×たがり小噺
欠落人間×死にたがり友達
「ごめんね、待たせちゃって」
図書館での当番活動が終わった足で部室に向かった檸檬は、扉を開くと同時に中へと声を掛けた。ぼんやりと魂が抜けたような表情で愛用の鋏を弄んでいた彼岸がその声に顔を上げる。どうやら幸いにして今日はそういう気分にはなっていなかったらしく、机の上にくしゃくしゃに丸められたティッシュは見当たらない。掃除をしなくても良さそうなことに檸檬は安堵の溜息を吐いた。
「大丈夫ですわ。彼岸も今来たばかりなので」
彼岸は首を左へ傾けながら虚ろな笑みを浮べている。手首を返して鋏を置いた拍子に顔を顰めたのは、きっと何処かの傷口でも開いたせいだろう。昨日の傷か一昨日の傷かという話だ。案の定彼岸は檸檬がいるのにも関わらず眉を顰めたままするすると右腕の包帯を解き始めた。
「痛む?」
「ええまあ、それなりには。悼みのための傷みの痛みですから。彼岸にじくじくと未だ脈打つ無駄な生命の鼓動を伝えてくださいますの。責め苦ですわね。この世の地獄ですわ」
淀みなく言葉を紡ぎながら、彼岸は慣れた手付きで包帯を纏め、セーラー服の胸ポケットから絆創膏を取り出した。剥き出しになったというのに細腕はほとんど肌が見えていない。当然だった。ただでさえ少ない表面積に、所狭しと絆創膏やガーゼが貼り付けられているからだ。友人の腕のそんな惨状を見ても眉一つ動かさない檸檬に、絆創膏を分割しながら彼岸が笑いかけてきた。
「百鬼目先輩の仰る通り、檸檬は本当に欠落人間なのですわね。彼岸の腕を何回も見て、その全ての場合に対して無反応という人は初めてですわ。こんな屑人間にそんなことを言われる筋合いはないと、お気を悪くされたらごめんなさいませ」
「そんなこと、ないけど」
色が変色し始めている絆創膏が剥がされる。流石に気を使ったのか彼岸は露わになった患部を手で覆い、片手だけで器用に治療していた。毎日のように見ている光景ではあるが、何度見ても器用なものだなと感心を覚える。檸檬が瞬きを二回ほどする間には、彼岸は既に包帯を巻き直しに掛かっていた。包帯を巻きつけているほうが痛々しく見えないというのもなんとも変わった光景ではある。
「ところでですが、本日は百鬼目先輩とどのようなお話をなさっていたのですの? 図書当番なのでしたわよね?」
包帯を巻き終えた彼岸はきちんと手をそろえて膝の上に置いていた。憂いをふんだんに含んだ眼差しは静かに檸檬に注がれていて、この少女もまた、灯璃とは違ったタイプの美人なのだなと思い知らされる。ただ、本人は自分の容姿を嫌っているようだが。檸檬は鞄を端に置いて、彼岸の近くの椅子を引いた。
「前に彼岸ちゃんにも話した、短所と長所の話かな」
「あれでございますか。百鬼目先輩のお答えでしたら何となく想像がつきますわね。そういえばですが」
彼岸が首を傾けると華奢な肩に色素の薄い髪がさらさらと掛かった。部室の小さな窓から入り込む光が透かし見える。触れれば砕けてしまいそうな儚さは、この×にたがりに良くお似合いな容姿だった。檸檬は机に頬杖を付く。
「本日は彼岸と一緒に帰るので良かったのでございましょうか」
「良いけど、どうして?」
頬肉が変形する柔らかな感触。垂れた黒髪が首元を掠ってくすぐったい。彼岸の言う言葉の真意が汲み取れなくて瞳をぱちくりと瞬きさせると、包帯でぐるぐる巻きになった腕がゆっくりと持ち上げられた。
「浅沼さんとの放課後デートのご予定はどうされましたのですか」
×にたがりは柔らかな笑みを浮べている。ふにっと頬に人差し指が突き付けられている感覚。彼岸には今日が和樹とのデートを約束した日だとは伝えていないはずなのだが、一体何処でどのようにして知ったのだろうかと檸檬は首を捻った。数秒間視線を宙に彷徨わせて、すぐに簡単な結論に達する。何の事はない。きっと和樹自身が彼岸に言ったのだろう。いつもの妙な律儀さを発揮して、彼岸に悪いとでも思ったのかも知れない。待ち合わせ場所は彼岸と別れることになる駅だ。気にする必要はなさそうなのに。
「放課後でーと、ね」
「浅沼さん、ひどく楽しみにしていらっしゃるご様子でしたわ」
頬から人差し指の感覚が消える。和樹が今日のデートをひどく楽しみにしている様子で彼岸に謝っている光景は簡単に想像がついた。輝く双眸、興奮するとすぐに赤くなる頬。どれも檸檬が所持しえない表現方法である。まあだからこそ、彼との恋愛ごっこの申し込みを受け入れたわけなのだが。
「彼岸は檸檬を理解出来ませんわ」
胸に下がったスカーフの裾を彼岸は両方纏めてきゅっと握り締める。
「情愛はそこの浅い器に入れられた中毒性の高い甘い水みたいなものでしょう。無限にあると信じて啜り上げ続ければいつか搾取しきってしまう。空っぽに餓え乾くのはこの上ない地獄ですわ。だからこそ人は繋がりを、情愛を何時だって貪欲に求めるしかない。けれど檸檬はちがうでしょう」
穏やかにこちらを見つめていた彼岸の眼差しに、×にたがりらしい暗い影が過ぎる。何を混ぜて出来るかはわからない、しかし確実に良くないものであることはわかる影だ。それでも檸檬は眉一つ動かさない。彼岸は愉しそうに笑った。
「ほら、檸檬にはこの毒薬が必要ない。彼岸とは違ってこの甘い水が存在しなくとも生きていける数少ない選ばれし人間なのですわ。それ故理解できませんの。どうして、どうして檸檬は必要ないものをわざわざ手に入れようとするのですか」
くつくつと彼岸は喉を鳴らしている。どうやら×にたがりのスイッチを入れてしまったらしく、普段以上の情緒の危うさが滲み出し始めてしまっているようだ。
――ああ、拙いな。
檸檬はぼんやり考えた。鋏もカッターナイフも未だ未だ彼岸の手が届く範囲にあるのだ。何の弾みで自傷をし始めるかわかったものではない。別に彼岸が腕を切ろうと足に傷口を付けようと、檸檬には痛くも痒くも心動かされすらしないのだが、友達としての建前上止めるべきなのだろうなと判断する。
彼岸の瞳の焦点は合っていない。
「彼岸は欠落人間がすこぶる羨ましいのですわ。彼岸自身は誰かに寄生しないと生きていかれませんから。何故生きているのか価値もわからない屑ですから」
檸檬のことを欠落人間と称したのは灯璃が始まりだが、よくもまあこんなに広まったものだなと感心する。言い得て妙だ。情愛というものが著しく欠落している檸檬というこの存在。情愛を解せないこの身体。皆が思い違いをしている点をあえて挙げるとするのならば、それは、情愛がただ欠落しているわけではなく、その欠落の代わりに恐怖が人一倍詰め込まれているということだろうか。感情がないわけではないのだ。その証拠に、一人でも恐らく生きていけるだろう自分は、普通の人が持っている友達を欲しがった。恋人を欲しがった。普通から逸脱している異常だと他人にばれるのは途轍もなく恐ろしかったからだ。
ばれたらきっと自分は。
漠然とした恐怖からくる不安の中に身を浸していると、周りの音はどうしても遠いものになってしまう。彼岸が呼びかけている声に檸檬が気付いたのは暫らく経った後だった。
「檸檬、檸檬」
視線を遠くから近くへと戻すと、彼岸が心配そうな顔をしてこちらをじっと見つめていた。長い睫毛に縁取られた色素の薄い瞳。舐めたらきっとビー玉のような味がするのだろうなとふと思った。
「どうしたの」
「そろそろ電車の時間ですわ。駅へ向かいましょう」
「ああもう、そんな時間なんだ」
鞄の方へ手を伸ばしかけた格好で部室の壁掛け時計を見やると、なるほど確かにそろそろ良い時間だった。正反対の方向へ帰っていく二人の電車の時間が丁度合うあたりである。
もう、和樹は待っているだろうか。
何が嬉しいのかわからない笑顔でいつもいる彼氏を、檸檬は脳裏に思い浮かべた。先に部屋を出て行く彼岸の背に続く。ぽつんと呟かれた独り言が耳に入ってきた。
「彼岸はどうして今日も呼吸しているのかしら」
この話が少しでも多くの目に触れることを祈って