中原梓乃という女
「あ、そうそう。まだ名乗ってもいなかったわね。私は二年生の中原梓乃。君は一年生だよね」
興ざめしたので退散しようとしたところ、勝手に名乗られた。襟についている校章から彼女、中原さんが先輩であることは察しがついていた。そそくさと無視してもよかったが、ここでそんな無礼を働くほど僕は肝が座ってはいない。
「一年の河合蒼太です」
ぼそぼそと自己紹介すると、中原さんは「蒼太君ね、よろしく」と馴れ馴れしく手を握ってきた。暴力的に振り払いたい一方で、このままずっと握っていたくもある。彼女の顔はまぶしすぎて直視できなかった。
「さて、蒼太君。君のお弁当がまだみたいだね」
「そうだけど、ここからはお暇させてもらいますよ」
「どうしてよ。ここで食べなよ」
駄々をこねられるが、僕は踵を返す。こんな変人と一緒に食べるなんて願い下げだ。折角の飯がまずくなる。
「せっかく仲間になったんだから、いいでしょ」
「仲間になったつもりはない。そもそも、いつまでも男子トイレにいるってのはおかしいでしょ」
振り向きつつ目で違和感を訴えると、中原さんは口を噤んで不平を訴え返す。ここで仲良く食事なんてことになったら本末転倒となってしまう。それに、ようやく見つけた聖域を易々と明け渡すつもりはない。
両者にらみ合いが続いたが、嘆息とともに中原さんの方が折れた。
「君がそう言うなら仕方ないわね。あ~あ、研究の途中だったのにな」
「研究って何やってたんですか」
つい好奇心を顕わにしてしまったが後の祭りだった。にこりとしながら胸を揺らす。
「本日の命題は、男子トイレでいかにおいしく弁当を食べるか。いっつも女子トイレで食べてたけど、どうにも足りないものがあるなって思ってたの。で、思いついたのが刺激というスパイス。ばれるかばれないかのスリルの中で味わう弁当はどうか。どう、妙案だと思わない」
「思いませんし、ばれてますよね」
「もう、きみはいちいち辛辣だな」
デコピンをする真似事をされる。そんなくだらない探求心のために男子トイレに潜入するなど精神を疑う。無邪気にプチトマトを頬張ると、中原さんはおもむろに弁当をしまった。
「確かに、ばれてしまっては研究の意味がないわ。君のお楽しみを邪魔しても悪いし、今日のところは帰ってあげる」
「そうしてくれると助かります」
イレギュラーなのはそっちなのに、どうして上から目線なのだろう。一応学年からするとそっちが上ではあるのだが。
素直に退散していくと思いきや、入り口でいきなり立ち止まった。腕を組んで、顔だけこちらに向ける。
「お近づきの印にさ、今度私が弁当作ってきてあげるよ」
「いや、いいです」
「冷たいな。こんな可愛い子が手作り弁当作ってあげるって言ってるんだぞ」
可愛いか可愛くないかで聞かれると、彼女は間違いなく可愛い部類に入る。かといって、美少女特有のとっつきにくい雰囲気はない。完成された絵画に絵の具を垂らしても不和を感じさせない。わずか数分足らずの邂逅にも関わらず、そんな印象を抱かせるほど、彼女の包容力は恐ろしい。
無言を貫いていると、勝手に肯定と受け取ったのか「じゃあ、楽しみに待っててね」と足早に去っていった。
嵐の後の静けさというべきか、便器に滴る水の音が空間を支配していた。余計に時間を浪費してしまったが、いつもの通過儀礼を行うとするか。僕は個室の便座に腰掛け弁当を開く。
昨晩のおかずから拝借したトンカツをベースに、栄養バランスを考慮してサラダやゴマふりかけのご飯を盛りつけてある。ちょっと豪華なコンビニ弁当が本日のテーマだ。アンモニア臭をスパイスにトンカツを口に運ぶ。時間経過のせいか衣がぱさぱさしているが、肉の脂身は健在だ。認めるのは癪だが、母親はいい仕事をする。
弁当へと意識を集中していると、いつもならば自ずと心が休まってくる。しかし、今日は胸のざわつきを抑えることができなかった。壁を挟んだ反対側に軒並みならぬ存在感があるからだ。固くて噛み切れない肉の塊をいつまでも口の中で転がす羽目になった。
消化不良となった昼食を終え、僕は教室へと戻る。ここでの僕は空気のようなものであった。扉を開けた時点で誰一人注視することはない。一瞥ぐらいはされるが、クラスメイトはすぐさま気が置けない仲間内へと閉じこもってしまう。いつものことだから、別に気を病むこともない。むしろ、下手に話しかけられた方が対処に困る。
自分の席で小説と睨めっこしていると五時限目が始まる。一人で周囲に差し支えない暇つぶしができるという点で活字文化は素晴らしい。集団から孤立するような奴は大抵国語の成績がいいというのは道理にかなっているかもしれない。
五時限目は総合学習なのだが、すべての授業の中でこれほど無意味な時間はあるまい。数人でグループを作って調べ学習をしろというのだが、適当に相づちをうっていればそのうち一時間が終わる。そもそも、仕方なしに入れられたというのは暗黙の了解であるので、出しゃばって意見しようものなら、逆に作業が滞る。他のメンバーも僕が置物同等という認識でいるようなので、荒波を立てる必要性もない。
退屈な授業も終わり、僕は足早に帰路につく。もちろん、部活動などやるわけがない。一致団結して全国大会を目指すなど糞くらえだ。気分転換をしたいだけなら、帰宅してゲームでもやっていた方が気楽だろう。好き好んで休日を返上してまで仲良しごっこをしようだなんてまっぴらごめんだ。
校庭の中ほどを歩いていると、男子生徒たちがざわめいている。野次馬根性はないのだが、騒動の原因となっている一団は進行方向を阻むように進んでいるので、嫌でも目に入ってしまう。
黄色い歓声の元となっているのは女子生徒の一派だった。校章から二年生と分かる。いや、この学校の生徒だったら彼女らが何者かはすぐに判別がつく。高嶺の花ということわざがあるが、その例えとして用いるのにこれほどなくぴったりな人材が大手を広げて闊歩していたのだ。
木崎綾音。この高校の生徒会長にして女子テニス部のエース。女性用のファッション誌に掲載されているモデルがそのまま飛び出たかのような抜群の容姿を誇り、人望の良さはそのまま取り巻きの多さにも反映されている。常に十人近いお仲間を引き連れていることから僕はひっそり「大名行列」と揶揄しているぐらいだ。
恋愛対象としての男子からの人気も高く、告白して玉砕し、屍が累々としているとか何とか。お嬢様っぽくカールさせた髪を揺らす彼女に、哀れな男性陣は羨望の眼差しを捧げている。
普段であれば、ごくありふれた日常風景として受け流すところであった。しかし、生徒会長の取り巻き集団の中に妙に覚えのある顔が紛れていたのだ。
無駄に大きな胸といい、小動物のような人懐っこい顔つきといい間違いない。中原梓乃。昼休みに便所で出会った彼女が確かにその中にいたのである。
スクールカーストという用語を聞いたことがある人もいるかもしれない。同じ学校に通っている者は皆平等とことはなく、友人関係やその他もろもろによって自ずと格付けされている。僕のような孤独な半端者が最底辺に属しているアレだ。
木崎綾音は間違いなくカーストの最上位に属している。それも、学年どころではなく、学校全体の頂点といっても過言ではない。そんな彼女の取り巻きでいられるということは、中原さんもまた上位カーストの住民ということになる。
だからこそ、昼間の蛮行が余計奇妙に思えるのだ。仲間に恵まれた彼女がわざわざ昼休みに教室を抜け出して便所で弁当を食べる必要性があるのだろうか。生徒会長たちと友人なのだから、彼女らと食べればいいはず。複雑な事情でもあれば別だが、無邪気に笑いあっている姿からはそんなことは察せられない。まあ、詮索するつもりは毛頭ないのだが。
じっと一団を観察していたせいか、ふと中原さんと視線がぶつかり合う。彼女から微笑みかけられ、僕は不覚にも胸が高鳴ってしまう。美人で有名な生徒会長と並んでも遜色ないことからして、黙っていれば彼女もまた美人なのだ。僕は頭を振ると、一目散に校門へと駆けていった。