文月、七日通りのくちなしは。
七日通りには四季折々の花が咲く。美しい花達が。
誰も手を加えぬその通りで花が勝手に季節を巡るのを、村で不思議に思う者はいなかった。戦国の世の前から、季節が終われば花は枯れ、次の主役の花が芽吹いた。徳川の将軍様が治める世になった今も、脈々と。
村の人間は生まれた時からそれを見て育ち、そういうものだと受け入れるのだ。
与一もそういう村の人間の一人だった。七日通りに花が咲くのは当たり前で、特に気にしたことはない。
しかし昨日だけは違った。
幼馴染みの庄平が花の前でしゃがんでいたので、一緒になってその通りをまじまじと眺めた。よくも、こうも立派に咲くものだ、と。
「何をそう熱心に見ているんだ。紫陽花がどうかしたか」
与一が聞くと庄平は朗らかな笑顔で振り返り、自分の足元を指差した。
「違う違う。くちなしの花だ。まだ膝丈にも満たない小枝だが。枯れかけていたのを見掛けて、しばらく水をやったんだ。そしたらほれ、元気になってきてな」
見れば大きな紫陽花に押しつぶされそうになりながら、なよなよと細い、一見すると枝を差してあるような小さな木があった。庄平の言う通り枯れかけていたようで元気がないが、小さな白い花弁は瑞々しく艶めき、明日には凜と咲き誇るだろうと思われた。
「かぁいらしいだろう」
「お前は本当に世話焼きだな」
もうすぐ二十歳にもなろうという男が、花と戯れるのも情けなかろうに。与一はそう戒めようかと思ったが、やめた。
庄平が心底嬉しそうな顔で撫でると、応えるようにくちなしが揺れる。そんな様は傍らで見ていて微笑ましかったのだ。
しばらくの間庄平からは、花のいい香りが絶えなかった。
文月七日に、村では夏祭りも兼ねた七夕祭りが行われる。与一も庄平も若衆の人手として祭りの準備に駆り出された。
三日間大勢が準備に明け暮れた祭りは、それは盛大に開かれる。七日の夜には、村の中心以外に人がいなくなってしまうほどだ。
それは今年の夏も例外ではなかった。
二人の目の前には毎年そうであるように、神社の幟が立つ。水色掛かった薄闇の中に、橙の灯が点ってゆく。
祭りがもうすぐ始まることを告げるように。
「ようやっと祭りが始まるというのに、なんだかもう侘しいよ」
「ああ、祭りより準備の方が長いからな」
楽しげにはしゃぐ子供と、その子供に急かされる大人の中に見知った姿があった。
「庄平、夏名が来たぞ」
濃藍の布地に撫子の描かれた浴衣。控え目でしとやかな夏名らしい。
「庄さん、待たせてしまったかしら」
「いや、与一が一緒だったから平気だ」
庄平と夏名は恋仲だった。夏名はいつも庄平の働く場に弁当を持ってくる。与一は大概庄平と一緒にいるのでおこぼれに与かっているが、夏名の作る飯は美味い。いつか、遠くない先に夏名を嫁にもらうであろう庄平は、幸せものだとつくづく思う。
「与一さん、ごめんね。庄さん借りていくから」
そういうと夏名は庄平の着物の裾を掴んだ。庄平は少し不服そうにして頬を膨らませた。
「俺は別に与一のものじゃないぞ」
「そうさ夏名。庄平のことは好きにしな」
「でもね、庄さんと与一さんはいつも二人一緒だもの。みんな言ってるわ。一緒じゃないとなんだか締まらないって」
夏名はくすくすと笑って見せた。提灯に照らされたその笑顔は、赤み掛かって一層可愛いらしい。
「なんだかなぁ。与一がいないと締まらないのは確かだし、そう言われると仕方ない」
「今夜は庄平のことは夏名に頼むよ。それでいいだろう」
「でもそうしたら与一さん一人では寂しくない?」
庄平もうんうんとうなずいている。実のところ、なんだかんだと言って与一を独りにするのが心もとないようで、与一もそれには気付いていた。
「俺は川に水汲みに行くよう頼まれてんだ。いろいろと裏方を頼まれているし、祭りは二人で楽しんできな」
するとようやく納得した夏名と庄平は、並んで祭りの中へ消えていった。
それを見届けると、与一は水汲み用の桶を持って七日通りの方面へ向かった。
祭りの喧騒が遠のくにしたがって、さっきまでかき消されていた虫の鳴き声が鮮明に聞こえ始めた。
賑やかなのも悪くないが、こうして静かな夜を独り占めするのも悪くない。与一はいい気分で誰もいない土手を歩いた。
ほどなく、七日通りに差し掛かろうという時だった。
そういえばあのくちなしは元気にしているだろうか。庄平は祭りの準備の間にも世話しているようだったし、もうすっかり元気になったろう。
しかし与一はその異様な光景を目の前に、からん、と桶を落っことした。
「花が、」
七日通りに咲く花が一つ残らず消えていた。与一が生まれて、いや生まれる前から通りには花が咲き続け、花が何にもなくなることなんてないことだった。
花が摘まれたとか、むしり取られたとかいうのではない。茎も根も、綺麗さっぱり消えている。
誰かの悪戯にしては妙だった。
「くちなしもここに生えていたんだが」
あの小枝が植わっていた場所を触ってみると、確かに根の伸びていた穴がある。ここにあった全部の花を引っこ抜いたとして、一体誰が何の為にそんなことをする必要があるのか。第一荒らされたような跡は全くなく、花が煙か水になって消えたように綺麗な穴だけが残っているから話は厄介なのだ。
与一が首を傾げて唸っていると、七日通りから続く森の奥に、ぼんやりとした明かりが点っているのが見えた。明らかに祭りからは離れた場所にある。
蛍のように朧気な不思議な光。何かを導く為というよりは、何かがそこに集まっているような。与一はそんな雰囲気を感じ取っていた。
人を招くための明かりではない。それが分かっているのに歩みを止めないのは、与一が独りだったからだ。祭りに紛れてひっそり集まるそれは、祭りに浮かれる人々の中で唯一、この静かな夜を独り占めした自分しか気付くことができないもののような気がしたのだ。
それは好奇心と優越感の混じった、高揚した気持ちだった。或いはやはり、祭りに交じることができない寂しさもあったかもしれない。
与一は花の消えた七日通りを抜けて、森へ入っていった。
しばらく歩くと奇妙なことに気付く。
今夜は風がない。しかしどういうわけか、森の奥からざわざわと木の葉のような音が止まない。明かりに近付くにつれてその音は一層騒がしくなる。そして何より、
「甘い匂いがする……」
蜜のような、甘いものが鼻をくすぐる。花の匂いか。とすればこの先に花を盗んだ奴がいるというのか。
明かりのすぐ手前まで来ると、人影が見えた気がして与一は咄嗟に茂みの中へ伏せた。
さわさわ……
ざわり、ざわわ……
木々が擦れるよりは弱々しく、草がそよぐより繊細な音が、まるで囁き合っているかのように連なって聞こえた。いや、本当に囁き合っていたことを後に与一は知る。
そろりと茂みから顔を出す。そこには浴衣姿の人々がひっそりと集まっていた。村では見たことのない顔ぶれだ。
皆、男とも女とも見分けのつかぬ美しい容姿をしている。着物の着こなしでどうにか性別がわかる。
あの明かりの正体は宙に浮かぶ火の玉だった。集まった者たちも、ほのかに光りを放っているように見える。
与一は合点がいった。これはあやかしの集会だったのだ。人にしてはあの美しさは禍々しすぎる。
恐怖か、それとも興奮か。与一の胸はだくだくと高鳴り、視線はその場に釘付けになった。
あやかし達は言葉を発することはなかった。しかし何か与一にはわからないやり方で会話は為されているようで、楽しげな表情がちらつく。
ふいに手拍子が二つ響いた。皆一斉に同じ場所に視線をやる。さわさわと葉の擦れるような音も止んだ。
視線の集まった先にいたのは、若い娘だった。鮮やかな、黄色に染まった浴衣。そのあやかしたちの妖艶な美しさの中では、どちらかと言えば地味で清楚な面立ちをしている。
娘は輪の中心まで進み出ると、用意されていた朱塗りの盃に口付けて中身を飲み干した。
それを見届けると、示し合わせたようにあやかしたちは七日通りの方へ散っていった。
その流れに逆らうように歩き出した影を与一は捕らえた。あの黄色の浴衣の娘だ。
ただ独りだけ村の中心、祭りの方へ向かっている。
その草原を転がるように走る姿は、そのはしゃぐような笑顔は、子供のように無邪気だった。
与一は恐ろしいという気持ちをすっかり忘れて娘を追うと、その陶器のように白くつややかな腕を掴んで引き止めた。
「待て」
待たせてどうするのか。何も思いついていなかったが、身体が先に動いた。
「っ……」
娘が驚いて振り返る。なびいた浴衣から、束ねた黒髪から、濃密な甘い香りが溢れた。与一はうっとりとその香りに酔い、何も考えられなかった。
娘は与一の顔を見るなり、
「あなたは」
と言いかけ、はっと口を閉ざす。桃色の唇を両の手で覆うと、娘は与一を凝視した。
「何?」
与一が聞き返そうとすると、娘は集会が行われていた方に目をやった。つられて振り返るとまだ人影がまばらにある。
「ここを離れましょう。誰かに見つかっては、あなたの無事を保証できません」
そう言うと娘は与一の手をひいて人里の方へ下っていく。
自分の右手を包む、娘の手は冷たかった。人の血の通わない、きりりと冷えた手。ほかのごちゃごちゃした事は上手く考えられなかったが、その体温だけは鮮明に与一の頭の中に刻まれていた。
しばらく走り、森が大分遠ざかったのを確認すると、娘はそこで足を止めた。
「よかった。あなたに何かあっては申し訳ないから」
与一は微笑む娘に問い掛けた。
「不思議なものをみた、とは思うが一体何だったのかよくわからん。夢か幻かとも思ったが、」
掴まれた手が、奪われた熱を取り戻そうとじんじんと脈打っていた。この感覚が夢ではないと訴えるように。
「お前は俺を知っているのか。お前は、お前たちは何者だ?」
娘は少しためらったが、すぐに諦めたように与一を向き直る。悲しげな表情をなんとか取り繕うように笑いながら、娘は話し出した。
「知っておりますよ。与一様。あなたは覚えておいでですか。七日通りにて、庄平様が世話していたくちなしを」
二人が下りてきた場所は、丁度祭りが一望できるようになっている小高い丘だった。
その場に腰を降ろすと、与一は娘の話に聞き入った。
「七日通りに生まれることは、花の生を受けたものの誉れ。干渉を受けず、花の力のみで花が生きる場所。そして、妖しの力を持つことができる。私たちはそんな花の化けた姿」
「なるほど、不思議な場所だとは思っていたが」
あのあやかしたち自身が七日通りの花だったならば、花が消えるのも当然だ。
「そしてお前が、あのくちなしの花か」
「はい。一重と申します」
一重は確かに庄平が世話した花の、清らかないい香りをまとっていた。その可憐な出で立ちも、どことなくあの白い花を彷彿とさせる。
「天の川のほとりに赤く輝く星が見えますか。ほら、彦星の近くに咲いた星。花叶と私たちは呼んでいます」
花叶が現れた年は、祭りが開かれるらしい。
皆自身に付いた夜露を一滴持ち寄るのが決まりだ。夜露を盃に溜め、花叶を盃の中に映す。
一重曰く、それを飲むと願いが叶えられるというのだ。
「選ばれたものしか口にすることは許されません。本当は私の隣りの紫陽花が飲むはずだったのですが、どうしてもと私に譲っていただいたのです」
与一は嬉しそうに語る一重が微笑ましく感じられた。そのはしゃぐ姿が、夏名と重なって見えた。
「一重の願いは何なんだ?」
そう聞くと一重は夜空を見上げた。
天の川が織姫と彦星の間をうるうると輝いて横たわっていた。どの星も金色の雫が滴りそうなほど潤んでいる。
どの星に願いを込めても、叶いそうな煌めく七夕の夜。
一重は花叶に話し掛けるように静かに囁いた。
「人と話せるようになりますように」
一重の声は子守歌のように優しく与一の耳をくすぐった。
「人と?」
「はい。この姿になろうと、私たちの言葉は人には通じません」
与一は思い返す。先ほど聞こえた木の葉の擦れるような音が、花たちの囁きだったに違いない。
「さっきの、人が見ていたとなると、やはりまずかったか?」
「私はまだ七日通りに生まれたばかりですから、しきたりのことはよくわからないけれども…… 姉様方が黙っていないと思ったから」
与一は顔を出してみようと思わなくて心底良かったと安堵した。この娘に話し掛けたのは幸いだった。
「人と話すという願いも、皆にいい顔されなかったもの」
一重は悲しげに言葉を零した。七日通りにありながら、人の手を借りて生きる一重の風当たりは冷たいらしい。
「どうして人と話したいと思ったんだ?」
「それは」
与一の顔を見上げて、一重はその身をほころばせるように満開に笑ってみせた。
「庄平様にお礼が言いたかったから」
身体が弱く、七日通りに生まれたのに長くは持ちそうになかった。皆一人で、堂々と美しく彩ることができるのに自分にそれができそうもないことが悔しかった。
そんな時に一人の男が、一重に話しかけてきた。
「水でもどうだい?」
七日通りの花は人の手にかかるのを酷く嫌う。独り咲き乱れてこそ一人前なのだと。でも一重にはそれが理解できなかった。
人の手は、いや庄平の手はこんなにも優しく心地よいのに。 花が一つ開くたび、良かったと言ってくれる。あの笑顔を見ることのできる喜びを、どうして分かってもらえないのか。
一重は頬を薄紅に染め、祭りの方を見つめる。そのどこかにいるであろう庄平を思って。瞳には与一をも狂おしい気持ちにさせてしまうような色が灯っていた。
ああ、そうか。
どうりで夏名の姿と重なって見えるはずだ。その横顔は、庄平を思う女の横顔なのだから。
「庄平もきっと喜ぶさ。お前を随分心配していたから」
与一はおもむろに立ち上がると、一重に手を差し延べた。
「行くか」
「何処へですか?」
「庄平を捜しに」
戸惑う一重を待ち切れないというふうに、与一は一重の腕を掴んで立たせた。
「でも、私は」
「せっかく願いが叶ったんだ。庄平に会わなければ後悔するぞ」
そうして、滑るように丘を下りて星空のようにごちゃごちゃと賑わう中へ飛び込んでいった。
与一はずくずくと苦しむ胸を押さえる。
分かっている。今夜は庄平は夏名と一緒だ。それでも、一重を庄平に会わせてやりたかった。
報われるとか、報われないとか、関係なしに。一重の思いを知ってしまった自分が、やりきれない気持ちにならないように。祭りの中をひた走った。
庄平は飴細工の屋台の前にいた。夏名に兎の飴を買ってやっているところだった。
「あら、与一さん」
「おう与一。どうした、やっぱり祭りを楽しみにきたか」
寄り添う二人を見て、与一は無性に悔しい気持ちに駆られた。その笑顔が、胸にぐしゃぐしゃとつかみ掛かってくるような。二人を見てそういう気持ちになったのは初めてだった。
「いや……」
気持ちが逸って上手く言葉を紡げない。俺が心を乱すことではないじゃないか。
冷静さを取り戻そうと、与一は深く呼吸する。
「与一の連れか?」
庄平は一重に視線を移す。
「いや、一重は庄平に用があって……」
「俺に?」
庄平に紹介しようと一重の方を見ると、なぜか悲しそうな顔で庄平を見つめていた。
瞳の奥が潤み始め、映る屋台の明かりが揺らめく。
「こんばんは」
「……」
庄平が声をかけるのにも応じない。与一はしまったと思った。
やはり夏名と一緒のところに連れてきたのが間違いだったか。
すると黙り込む一重に庄平は、
「どうした。人込みに酔ったか?」
と、一重の頭を撫でた。その瞬間、一重の頬にほろろ……と涙が伝う。
「一重っ?」
与一は庄平の手を払いのけて、一重の顔を覗き込んだ。
「一重っ、すまない、俺が」
無理に連れてきたから、そう謝ろうとしたが、一重は与一の顔を見てにこりと微笑んだ。大丈夫、というように。
そして庄平の方へ向き直ると、毅然と構えてしゃなりとお辞儀した。
その香り立つような姿に三人して見とれていると、一重は踵を返して走り出した。
「ひとえっ」
与一も後に続く。
空が、雲に覆われ始めていた。
「一重、待ってくれ。一重、一重」
与一が懸命に呼ぶのに一重は一度も振り返らない。祭りの中を抜け、村外れの人気のない場所までやってきて、ようやく一重はその走りを止めた。
「すまない、夏名のことを黙っていて」
「いいえ。あの女のことは知っていました。それでも、お礼だけでも言えたらと思ったんです。与一様は悪くありません」
一重はふるふると首を振った。
「ではなぜっ、何故庄平に礼を言わなかった?何の為に人の言葉を話せるようになったんだ……っ」
ぎりりと、握り拳に力が入る。礼が言えるのは、今夜だけなのに。
「与一様。あそこであなたに、あなたがいてくれて良かった。庄平様より先に会えたのが、あなただったのはきっと幸運だったんです」
何を言っているのか。庄平に触れられただけで涙が出るほど、お前に何もしていない俺の名前まで覚えてしまうほど、庄平を慕っているのに。どうして。
「俺のことはどうでもいい。お前の願いが叶う絶好の機会だったんだぞ。なのに」
「話せないんです。もう」
輝く雨が、二人の間にぽたりと落ちた。また一つ、もう一つ。星からこぼれ落ちてくる雫のように。止めどなく。
「初めに言葉を交わした人間とだけ、話すことができるという取り決めがあったから、私の願いは聞き入れられたんです」
「それじゃあ」
咄嗟に声をかけた、俺のせいで一重の願いが叶わないのか。
「そんな……」
愕然とする与一と裏腹に、一重の表情は晴れやかだった。そんな一重のことも受け入れられず、与一はただ言葉を失うばかりだ。
「与一様だから、今宵のことをお話しすることができました。本当に感謝しております」
「嘘言うなっ、俺がお前を振り回してしまったのに」
礼を言う相手が間違っているだろうに。その声を聞かせるべきは庄平であったのに。
「来年また花叶に選んでもらえないだろうか」
一重は首を横に振る。
「じゃあ、これから毎日七日通りに行くよう庄平に言ってやるから」
それにも、一重は首を縦に振らなかった。
「与一様、花叶が消えてしまえばあなたとも話が出来なくなってしまう。それは淋しいことだけれども、あなたと話せたこと後悔しておりません」
この思いが誰にも知られず消えてしまう。それが一番怖いことだから。
一重は雨とも涙ともつかぬもので白い肌を濡らしていた。しかしその顔には、満面の笑みを称えている。
「庄平様と話していたら、悔やんでも悔やみきれなかった。きっとこの夜だけでは足りなくて、願いが叶ったことを呪っていたかもしれません」
「一重っ」
一層強さを増した雨にかき消されるように、一重の姿が消えてなくなった。
「やめてくれ、こんな、悪い夢みたいな話は」
雨と、土と、咽ぶほど糖度を増した、濡れそぼったくちなしの残香。
与一ははっとして、慌てて七日通りへ向かった。もしかしたら一重はくちなしの姿に戻ったのかもしれない。
だが、七日通りにもくちなしの花の姿は見当たらない。
庄平がしゃがんでいたあの場所には、隣りの紫陽花が我がもの顔で広がっている。
『これから毎日七日通りに行くよう庄平に言ってやるから』
受け入れなかったのではなく、受け入れられなかったのではないか。
『紫陽花が飲むはずだったのですが、どうしてもと私に譲っていただいたのです』
この場所を譲るかわりに、花叶を代わってもらったのか。
「一重……」
身を賭するまでに、お前にとっては大切な願いだったんだな……?
さわわ……
雨音に紛れて、一重の《声》が聞こえた気がした。ありがとう、と言ったように与一の耳に届いた。
「あああああっっ――」
与一は、くちなしの消えた七日通りにうずくまって、ひたひたと雨に打たれ続けた。
祭りの夜の明くる日。風邪を拗らせた与一の家に、庄平が見舞いにやってきた。
「あの土砂降りの中にずっと居たなんて、そりゃあ風邪もひくってもんだろう」
庄平は見舞いの西瓜を手渡すと、縁側に腰を降ろしてくつろぐ。
「昨日は、悪かったな。なんだかあの娘の気に障るようなことしたみたいで」
「いや、お前は悪くないよ」
「そうかなあ」
こういう律義なところが庄平らしい、と与一は苦笑した。
「で、一体何だったんだ。俺に用事がどうとか」
「いいんだ。気にしないでくれ」
自分から本当のことを話すべきかとも思ったが、一重の言葉を思い出すとそれは野暮のような気がした。しかし与一は気が済まないとばかりに、
「可愛い娘だったろ」
「ああ」
「いい女だったろ」
「与一?」
女の話を自慢げにする与一を見たことがなかったので、庄平は狐にでもつままれたような顔をしている。
「お前の連れだったんじゃないか。あの娘何処に行ってしまったんだ?」
「一重は……」
一瞬答えるのを渋って、与一はにやりと笑った。
「一重はくちなしの花になったのさ」
「くちなし?」
庄平はなおも与一らしくない言動に戸惑っているようだった。しかし庭に何か見つけて、うなずいた。
「ああ、あの花のことを言ってるんだな?」
「ん?」
庄平が指差す先を見る。昨日まで枯れ果てて、何の木だったかもわからなかった枝に、青々とした葉が茂っていた。
「不思議なこともあるもんだな。あんな枯れ枝がこうも息を吹き返すなんて。まるで、七日通りから消えたくちなしみたいだ」
与一の心がざわついた。寝間着のまま、庭へ飛び出した。ふらふらとおぼつかない足取りに庄平が慌てる。
「おいっどうしたんだよさっきから……」
与一は、一つだけふっくらとついた蕾にそっと触れると、
小さな声で囁いた。
「一重」
さわわ……
葉の擦れる小さな音がした。
「庄平、お前が面倒見たあのくちなし、今度は俺の世話になりに来たらしい」
そう言って笑うと、庄平も応えるように笑ってみせる。
「そうか。ならうんと可愛がってやればいい」
庄平が本当に信じているかはわからなかった。それでもいい。きっと立派な花をつけさせてみせる。
そしていつか……
いつかお礼を言いに、俺の元にやってくるのだろう?
なあ、一重よ――
【終わり】
ずっと温めていた話を形にすることができました。絶対七夕に書こう!と思っていたので、企画を通して願いが叶って嬉しいです。
和風ということで、極力記号を使わないなどかなり神経を使った作品です。
特にこだわったのは視覚と嗅覚でしょうか。くちなしの花の香りが届いていますように。
批評歓迎。いい面を伸ばすのも大切ですが悪い面を知ることはもっと大きな糧になると信じます。
最後に。読んでくださり有り難うございました。