11 俺の尻尾は一本しかない。
一度でも人間に飼われたことのある猫なら、一番嫌いな場所は間違いなく動物病院だろう。
あそこは嫌な臭いしかしない。ほかの猫や犬の臭いが入り乱れているのも気に入らないが、とんでもなく痛い注射を無理やり打たれたり、クソ不味い薬を飲まされたり、とにかく嫌な思い出しかない。あんなところが好きだという猫がいたら、それは猫ではない。化け猫である。
夏目さんと二人のガキが病室に入ると、あの男が待っていた。
みんなが見下ろしているのはベッドに横たわっている黒猫だった。頭を包帯でぐるぐる巻きにされて、体にはチューブも刺さってる。
どう見てもそれは俺だった。どうやら俺は死にかけているらしい。
じゃあ今までずっと夏目さんを探していたこの俺はなんなのだ。
窓ガラスを見る。夏目さんもあの男もガキにも姿があるのに、俺だけ何も映っていない。
そういうことか。
俺が夏目さんを探していたつもりが、俺の魂を探していたのは夏目さんのほうだったようだ。
改めて考えてみると思い当たることがある。一軒家でも公園でも俺の姿を見たはずの夏目さんは俺に気づかなかった。あのガキや女子高生だってそうだ。
見つけられなかったのではない。最初から俺のことが見えてなかったということだ。
ばあさんにだけ俺が見えていたのは、もしかしたら俺と同じように死にかけてるやつだけが見えるってことなのかもしれない。
ずっと腹が減らなかったのも、やたらと疲れていたのも死にかけているなら当然だろう。
ベッドに寝ている俺の耳元にはイヤホンが置かれている。きっとこれまでずっと小さいおっさんの声や拍手と笑い声が聞こえていたのはこれのせいだ。
ベッド脇に膨らんだゴミ袋がいくつか見える。かすかに秋刀魚の匂いがするのは、夏目さんがあの一軒家で集めていた空気をここで撒き散らしたからだろうか。
寝ている俺の鼻先には猫缶が置かれている。普段もらう猫缶と違って、桁違いにお高いやつだ。ふいに最後に食べようとした、とんでもなく美味そうな猫缶の匂いを思い出した。
そうだ。あの日も俺は公園で夏目さんを待っていたんだ。夏目さんが持ってきてくれたご馳走をどうして忘れていたんだろう。
あの夜もいつものように、夏目さんが来そうな時間を見計らって俺は公園に戻っていた。公園の花壇裏に座って夏目さんを待つのが俺の日課だ。
退屈しのぎに長い尻尾をゆっくりと動かすと、白い子猫はそれを追いかけ遊んでいる。穏やかで平和な時間は突然終わりを告げた。
あのクソガキどもがやってきたのだ。この前と違って夏目さんはいない。俺一人で子猫を守らなければならない。全身の毛を逆立てて威嚇をする。
「どけよ。お前みたいなブサイク猫に用はないんだよ」
ブサイクとはなんだ。夏目さんは俺のことクールと言っていたんだぞ。
俺が立ちふさがっているせいで、子猫に近づけない少年はイライラしているようだ。そばにいた眼鏡少女は少年の服を引っ張っている。
「塾行かないと怒られるよ」
「行きたいならお前だけ行けよ」
少年の目は真剣だ。何をそんなにこの子猫に執着しているのか。俺にはわからない。だがこんな暴力少年に渡すわけにはいかない。
「邪魔だ。どけって言ってんだろ」
少年は猫缶を投げてきた。本当は俺に向かって投げたかったのだろう。だがコントロールがデタラメすぎて、猫缶は子猫に向かって飛んできた。
子猫は怯えて動かない。とっさに俺は子猫をかばうようにジャンプした。運が悪かった。そうとしか思えない。猫缶は俺の頭を直撃した。地面に倒れた後、体が動かなくなっていた。
「どうしよう。この子動かないよ」
「し、知らねーよ。こいつが自分でぶつかったんだ。俺が当てたんじゃない」
とーちゃん、大丈夫? 泣くような声で子猫がミャーミャー鳴いている。
逃げろ。お前はもうここには来るな。
でもとーちゃん。
だからとーちゃんじゃないって言ってるだろ。とっとと逃げろ。
とーちゃんと離れたくない。
ヤバい奴に目をつけられたら終わりだ。二度とここに戻ってくるな。早く行け。
子猫が走っていく姿を見届けて、俺は目を閉じた。
ずっと頭がズキズキしている。どのくらい時間が経ったのだろう。
「こんな時間に寝てるなんて珍しいね」
そう話しかけてきた夏目さんの声は、やけに明るい。
「じゃーん。今日は奮発しちゃった」
うっすらと目を開けると、金色に輝く猫缶が目の前に置かれている。とうとう宝くじでも当てたのだろうか。
匂いだけでも十分に美味いのが伝わって来る。こんなにいい餌をくれるなら、もうちょっと早く来てくれたらよかったのに。
そうすればあのチビにも食べさせてやれたのに。そう思いながら俺は必死に体を起こそうとするが、体が動かない。
「どうしたの」
俺の体を撫でた夏目さんが、驚いたように俺の顔を覗き込んでくる。
空色のワンピースを着ていた夏目さんは、いつもよりおめかしをしていて、なんだかやけに綺麗だった。
ずっとニコニコしていたはずの夏目さんが泣いている。
どうして泣くんだよ。俺は夏目さんの笑ってる顔が好きなんだ。
お願いだから泣くなよ。笑ってくれよ。
そう思った後のことは覚えていない。どうやら気を失ったらしい。
おかげで結局あのご馳走は食べていない。クソガキのせいで食いっぱぐれた。
それからの記憶は曖昧だ。
夏目さんを探していた日々は俺が見ていた夢のようなものだったのかもしれない。
現実の俺はベッドの上で死にかけている。頭が包帯で巻かれて体も動かない。
「邪魔されて。カッとなって。猫缶ぶつけました」
ベッドのそばに立っているガキが泣きながら頭を下げている。
「前に友達と学校で一緒に育ててた子猫に似てたから。友達は転校しちゃって子猫もいなくなって。見つけるって約束して。友達にはもう会えないから、子猫だけでもどうしても飼いたくて。でもこんなになると思ってなくて。ごめんなさい。本当にごめんなさい」
なんだよちゃんと謝れるじゃねーか。もう二度とあんなことすんなよ。ほかの猫にも優しくしろよ。そう言うつもりで、俺はニャーと鳴こうとしたが声が出ない。
俺の代わりに夏目さんが少年に声をかける。
「もう二度と酷いことしないって約束してくれる?」
「約束する」
「ほかの猫にも優しくしてくれる?」
「優しくする」
「そっか。じゃあ仲直りしようか」
夏目さんは少年に俺の前足を握らせて、握手の真似事をする。俺はニャーと言っていないのに、俺の言いたいことを夏目さんは全部言ってくれた。夏目さんはテレパシーでも使えるんだろうか。夏目さんならやりかねない。
「君がまたあの子を守ってくれたんだね。ありがとね」
夏目さんが俺の体を優しく撫でた。礼なんてやめてくれ。当たり前のことをしただけだ。
でもちょっと失敗しちまったけどな。それでこのざまだ。みっともねぇな。
俺このまま死ぬのかな。
夏目さんとならずっと一緒にいてやってもいいなって思ってたのに。
「こら、ちょっと待ちなさい」
獣医が慌てた様子で部屋に入ってくる。獣医から逃れるように白猫がベッドに飛び乗ってきた。
とーちゃん、死んだらダメだよ。あの子猫がミャーミャー鳴いている。
とーちゃんじゃないって言ってるだろう。そう答えたつもりだが声は出ない。
夏目さんが俺を抱きしめるようにして泣いている。
「このままお別れなんて嫌だよ。君がいなかったら先輩と仲良くなれなかったよ。いくら感謝しても足りないの。まだ恩返し終わってない。結婚式にも一緒に出てもらうつもりだった。引っ越ししたら一緒に住むつもりだったの」
そんなに夏目さんに大事に思ってもらってたなんて知らなかったよ。猫冥利につきるぜ。
「なのにこのままお別れなんて嫌だからね」
俺だって嫌だ。人間が嫌いなんて言ったのは噓だ。
俺は夏目さんのことが大好きだ。
夏目さんに抱きしめてもらって撫でてもらうのが大好きなんだ。
これで終わりなんて俺だって嫌だ。
「ニャー」
あれ。今声出てなかったか。試しにもう一度。
「ニャー」
やっぱり出てるなこれ。
「よかった。……本当によかった」
夏目さんも男も、少年も少女も、子猫も獣医もみんなが泣いている。
俺も嬉しいよ。みんな泣くなよ。笑えよ。
みんな知らないかもしれないが、俺は夏目さんが笑ってる顔が好きなんだぜ。
見てるだけで面白い夏目さんを楽しむために、早く元気になってやるから。
だからみんな笑え。よく言うだろ。笑う門には福来たるって。
俺は猫である。少し前まで野良猫だった。
今は元夏目さんと一緒に暮らしている。縁側と庭がある小さな一軒家で飼われている。もうすぐ元夏目さんジュニアが家にやってくる。どうやら双子らしい。騒がしくなりそうだ。
前に一度、男を尾行したときに一緒にいた妊婦は、元夏目さんの姉だったようだ。時々子供を連れてうちにやってきて、おさがりのベビー用品なんかを置いていく。
てっきり俺用のおもちゃだと思って遊んでいたら怒られた。段ボール箱の入り心地を確認していただけなのに、心外である。
それにしても、俺の尻尾は一本しかないのに、双子をどうやって同時にあやそうか、それだけが心配の種である。
だがきっと大丈夫だ。
元夏目さんの血を引く子供達だ。
きっと俺のことを楽しませてくれるはずだ。二人に会える日が待ち遠しくてたまらない。




