放課後のトイレにて
残されたのは僕と中原さんだけだった。隠れていても仕方ないので、堂々と姿を現す。中原さんは怯えるようにジャングルジムのバーを掴んでいた。
「あ、あの、偶然見かけて、さ」
こんな時に気さくに「やあ」なんて声掛けできる程、僕は人間ができていない。そのまま固まっていると、中原さんは急に走り出した。そのまま僕の脇を通り過ぎ、公園を出て行ってしまう。
呆気にとられたうえ、彼女の俊足は予想を超えていた。その場で一回転してみるものの、彼女の姿を捉えることはできなかったのだ。
そのまま金縛りを受けたように僕は立ち尽くす。吹き抜ける風が身に染みる。彼女には何かあるという予感はしていたが、これは予想外だった。が、理由が理由だけに放っておくというわけにはいかない。
まずは彼女と再会することが第一だが、どこにいるか。これは大方予想がついていた。僕もまた似たような経験があるので、足を運びそうなところは自ずと分かる。迷うことなく最寄り駅の構内を目指した。
男女別に分かれたトイレの他に、男女共有の多目的トイレが設置されている。性別専用のトイレがあるのに、わざわざ共有トイレを使う者など皆無。僕は迷うことなく多目的トイレの扉を開いた。
予想した通り、唯一の個室の扉は閉ざされている。もちろん、赤の他人が利用しているという可能性は拭い去れないが、僕は確固たる確信を得ていた。不快な臭いがすることも構わず深呼吸し、僕は個室の扉を叩く。
返事はない。鍵がかかっているので中に人がいるのは確定だ。扉に耳を密着させて、どうにか音を拾えないか試みる。
すると聞こえてきたのは嗚咽であった。さすがに罪悪感が込み上げてくる。憔悴している姿を誰しも他人には晒したくないものだ。ここまでやっておいて、さすがに自分が無神経な行いをしていると自戒する。やはり、日を改めた方がいいか。嘆息とともに扉から離れようとする。
「来てくれたんでしょ」
いきなり声をかけられる。心霊現象。と、いうわけではなく、単純に個室でろう城している人物の仕業だ。
僕は再び扉に耳をつける。依然として鍵は閉じられたままだが、「開けろ」と言う程無神経ではないし、度胸もない。
「なんか、情けない姿を見せちゃったね」
「そんなことはない。僕の方こそ、勝手にストーカーみたいなことしてごめん」
「いいわよ、気にしないで」
「あ、あの、生徒会長のことだけど……」
言いかけて、いきなり地雷を踏んだことに気が付いた。中の様子は分からないが、ぐっと口を噤んでいることは察せられる。静寂の中、かすかに水流の音が響いた。
「言いふらさないという条件付きでだけど、あなたにだけは話しておいてもいいかもしれないわね。あの女の本性を」
嗚咽が混じってはいるが、これまでの彼女とは比べ物にならない邪悪が込められていた。返事をし損ねたが、構わず彼女は続ける。
「私と生徒会長が知り合ったのはこの高校に入った時。一年生の時に同じクラスだったと言った方が分かりやすいかしら。テニス部志望ということもあり、すぐに仲良くなったわ。
彼女は人当たりの良さから、すぐさまクラスで一番のグループを築いていった。部活動でも一年生ながら一目置かれる存在だった。それは生徒会長をやっていることからも分かるでしょ。私も最初はそんな人となりに惹かれていた。でも、本性は違っていたの」
僕は生唾を飲みこむ。しばらく間が空いたが、中原さんは涙をしゃくりあげた。
「彼女は自分が一番でないと気が済まない性質だった。だから、自分より優れた奴がいると徹底的に排除しようとした。成績上位の子に対し、『次の考査で私より点を取ったらグループから外す』ってね。
クラスで一番のグループから外されるというのは、学校生活において死ぬというのと同然よ。男子の間では知らないかもしれないけど、女子の間では生徒会長の悪評は薄々広まっていた。そのグループの外れ者なんて、誰も相手にしようとしない。だから、あの女に尻尾を振って暮らすしかないのよ。
テニス部だってそう。私が本気を出せば、あんな女なんか簡単に打ちのめせる。だけど、そんなことをしたらどうなるか分かるでしょ」
「もしかして、中原さんって本当なら県大会に行けるぐらい強かったんですか」
「自慢じゃないけど、中学で県大会に行っていたわよ。生徒会長とそこで戦って勝ったこともあるし」
やたら身体能力が高いのはそんな秘密があったとは。話によると、中学の時点から目を付けられ、早々に抑圧を受けていたらしい。
「それで、テニス部に入っているのに、どうして便所飯部なんかを」
つい、この間からの疑問をぶつけてしまった。ただ、これまでの話から、どことなくこの珍妙な部活に帰結するように思えたのだ。案の定、中原さんは口ごもってしまったが、やがてゆっくりと語り出した。
「二年生になって、生徒会長とは別のクラスになった。その時のグループの子とも見事にバラバラになったわ。文理選択で私だけが理系だったという単純な理由だけど。
生徒会長の影の噂はそのクラスでも浸透していて、誰も私を迎え入れようとはしなかった。憂さを晴らそうとテニスで活躍しようにも、そんなことをしたらあの女から恨まれる。たまにゲームで打ちのめす度に、ああも恐喝されるんだから、分かるでしょ。
一緒にいる仲間がいない以上、昼食も一人で食べるしかない。でも、クラスで一人っきりで食べる弁当なんて、なんか味気なくて。で、どうせ一人で食べるのならちょっとでも刺激があった方がいいかなと思って便所で弁当を食べ始めたの」
その辺りの心境は共感できる。ただ、刺激を求めて色々な便所をさまよったという下りは独特だと断言するしかなかった。歴代の偉人然り、天才肌はどことなくネジがずれているというべきか。
「で、そうしている間に一緒に便所で弁当を食べる仲間が欲しくなってさ。本当にうれしかったんだよ。私と同じく、便所で飯を食べるような子がいて。同じ女子が望めそうもないから男子便所に籠った甲斐があったってもんよ」
「もしかして、男子便所にいたのって、本当はそんな理由だったんですか」
同情を誘うという人心掌握術かもしれない。などと疑うのは無粋だろう。年上であるはずの彼女がいじらしく、か弱い存在に感じられた。
堰が切れたのか、中原さんは再び泣き声をあげてしまう。慰めの言葉をかけようとしても、上手い具合に浮かび上がってこない。それどころか、「ごめん、一人にして」と懇願される始末だ。後ろめたさもあるが、逆にこのまま留まる方が迷惑であろう。僕は思い足を引きずりながら多目的トイレから去っていった。




