2 俺も面倒臭い猫なのだ。
初めて夏目さんと出会ったのは桜の下だった。
あの日は満開の夜桜を見に来ている酔っ払いが道にあふれていた。酒盛りをしている人間というのは例外なく気が大きくなっているものだ。
うろうろしているだけで何かしら食料をくれることが多いので、野良猫にとっては腹ごしらえにもってこいの場所だ。いわゆるパーティー会場みたいなものである。
時々風に吹かれて花びらが舞い落ちる。美味そうな匂いを求めて桜の下を闊歩していた俺は背後から視線を感じて振り返った。
一人の女が目線を外す。
明らかにさっきまで見ていたようなのに、女は見ていませんという表情をしている。
見覚えのある顔のような気もするが、俺はあまり記憶力のいいほうではないのでよくわからない。餌をくれた人間でないとすぐに忘れてしまうからだ。恩のある人間ですらあまり長く会わないともう覚えていない。
はっきり覚えていないぐらいだから、その女と俺はたいした間柄ではないのだろう。きっと街で時々すれ違っている程度なのかもしれない。
女は会社の同僚と桜見をしていたようだ。俺が見ている間は決して目線を合わせようとはしない。仕方ないので俺も見ていない振りをしながら、こっそりとその女を観察することにした。
いつもは人間が何の許可もなくこちらを勝手に観察しているのだから、俺が人間を観察したって文句を言われる筋合いはない。
女はまだ新人なのかシートの隅っこに座り、お酒の用意をしたり料理を取り分けたり忙しそうにしている。同僚がわっと盛り上がっている様子に合わせて愛想笑いを浮かべていた。
面白くもないのに笑うことに飽きたのか、時々桜を見上げたりもしている。その合間を縫って、こっそり俺の姿を盗み見しているらしい。
そもそも俺は野良猫だ。
だから人に見られるのは慣れている。どちらかというと綺麗なお姉さんに見られるのは大好きだ。
だがこの女はちょっと見過ぎである。
舐め回すように見ているようなオーラは伝わってくるのに、実際には目を合わせないなんて普通の人間がやることではない。いつも街中を全裸で歩き回っている俺が言うのもなんではあるが、この女はちょっと異常である。
こいつは危険な香りがする。
近づくべきではないと本能が警笛を鳴らしている。ここは立ち去るべきだと思えば思うほど、逆に興味を惹かれるのも事実だ。それが生き物の性というものである。
いつもならこの場を立ち去っただろう。なぜだかわからないがそれができなかった。
あの女を見ると、誰かに撫でられていた記憶がふと蘇る。匂いだろうか。あの女のいる方向から微かに漂ってくる匂いがそうさせるのかもしれない。
だがあの女の匂いなのかは、ここからではよくわからない。逃げるのはもう少し様子を見てからの方が良いかもしれない。
女のいる方へ歩き出すと花見客が近寄ってきた。焼き魚のおすそ分けをもらって、お礼代わりに俺はニャーと鳴いた。するとその女はこちらを見た。
ようやくきちんと目があった。
やはり先ほどから俺のことを見ていたのはその女だ。
なのに俺がじっと見ると必ず女は視線をそらす。面倒臭い女だ。
仕方がないので俺は勇気を振り絞ってわざわざ女のそばまで行ってみた。近くで見ると思ったより危険な感じはしなかった。
慣れない場所での花見に緊張して挙動不審なだけだったのかもしれない。少しだけ警戒心を解いて女をじっと観察する。
女の足元にスンスンと鼻をつけ匂いを嗅ぐ。あの匂いはこの女のものだったようだ。懐かしい匂いと良く似ている。撫でてもらいたいという衝動に駆られる。
俺は触ってもいいぞオーラを出してやった。
だが女はまったく触れようとしない。積極的に向こうからぐいぐいと近づいてきてやたらと触ってくる人間は嫌いだが、気になっているくせに触ってこない人間というのもそれはそれで癪にさわる。
俺も面倒臭い猫なのだ。
撫でろ。撫でろよ。撫でろってば。撫でねぇのかよ。
撫でさせたい猫と、頑として撫でようとしない女によるにらみ合いは続く。
はたから見ればただのほのぼのとした状況かもしれない。だが俺の脳内では、侍同士がすれ違いざまに刀を抜くかどうかを探り合っている瞬間ぐらいの緊張感が漂っているのである。
そんな猫と女による根比べの時間は突然終わりを告げた。
その女の先輩らしき男がそばに寄ってきて、俺のことを撫で始めたからだ。
お前じゃないと思いつつも、その男がローストビーフを少しちぎってくれたので、不本意ではあるが仕方なく撫でさせてやることにした。さりげなく女の隣に座ってきた男が話しかける。
「もしかして夏目さんって、猫好きなの?」
夏目さんと呼ばれた女は答えなかった。というより答えようとしているけれど声が小さすぎて誰にも聞こえていないようだ。なんだか二人とも顔が赤い気がする。
「この子のことずっと見てたでしょ。気になるなら撫でてみたら? おとなしいよ」
女はしばらくじっと考えて、困ったような表情をしたり痛そうな顔をしたりと、くるくると百面相をしてから言った。
「ご、ごめん……なさい」
女はゆらりと立ち上がり暗闇の中へと消えて行った。ほかの同僚は馬鹿騒ぎをしていて女がどこかへ行ったことにすら気づいていない。残された男は小さなため息をついた。
「やっぱり嫌われてるのかな」
自信なさげに言った男は、俺を膝の上に乗せて優しく撫でた。なかなか撫でるのが上手な男である。ちょっと顔は怖いが悪い奴ではなさそうだ。
女がずっと俺を見ていたのを知っていたということは、その男もまた女のことをずっと見ていたということである。皆まで言わずとも、男にとってその女は気になる存在ということなのだろう。
猫のくせに人間の男女のことに口を挟むのは野暮というやつではあるが、俺はニャーと鳴いて返事をしておいた。
本当はお前が嫌われているというより、むしろ俺が嫌われていたんじゃないのかと伝えたかったのだが、もちろん伝わりそうもないので初めから諦めている。
いつまでたっても人間というやつは猫の言葉を理解しない。案外頭が悪いのやもしれぬ。もう少し頑張ってもらいたいものだ。
ちなみにこのとき逃げた女が夏目さんである。つまり出会いは最悪だったわけだ。
猫を触ることさえできなかった女が、どうして俺の餌やり当番にまで成り上がったのか。それが判明するのはもう少し先の話である。
とりあえず俺は桜の近くをぐるりとパトロールしてみたが、今は夏目さんはいないようだ。さすがに真昼間から花見で酒盛りをする人間は少ない。仕方なく次の場所に行くことにした。