
しばらくするとラーメンを食べ終わった客が店から出てきた。暖簾をくぐって出てきたのはあの花見の席で夏目さんに話しかけてきた男である。
「夏目……さん?」
男は信じられないという顔をしている。俺だって信じられない。猫を前にしてオドオドしていた姿に完全に騙されていた。この男だって同じ気持ちだろう。
夏目さんは自分の名前を呼ぶ声を聞いてぴたりと固まった。恐る恐る男を見る。夏目さんと男の視線が交わった。
その瞬間、夏目さんは肉球の匂いを嗅ぐのをやめて、握りしめていた俺の前足を離す。
おかげで俺は体をねじらせ、夏目さんの腕の中からなんとか逃げ出すことができた。俺が離れるのとほぼ同じタイミングで、夏目さんは全速力でダッシュした。
「ちょ、ちょっと待って夏目さん」
カカトの尖った靴と膝丈のスカートで、どうやってあの速度を出せるのかと不思議に思えるほどアスリート並みの速さで走り去った。人間の女おそるべし。
またしても夏目さんは逃げて行った。よく逃げる女である。
残された男はため息をついた。タイミングの悪い奴というのはどこにでもいるものである。男だってあんな場面を見たくなかっただろうし、夏目さんだって見られたくなかっただろう。
きっと男は夏目さんのことを大人しくて猫が苦手で、オドオドしている儚げな乙女か何かだと思っていたに違いない。俺だってそう思っていた。
なのにあんな猫狂いの様を見せつけられたら自分の目を疑いたくもなる。目の良さにはあまり自信のない俺ですら目を疑った。あれは夢ではない。現実である。
だが起こってしまったことはどうしようもない。なかったことにするには男が豆腐の角に頭をぶつけて、記憶喪失にでもなってくれることを祈るよりほかはない。そんなことは願うだけ無駄である。
きっと夏目さんは家に帰って恥ずかしさのあまり寝る前に思い出して、のたうちまわることになるだろう。それどころか夏目さんと男の再会場面なんて想像しただけでも気まずさに押し潰されそうである。
もし俺が夏目さんだったら居たたまれなさに耐えきれなくなってどこかへ旅に出てしまうに違いない。
猫なら縄張りを変えるだけで、いくらでも遭遇したくない相手から逃げることはできるが、人間はそうもいくまい。このときばかりは本当に猫で良かったと思ったものである。
悲しくも残念な出来事を思い出しながら、俺はラーメン屋の付近をうろうろと確認してみたが夏目さんはいないようだ。
よく考えてみたらラーメン屋が営業するのは夜からである。昼過ぎだとまだ準備中というやつだ。こんな時間から行列ができるほど、親父さんの店は繁盛はしていないという事実を再確認しただけに終わったようだ。
ちなみにこのラーメン屋の乱が起こったあと、しばらくして夏目さんに遭遇したのはいつも寝床にしている公園の花壇裏である。
もしかしたら夏目さんが餌やり当番を思い出してそろそろ来ている頃かもしれない。そんな期待をしながら、俺はもう一度公園に戻ってみることにした。