再会
下校時間まで待ち伏せしようという気概もなく、結局その日は弁当箱を返すことができなかった。なので、次の日に例のトイレで待ち伏せることにする。
まさか母親に「他人の弁当箱を間違って持ってきた」なんて明かすことができず、「学校に弁当箱を忘れてきた」と言い訳をしておいた。代わりに小学校の遠足で使っていた小さな弁当箱に手製おにぎりを詰めて持ってきた。コンビニおにぎりを数個持参するのと大差ない内容量だが、やはり既製品ではどこか物足りない。
トイレの入り口の壁に背を預け、足をぶらつかせながら時間を潰す。だが、無為に時間が過ぎるばかりで、人っ子一人来る気配がない。便所飯部というふざけた活動を掲げていたが、活動場所は常にこのトイレとは限らないかもしれない。彼女のことだから、今度は別のトイレで食事をしてみようとしているのだろうか。いきなり男子トイレに潜入するぐらいだからそれくらいはしている気がする。
折角作ったおにぎりを無駄にするわけにもいかないので、僕は青空の下で頬張ることにする。口を開ける度に清涼な空気が腹の内へと流れる。うららかな日差しはそれだけで食欲を加速させる。遠足の時に食べる弁当はおいしく感じられるなんて定説があるが、あながち間違ってはいないと思う。ただ、今一つスパイスが足りない。それが何かはよく分からない。遠い昔には満たされていたが、今は不足している。曖昧模糊としているが、とかくパズルのピースが欠けた心持ちになっている。
食事自体はすぐに済んでしまったため、仕方なく教室へと戻ることにする。戻ったところでここにいる以上に無為な時間を過ごす羽目になるのだが、まあ致し方ないだろう。体育館の角を曲がり、渡り廊下に差し掛かろうとしたとき、僕はふと足を止めることになった。
女子生徒と対面したのだが、彼女もまた驚愕で目を丸めていた。無論、僕もそうであった。彼女の顔は忘れたくても忘れられない。数か月も一緒にいるはずの同じクラスの生徒よりも鮮明に脳裏へとこびりついていた。
「君は、河合君だよね」
「ああ、はい」
確認し合うが、すぐさま顔を逸らしてしまう。昨日、あんなことがあったのだ。直視しろという方が無理である。
しばし無言が続くが、中原さんは無言のまま弁当箱を突き出してきた。うろたえていると、更に迫って来る。ジブリ映画に似たようなシーンがあったような。あれは傘であったが、状況からすると大差はない。
素直に受け取り、所持していた重箱を返還する。ナプキンできれいに包装し直されており、乱雑に包んでいた自分が恥ずかしい。
「えっと、もう行くね」
背を向け、足早に去っていこうとする。
「待って」
自分でもなぜ呼び止めたか分からない。けれども、自然と口を開いていた。びくっと背を震わせ、中原さんは立ち止まる。そのまま静止し、対面することはない。
そのまま気まずい沈黙が流れる。あとに続けるべき言葉がどうしても浮かばないのだ。
「もしかして、便所飯部に入りたかったりする」
「そういうわけじゃないけど。その、生徒会長と仲が良いんですね」
混乱しながらもどうにか言葉を絞り出す。彼女に対して疑問視していたこと。それは紛れもなく生徒会長との関係性だ。はっきりさせてしまえば、僕の中のわだかまりも消えるはず。
交友関係について尋ねるのは別に差支えはないと思う。なので、即答されるはずであった。しかし、中原さんは振り向くこともなく、かといって立ち去ることもない。静寂を保ったまま天井を仰いでいる。居たたまれなくなり、僕は一歩を踏み出す。
「その件についてはあなたには関係ないというしかないわね。まあ、仲が良いか悪いかでいったら良いって答えるしかないけど」
嘘だ。なぜだか分からないが直感でそう信じた。彼女の口調は明らかに投げやりであった。胸中に隠匿している事情があるに違いない。
お節介にも追及したくなった。だが、その願望が成就することはなかった。中原さんが僕に背を向けたまま走り去っていってしまったのだ。女子生徒といえど、追いつける見込みがないくらいの走力を発揮している。もはや物理的に話の続きを聞きだすのが不可能となってしまった。
好物を前にお預けを受けている犬の心持ちにさせられたわけだが、さすがにそんなことをされて黙っていろという方が無理だ。正直、今の僕は自分でも異常だと思う。未だかつて、ここまで他人に拘泥した覚えがない。どうでもいいと切り捨てれば済むはずなのに、どうしても彼女について知りたいと渇望してしまうのだ。
教室に戻ってもなお、頭の中は彼女に支配されていた。ただでさえ意味が分からない化学式が他国の言語で解説されているような心持だった。ぼんやりと時計の長針の動きを追っていたのだが、うざったいほど鈍重で苛立ちを募らせるばかりであった。
建設的に中原さんと生徒会長との関係性を探る方法を考えてみよう。同じクラスのテニス部の連中に聞いてみる。いや、駄目だ。そんなことをしたら過去の二の舞ではないか。クラスのマドンナ的存在を眺めていただけで「お前、あいつのこと好きなんだろ」と決めつけやがって。恋慕もないのに「キモイ」と直訴され、散々な目に遭った。
荒波を起こさないためにも、この教室内で行動を起こすのはまずい。では、どうやって探るべきか。ここで手掛かりとなる一団が脳裏に駆け巡った。テニス部の練習を偵察した際、同じ場にいた同業者たち。生徒会長には私設のファンクラブがあるという根も葉もない噂を聞いたことがあるが、それが本当なら構成員の一派があそこにいたという可能性もある。むしろ、そう考えるのが自然だ。
そして、発想を逆転し、生徒会長のことを聞き出しつつ、さりげなく中原さんについての情報を得られれば。そんな誘導尋問を成し遂げられる自信はないが、この方法でしか彼女について知ることはできなさそうだ。
とはいえ、大きな壁が立ちふさがっていた。同じクラスメイトでさえ、普段話しかけることがないのだ。まして、どこの誰かも知らない人から情報を聞き出すなど、やったこともないゲームをいきなりハードモードでプレイするようなものだ。人生というゲームにおいて会話というスキルが必須要素ならば、僕なんかは常にハードモードで過ごしているのであるが。
まずは、昨日の連中が同じように観戦していなければお話にならない。毎日のようにコートにしがみつく暇人ならば、あの場所にいるはずだ。僕もまた毎日のように便所に通っているのだから人の事は言えないが。不安を抱きつつも、僕は再度テニスコートを訪問する。業後すぐということもあり、コート内に人はまばらであった。しかも、ウォーミングアップの途中なのか、皆柔軟運動をしていた。見物するだけなら実につまらない光景だ。
今回の目標はコートの外にいる。あくまで偶然通りかかったということをアピールしつつ、周囲を廻り歩く。すると、いとも簡単にお目当ての人物を発見した。