便所飯部始動
木崎生徒会長から通り過ぎ様に汚物を見るような目で見下された。が、そんなのは些末なことであった。中原さんはジャングルジムのバーを破壊しかねないほど強く拳を握っている。激情を隠すことなくぶつけられ、さすがに逃げ出したくなった。しかし、生徒会長と対峙した時以上の恐怖が僕をがんじがらめにしている。
「とんでもないことをしてくれたわね。確かに、便所飯部という部活を作ろうとしているわよ。でも、それはあくまで秘密裏に進めていること。公にそんなことをしているなんて言ったらどうなるかぐらいの分別はついているわ。
君がどういうつもりかは分からないけど、考えもなしにこんなことをしたなら許さないから」
「もちろん、考えなしにやったわけじゃない」
気圧されぬよう僕は必死に声を張り上げる。この返答に中原さんはジャングルジムから手を放した。僕は足を引きずりながら中原さんへと近寄った。
「ずっと不思議に思ってたんだ。トイレで会った中原さんとテニスをやっている時の中原さんはどこか違うって。トイレの時は活き活きしていたけど、テニスの時はそうじゃなかった。じゃあ何が違うのか。その答えは生徒会長だ。彼女のせいで精いっぱいテニスができない、そうだろ」
彼女が反論できるはずはなかった。昨日トイレで話した時点で半ば答えを出していたようなものだ。
「ならば、その原因をぶっ壊せばいい。そうすれば、気兼ねなくテニスができる」
「そうね、君の言う通りだわ。でも、だからといってやりすぎよ。あの女は内心むかついてたけど、私にとってはテニス部だけが唯一の拠り所だった。部活でもハブられたらもう私の居場所がないじゃない」
叫びとともに慟哭して崩れ落ちた。僕がこの作戦で懸念していたことが現実化してしまった。このままでは中原さんの社会的地位を破壊した極悪人として終わる。ならば罰を受け入れよう。彼女に与えた心の痛みに比べれば、このくらいの理不尽など可愛いものだ。
「居場所ならある」
突拍子もない一言を放ったためか、中原さんの涙はピタリと止まった。僕は握手を求めるように右手を差し出した。
「テニスもそうだけど、便所飯部だって中原さんがやりたいと思ってやっていることでしょ。それをキモイだなんて言う人は本当の友達じゃない。少なくとも僕は、便所飯部だって立派な部活だと思っている。だから……」
最後の切り札を繰り出す。叩かれても文句は言えないので、僕はしっかりと目を閉じた。そして一音一音はっきりと発生する。
「僕を便所飯部に入れてください」
暗闇の中、彼女の表情を窺い知ることはできない。瞼を開ければ済む問題だが、どうやっても開眼できなかった。歯を食いしばるが、顎が痙攣して口の中で合唱が沸き起こる。
ふと、右手に温かい感触が宿った。合唱していた歯たちが一挙に押し黙る。あれほど光を拒絶していた瞼がすんなりと開かれようとする。
まっさきに飛び込んできたのは笑顔であった。心を救われるような満面の笑み。その主は中原さんであった。
「もちろん歓迎するに決まってるじゃない」
腰が抜けそうになるが、中原さんががっちりと握ってくれているおかげで体勢を保つことができた。口の中の合唱が終わったばかりなのに、今度は胸が合奏を始めている。おまけにオーケストラ並の大仰さだ。
このままでも頭の中が真っ白になり、人形同然となっているようなものだった。それなのに、中原さんは急に僕の頬に顔を寄せた。彼女の吐息が鼻にかかる。芳しい汚物とそれを隠す化学薬品の臭いばかり嗅いでいた僕にとっては新鮮な香りだった。中原さんは更に僕の耳へと口を近づける。
「ありがとね。とっておきを用意して待ってる」
まさに天使の囁きだった。手を離された途端、僕は尻もちをついてしまう。中原さんはいたずらっぽくクスリと笑い、スキップで駆けて行った。
僕は一人、天を仰ぐ。暗闇の浸食を拒むようにきれいな茜色の空が残っていた。黒と赤がないまぜになった光景を目にしているうちにお腹が減ってきた。ここで弁当を連想してしまう辺り、僕は相当洗脳されてしまったのだろう。制服が汚れるのを厭わず、地面に背を預ける。そして、未だぬくもりが残る右手をしかと握り、一人ほほ笑むのであった。
あれから数日経った昼休み。僕は男子トイレの個室の前で呆然自失としていた。前にもこのような光景があったから抵抗がついているつもりであった。けれども、強烈な違和感は拭い去れない。いてはいけない存在が堂々と鎮座しているのだ。
「心臓に悪いから男子便所の個室で待ち構えているのは止めてもらえませんか」
「いいじゃない。どうせ、誰も来ないんだし」
悪びれることもなく、中原さんは膝に弁当を置いて微笑んでいた。嘆息とともに僕は個室の中に入る。
今日は揃い合わせたように弁当箱いっぱいに握り飯を詰めてきた。前日に「握り飯縛りでいかにおいしい弁当を作れるか」という課題を言い渡されたからである。差別化を図るのであれば、中の具を工夫するしかない。梅干しにおかかに鮭に昆布と、コンビニで売っていそうな具は一通りコンプリートした。もちろん、すべて手製だ。
中原さんはどんな手で来るか。期待して彼女の弁当箱を覗くと、一面に白銀の世界が広がっていた。テーマは「白い恋人」らしい。北海道土産とおにぎりがどう関係しているのか不明だったが、答はすぐに判明した。
「これ、全部塩おにぎりじゃないですか」
やられた。すべて同じ具で統一するだけでも奇抜なのに、まさかの具なしだと。おまけに、手抜きというわけではなく、ご飯に対して別妙な塩梅で塩が盛られている。塩っ辛くもなく、かといって物足りなさを一切感じさせない。適当にまぶしたのでは再現できない味だ。
遠慮なしに僕の作ったおにぎりに手を伸ばし、おいしそうに頬張っていく。つい数日前に披露していた陰鬱さが嘘のようだ。まだ数えるぐらいしか会食していないが、彼女の癖がなんとなく把握できるようになった。傍目でおいしそうにご飯を食べている時は絶対にいいことがある。
「中原さん、いいことあったんですか」
「分かる、蒼太」
おととい辺りから僕のことを下の名前で呼ぶようになった。呼ばれ慣れていないので、かなり気恥ずかしい。
「今日の体育で生徒会長たちとバスケで対決することになったんだけど、相手チームをボコボコにしてやったの。この調子で今日の部活でもけちょんけちょんにしてやるんだから」
口ぶりが特撮の敵の女性幹部である。生徒会長と決別してからというもの吹っ切れた中原さんは、部活の模擬戦で圧勝し続けているらしい。
「部活で思い出したんだけど、最近練習していると妙に気持ち悪い視線を感じるの。蒼太、君じゃないよね」
「僕がそんなことするわけないでしょ」
していたことがあるので、突き詰められたら弁明はできないが。犯人は現代萌え学部の連中に違いない。奴ら、ターゲットを変更したようだ。
弁当箱が半分ほど空にされたところで、前々から疑問だったことをぶつけてみた。
「そういえば、中原さんって料理が上手いけど、何かやっていたんですか」
「ああ、料理ね。これもまた趣味よ。私、昔から体育と家庭科は得意なのよね」
趣味レベルで家庭科の成績万年満点の僕を凌駕するとは信じがたい。むしろ、彼女の苦手なものが知りたいぐらいだ。
予鈴が鳴れば、ここでの一時は終わってしまう。そうなると孤独に堕すこととなるのだが、ここ数日寂寥感を覚えるようになった。が、深く苛まれるということもない。また昼になれば、胸の中にわだかまった暗雲が払拭できるからだ。
明日の献立はどうしようか。そんなことを考えつつ、アンモニア臭をおかずに僕は塩おにぎりを味わうのであった。




