放課後の中原さん
五時間目の予鈴の後に教室に戻ったので、全クラスメイトの注目を浴びることになる。それだけではなく、世界史の教諭から「河合、遅かったな」と声掛けされてしまう。ただ、「すいません」と上っ面で答えるや、それ以上騒ぎになることはなかった。所詮、僕の存在意義なんてそんなものだ。
弁当箱を鞄に戻そうとして、そこで初めて違和感に気が付く。いつもより明らかに容積が大きいのだ。持参している鞄の大部分を弁当箱が占領してしまっている。
まさかと思い、今一度弁当箱を確認する。すると、恐ろしく厄介な事実がのしかかってきた。
「弁当箱を間違えた」
荘厳な重箱。明らかに中原さんが持ってきた代物だった。感情任せにトイレから飛び出てきてしまったため、長らく弁当箱を確認する機会がなかったのだ。
理不尽な思いをしたのだから、このまま借りパクしてしまおうかと性悪なことも考えた。しかし、こちらも自分の弁当箱を相手に預けてしまっている。さすがにこのままにしておくわけにはいかないだろう。
ここで危惧すべきは、中原さんの方から僕の教室に訪問してくることだ。先輩の女生徒が僕を目当てにやってきたなんてことになったら、どんな騒ぎになるか。だが、そうなる可能性は低い。なにせ、中原さんに僕が所属するクラスを明かしていないのだ。まさか、一年生六クラスをしらみつぶしに探すなんて非効率な方法をとるわけがないだろう。
その点、僕は中原さんが二年三組であることを把握している。僕が間違えて持って帰ってきてしまったので、進んで返しに行くのが筋ではある。しかし、面と向かって啖呵を切ってしまった手前、そう易々と再会する気にはなれない。それ以前に、単独で先輩のクラスへと訪問するような胆力もない。
悶々としたまま時間だけが過ぎていく。どうにも決断できず、僕は無理やり重箱を鞄の中に押し込めるのであった。
授業が終わり、僕はとりあえず中原さんの教室を覗いてみることにした。あくまで覗いてみるだけだ。群衆の中、面と向かって弁当を手渡すなんて芸当をするつもりはない。用事のついでにたまたま二年生の教室を通りかかった。そういう筋書きで行こう。
この学校に知り合いなどほとんどいないのだが、それでも上級生の教室の前を通るというのは妙な緊張感がある。漂う空気でさえ重々しく感じるのだ。もはや、他人と会話すること自体が一大事であった。
他人からしたら挙動不審な振る舞いをしていたと思うが、それでも一つ一つの教室の中を視認しつつ歩んでいく。二年生の知り合いなんて中原さんぐらいしかいないので、すんなり遭遇できると踏んでいた。が、なかなか巡り会えない。ついには、二年三組の教室に達したのだが、彼女はどこにもいなかった。
テニス部に所属しているそうなので、既に部活動に赴いているかもしれない。だとしたら、僕の試みは徒労で終わることとなる。端から成果など期待していなかったので問題ないが。
考え事をしながら歩いていたことがまずかった。急に体全体に衝撃が走った。よろめきつつも前方を見遣ると、女子生徒が鼻を押さえて壁によりかかっていた。校章からして二年生。最悪の事態であった。
「痛ったい、もうなんなのよ」
「あ、あの、その、ごめんなさい」
まごつきながらも謝罪する。突き刺さる視線が痛い。すぐさま逃亡を図りたかったが、足が思うように動いてくれない。おどおどとしていると、女子生徒が怪訝な目で睨んできた。
「あなた、一年生よね。ここのクラスに用でもあるの」
至極真っ当な質問だ。言葉を濁そうともしたが、正面衝突してしまった余波かつい口が滑ってしまった。
「えっと、中原さんっていませんか」
「中原さん? 中原さんって、中原梓乃?」
下の名前まではよく覚えていなかったが、確かそんな名前だったと思う。首を縦に振っていると、女子生徒は顎に手を添えた。
「さあ知らないけど。もう帰ったんじゃない」
「部活とかじゃないんですか」
「部活? ああ、テニス部とか言ってたわね。もしかして、君はテニス部の後輩」
「うーんと、そんなところです」
違うのだが、ここは話を合わせておいた方がいい。まかり間違っても弁当箱を返しに来ただけなんて明かしたらどうなることやら。
これ以上長居してボロを出してしまっては元も子もない。僕は一礼して教室から去っていった。
先の先輩の話からすると、中原さんはテニス部というのは間違いないようだ。そうなれば、放課後は練習に出ていて面会どころではないはず。活動が終わるまで待って返すか。いや、そこまでする義理もないはずだ。別にしてもいいのだが、体裁というものもある。彼女もまた便所飯に拘りがあるようなので、また明日例のトイレを訪れるだろう。そこで渡せば万事解決のはず。
ただ、一度探りだしてしまった手前、好奇心というものには抗えそうにない。僕が他人に拘泥することなどまずないのだが、なぜだか彼女のことはよく知りたいと思う。運動場へと続く階段を行ったり来たりしながらも、僕の足は着実に下の階へと赴いていった。
運動場では既に練習が始まっており、サッカー部の練習が果敢に声を掛け合いながらパス回しをしていた。その脇を野球部のユニフォームを着た一派がランニングしていく。汗臭い青春の一ページ。僕とは無縁の世界がすぐさばで広がっていた。
テニスコートは運動場の外れにあるはずだ。漫画であればエースの活躍を目的に大量のギャラリーが群がるという光景が展開されている。が、現実にそんなことをする暇人はいない。木崎綾音がテレビ出演している芸能人であれば分からなくもないが、そこまでの知名度はない。
それでも、ミーハーな連中が全くいないというわけではなく、既に数人の先客がいた。むさくるしい男連中三人組。しきりにコート内に羨望の眼差しを向けている。女性の価値観はよく分からないが、男の色眼鏡からすると、まずお目当てであろう彼女とは釣り合わなさそうな連中だ。それどころか、女子テニス部のその他の面々ともご縁がなさそうだろう。
コートの中で目を引くのは、やはり木崎綾音であった。練習試合の最中なのだが、相手選手が繰り出す際どいコースの球を顔色一つ変えずに返球している。それどころか、チャンスがあれば容赦なくスマッシュを入れるといった積極性も披露する。素人目からしてもかなりの実力者であることは認めるしかない。女子テニス部は全国大会まで進みかけたという噂を聞いたことがあるが、彼女の尽力が大きかったというのは確かだろう。
つい生徒会長に目を奪われてしまったが、僕の目的はそうではない。あまり目立たないように注意しながら、コート内をくまなく見渡す。すると、先ほどまで対戦していた女生徒と入れ替わるようにコートに立つ人影があった。
スラリと伸びる長身。髪をひとまとめにし、清涼感のある白いコスチュームに身をつつんでいる。そよ風でミニスカートがなびくのに目を奪われたのは男の性というべきか。どうせ、あの下にはスパッツか何かを穿いているに違いない。
昼間のトイレで会った時とはまた違った様相の中原さんが颯爽とラケットを構えコートに降臨していたのだ。
あまりに様になっていることから、幽霊部員というわけでもなさそうだ。おそらく、生徒会長同様かなりの実力者だろう。素人目で適当に言っているだけではあるが。
ようやく目当ての人物と対面することができ心が躍る。が、次の瞬間に強烈な違和感に襲われることとなった。中原さんがコートに立ってからというもの、部員たちの空気が変わったのだ。しかもそれは、僕が常日頃感じているものと同質であった。ベンチでひそひそ話をしていたり、ラリーの練習を中断する者もいたりする。高揚した僕の心は次第に不穏に浸食されていく。
当の中原さんは平然と前傾姿勢でフットワークをしている。そして、木崎生徒会長のサービスでゲームが始まる。が、前回のゲームと比べると明らかに軌道が甘い。僕でも頑張れば返球できそうな球だ。当然のように中原さんは間合いに入り、ラケットを振りかざす。
軽快な音と共に球は跳ね返される。しかし、ネットへと引っ掛かり自軍コートにポトリと転がってしまう。ラブ、フィフティーン。初っ端からの失点であった。
舌を出してボールを拾う中原さん。「失敗しちゃったな」とおどけつつも、木崎生徒会長へと返球する。対して「どんまい」と慰められるが、その声音はひどく乾いていた。
その後もラリーが続くものの、中原さんのつまらないミスにより失点が重なる一方だ。彼女が下手くそなのかというとそうではない。コート隅アウトラインギリギリに着地した球に対し体を滑らせながら返すといったファインプレーも披露した。しかも、その直後に真逆の方向を狙われたが、きちんと対応できている。
僕の思い過ごしかもしれない。でも、彼女のプレーを観察している限り、どうしてもわざと失点しているようにしか見えないのだ。そのことを裏付けているのは彼女の表情だった。上っ面は人懐っこそうに破顔している。しかし、僕と出会った時に披露した笑顔とは明らかに異質であった。僕のような孤独愛好者は、普段他人の顔色を窺いながら生活する癖がある。その成果の賜物かもしれないが、とにかく何らかの事情がありそうな気がしてならない。
結局練習試合は木崎生徒会長のストレート勝ちで幕を閉じた。黄色い歓声を送る邪魔者をよそに、僕は居たたまれなくなってその場を去った。




