1 俺は虹に祈りを捧げた。
2月22日は猫の日ということで、「俺、猫だけど夏目さんを探しています。」の続きを連載します。
今後は2、12、22日あたりに更新予定です。
元夏目さんちの双子が生まれたのは、夏の夕暮れ時だった。
あの日は急に雨が降り出した。晴れているのに小雨が降っているという、いわゆる天気雨というやつだ。それがすべての前触れだったのかもしれない。
土砂降りというほどではないが、それなりに雨が降っていた。俺自身はもう野良猫ではないので、外でいくら雨が降っていようが関係ない。
だが人間となると話は別だ。庭には洗濯物が干したままである。このままほっておくと元夏目さんが困ることだけは確かである。
どうしたものかと部屋を見回すと、元夏目さんはテレビをつけたままソファーで居眠りをしていた。しばらく起きそうにない。
俺の使い魔でもある男はというと、朝から二階の部屋にこもっている。今頃は夢中でプラモデルとやらを作っている最中のはずである。
元夏目さんに誕生日プレゼントとしてもらったプラモデルを、昨夜はずっと俺に見せびらかして嬉しそうにしていた。ロボットの性能がすごいだの、色合いが良いだの、レアモデルだの、あれやこれやと説明されたが、俺にはさっぱりわからなかった。
リビングのテレビが置いてある棚にはよく似たロボットがいくつか並んでいるのは知っていたが、何がどう違うのか俺には理解できない。俺にとっては、たまに通り道にあって邪魔だな、ぐらいの認識しかないのだからしょうがない。
使い魔は元夏目さんにもらったプラモデルがよっぽど気に入ったのだろう。休みだというのにいつもより早めに起きて、終始ご機嫌な感じだった。あの様子では、今日はしばらく部屋から出てこないかもしれない。
かといって、あまり大きなお腹をした妊婦に労働させるのは気がすすまないが、この状況を打開するにはとりあえず近くにいるものを使ったほうが良いだろう。
そう考えた俺はソファーに飛び乗った。元夏目さんの顔の近くで、ニャーと何度か鳴いたが反応がない。仕方がないので前足で軽く顔に猫パンチを食らわす。
目を覚ました元夏目さんは、眠たそうに目をこすりながら俺を見る。
「もうご飯の時間だっけ」
そうじゃない。外を見ろ。大変なことになってるぞ。
俺は元夏目さんを誘導するように、縁側のほうへ向かう。まだ寝ぼけているのか、ソファーから立ち上がった時にテーブルに足をぶつけたらしい。
「いったぁー」
元夏目さんはテーブルに手をついて痛がっている。
何をしているんだ。急げよ。俺は催促の意味を込めてニャーと鳴く。
「もう、急かすから。どうすんの青タンになったら」
そんなこと俺の知ったことか。自分の不注意を俺のせいにするのはやめてくれ。プンスカという表情をしたって無駄だからな。
俺は窓際まで走って、もう一度ニャーと鳴いた。どうせ伝わっていない。言葉が通じないならば、態度で示すしかない。
「え、嘘」
外の雨を見て、やっと状況を飲み込んだらしき元夏目さんは、大きなサッシを開けて庭に出る。
「うわー、なんで人が片付けるの忘れてる時に限って降るかなもう」
文句を言いながらも洗濯物を取り込んだ元夏目さんは、縁側に戻ってきて一息つくと、空を見上げた。
「お天気なのに雨が降るなんて、どこかで狐の嫁入りでもやってるのかな」
よくは知らないが、人間はこういう天気のことを狐の嫁入りというらしい。だが、いくら外を見回しても白無垢を着た狐が行列で歩いている様子はない。
いつの間にか空には不思議な光が現れていた。
「おぉ、綺麗な虹じゃないですか」
まあるく円を描いた光の帯が、空に向かって二本生えている。
「同時に二つも出てるなんて珍しい。良いことあるといいねぇ。そうだ、お願いしておこう。元気な子が産まれますように」
元夏目さんは目を閉じてお祈りをし始めた。
流れ星に願い事を誓うなんてのは聞いたことがあるが、虹にもご利益があるのだろうか。よくわからないが元夏目さんは熱心に祈りを捧げているようだ。
猫の俺にとっては虹なんてものは、あまり美味しそうには見えないし、やたらとでかいものは好きではない。
だが元夏目さんが信じているのなら、俺も信じてやらないこともない。そのぐらいなら譲歩してもいい。飼われている身である以上は、多少のサービスはするというやつだ。
元夏目さんが合わせている手を真似するように、俺も前足をあげてみる。後ろ足だけではフラフラして、なかなかバランスを取るのが難しい。
「あれ、もしかして君も祈ってくれるの」
祈るだけで元夏目さんの子供が元気に産まれてくるというのなら、便乗するのもやぶさかではない。俺も適当にニャーと鳴いて、ジュニアが無事に産まれてくるように虹に祈りを捧げておいた。
「これはまたご利益がありそうだな。きっと良い子が生まれるよ」
だがその直後、元夏目さんが突然うずくまるように座り込み、お腹を押さえて苦しみだした。額には脂汗が浮かんでいる。
「いたたた」
これはいかん。俺は慌てて二階にいる使い魔の男のところに走った。
普段は男が部屋でプラモデルを作っている間は、部屋には近づかないことにしている。しばらくずっと変な塗料の匂いがしているからだ。
だが、元夏目さんのピンチとあらば背に腹はかえられぬ。鼻がひん曲がるような匂いを我慢しながら、扉の外で何度も鳴いて呼びかける。
ようやく部屋の扉から顔を出した、使い魔の男が言った。
「どうしたの。もうご飯の時間だっけ」
夫婦揃って同じセリフとは、呑気なものである。
元夏目さんが大変なことになってるんだぞ。早くついてこい。
俺が短くニャっと鳴いて、階段を降りる。
「……まさか」
使い魔も俺の様子がおかしいことを察したのか、慌てて後をついてきた。勢い余って階段の最後のほうで足を滑らせて尻餅をついている。
「いたたた」
いくらなんでも慌てすぎである。似た者夫婦というのは結構だが、今はそんなことで仲良しをアピールしている場合ではない。
使い魔の男はケツをさすりながらリビングを抜けると、座り込んでる元夏目さんを見つけて駆け寄った。
「大丈夫か」
「タクシー呼んで……もらえますか」
「わかった」
「荷物は部屋にまとめて……あるから」
「ちょっと待ってて。すぐ準備する」
使い魔の男が電話をして、慌ただしく部屋を出たり入ったりして荷物をまとめていた。外に車が到着したらしきエンジン音が聞こえると、二人は出て行ってしまった。
家には俺だけが残された。
誰もいない部屋は静かである。たまには一人も悪くない。
だがしばらくすると、なんだか物足りなくなってきた。
やけに壁掛け時計の針が動く音がカチコチと大きく聞こえてくる。冷蔵庫の方から定期的に唸り声のようなモーター音がしていた。そんな些細な音すら気になってくる程度に、部屋は静まりかえっていた。
こんなにこの家は静かだっただろうか。
誰の声もしない部屋はつまらない。いつから俺はこんなに寂しがり屋になってしまったのだろう。
悪いのは元夏目さんと使い魔の男である。すべての責任は、俺を野良猫から飼い猫にした二人にあるはずだ。
あの二人には、俺をずっと寂しくないようにする義務がある。これはとても大切な契約である。絶対に守ってもらわねばならない約束だ。
そのためには二人はもちろんのこと、もうすぐやってくる双子のジュニアにも元気でいてもらわなくてはならない。
もしまた俺を一人にするようなことがあったら、絶対に許さないんだからな。そう思いながらニャーと鳴くが、もちろん誰も返事をしない。
二人はいつ帰ってくるのだろう。ジュニアは無事に産まれるのだろうか。
心配しながらそわそわと部屋のあちこちを歩き回っていたら、急に腹が鳴った。
しまった。餌を出してもらうのを忘れていた。そう思ったが、後の祭りというやつである。
「ごめん。お腹すいただろ」
使い魔の男は想像していたよりは、少々早めに戻ってきた。
結局あの後、すぐにジュニアは産まれたらしい。医者もびっくりするぐらい安産だったそうだ。さすが元夏目さんの子供である。産まれた瞬間から人を驚かせるなんて気が利いている。
おかげで使い魔の男もすぐに戻ってきて、俺の餌を出してくれた。もちろん双子が無事に産まれたお祝いに、いつもよりお高いゴージャス猫缶だ。
元夏目さんが無事に双子を産めたのも、すぐに危機を察知して知らせに走った俺のおかげなのだから、当然の権利である。ありがたく頂戴した。
良いことをした後の飯というのは、実にうまいものである。こんなにうまいのなら、たまには良いことをするのも悪くないなと思った次第である。
これからの座右の銘は『一日一善』にしても良いかもしれない。たぶん明日になったら忘れているかもしれないが、それはそれ、これはこれである。
こうして俺には人間の弟と妹ができた。いずれ双子が家にやってきたら、たっぷり兄貴風をふかせるつもりである。