Calling
浮気物を書きます、と活動報告で宣言してから何ヶ月経ったのか、思い出せないほどです。
最初は勢いでぶわぁっと書けたのですが、最後、思いっきりはしょったのがお分かりになると思われます。本当に申し訳ないことですが、とりあえず形だけはきちんと完成させておこうと思いましたので…。
作の巧拙については保証致しかねますので、それでも大丈夫という方はどうぞ!
「…同じので」
言いつつグラスをバーテンの方へ押しやる。
バーテンは女の顔を見て、頷いてグラスを持ち去った。先程と同じ琥珀色をした酒が注がれる。
お礼を言って、再びその女はグラスに口をつけた。
その相貌は美しく、ほんのり頬が上気しているように見える。スラリとしたスラックスがその華奢な足によく似合っていた。酔いもあるせいか、その一挙一動は妙に色っぽい。長い睫毛に縁取られた瞳は軽く伏せられて、注意深く覗き込めば深い憂慮の煙がたゆたっているのが見て取れた。
彼女がついた溜め息は瞬く間にバー特有の瀟洒な雰囲気に飲み込まれた。
彼女────上野紗織は三十一歳。四年前、今の夫である上野光一と二年間の職場恋愛の末に結婚した。去年三十路に入り、どこにでもいる、仲睦まじい夫婦となっていくはずだった。───のだが。
結婚して、幸せの絶頂を迎えるであろうセックス。
彼らにはそれが訪れなかった。結婚前からそこはかとなく感じてはいたが、互いに口に出すことはなかった。夫の心情を感知することはできなかったが、紗織は彼を心から愛していた。セックスは駄目でも結婚してくれるのは光一が自分を愛してくれているからだ、と信じていた。セックスで満足させてあげられない申し訳なさが彼とのセックスレスを許していた。あの日までは。
それはここ半年前の出来事だった。
紗織は洗濯物をしまいに夫婦のウォークインクローゼットに入っていた。
光一のワイシャツも綺麗に洗濯し、ハンガーに吊してかける。その時、ふとした弾みに手をスーツが吊してあるハンガーに引っ掛けてしまい、背広を落としてしまった。その瞬間何か違和感を感じたがその正体が分からないまま紗織は慌ててスーツを拾い上げた。癖がついてしまっては困る。と。
床にメモ用紙が落ちているのを彼女は発見した。
入ってきたときにはなかったから、スーツから落ちたものだろう。彼女はそれを拾い、何気なくそれを裏返した。次の瞬間、彼女は頭を金鎚で殴られたような衝撃を受けた。
“先に帰ります。今日はとても楽しかったです、ありがとう 美優”
呆然としてうまく頭が働かなかった。
美優という人は誰?夫と何をして楽しんだの。先に帰りますって、いつ?心に疑惑が黒い翼を広げた気がした。
すぐにでも夫に連絡して事の是非を問いただしたかったが、紗織は踏みとどまった。自らが深読みしすぎている可能性もある。証拠もまだこれだけだ。
いや、違う。
紗織は衝動的に掛け直したスーツを鼻に近づけた。
その瞬間鼻腔に侵入する、甘い香り。もちろん、紗織のものではなかった。先程の違和感はどうやらこれだったらしい。スーツを落とした際にそれが孕んだ風が匂いをつけていたからだった。
職場で女性と近くの席になる、というのは理解できるが果たしてそれだけでスーツに香水の匂いが残るだろうか。何か強く密着でもしなければこんなにはっきりとは残らないだろう。例えば抱きしめあうとか。
しかもそれを継続していれば。
彼女の疑惑の翼はさらに広がった。その翼は彼女の心に「浮気」という影を落としたのだった。
その夜、夫が帰ってきても紗織は何も言わなかった。いや、言い出せなかったというほうが合っているだろうか。あのメモ用紙は同じようにしてスーツのポケットへ戻した。彼は、何も気づかないはずだ。
気づかないまま、あの美優という女と逢瀬を重ねるのだろう。紗織は初め衝撃を受け、憤りはしたものの、これも結局自分の責任だと感じるようになった。元はと言えば夫の方が私に対する不満をぶちまける権利はある。それに対して私はいつも光一を満足させてあげられていない。
セックスレスだとしても愛情があれば仲良く暮らしていけるというのは間違いだった。少なくとも紗織と光一の間では。でも紗織にとってはそれがひどく悲しいのだった。
それから紗織は昼間、スーツのポケットを確認するようになっていた。最初のあれからはメモ用紙が入っていることもなかった。夫は自分で迂闊だったと思ったのかもしれない。それでも香水の匂いは変わらず、薄くもなっていなかったので、定期的に会っているであろうことが予想された。
夫に浮気されてもなお、紗織は彼のことを大切に思っていた。光一にとっては、この家はただ寝泊まりするだけの変哲のないものかもしれない。それでも彼がここにいる間は光一は紗織のものだった。それが同じ家屋の中で生活するだけのことだとしても。
そう、彼女は自分に言い聞かせ続けた。
それでも日数が経つにつれ精神的ダメージは彼女の心を徐々に蝕んでいった。家に一人でいるときにはぼんやりと壁を眺めることが多くなった。光一はきちんと生活代を彼女に渡していってくれるし、その中には彼女のお小遣いも入っている。浮気が分かる前にはよく一人で買い物を楽しんでいたものだが、最近はそれすら億劫になってしまっていた。
そういえば、と彼女は社会人だったときのことを思い出した。あの時は隣に光一がいてくれるのがとにかく嬉しくて、社内で送る視線だったり悪戯っぽく笑いあったことが何かいけないことをしているかのようで毎日がわくわくした。
デートに近づくとたまらなくそわそわして。
それでも、夜の営みの相性は悪かった。そこまで思い出して彼女は整った顔立ちを歪ませた。過去をなぞっても結局辿り着くのはこれなのだ。どんなに幸せだったとしても捏造でもしない限り現在は変えられない。こんなことをしても詮無きことだ。
これと同じことを誰かが言ったことを紗織は覚えていた。誰だっただろうか…。昔の記憶を掘り返して彼女はある場所を思い出した。一人になりたい時には必ずと言っていいほど通っていたバーだ。新宿にあるバーで一度通りかかっただけでは分からない、隠れ家のような場所にあり、友達から紹介され行ってみたものの、迷った記憶がある。
だからこそ客も常連が多く、最初は肩身が狭かった。それでも何年か通ううちに彼女も常連化し、そこのバーテンとも親しくなった。詳しい話の内容は忘れたが彼女は言われた言葉を心に留めておいていた。しかし結婚してからはバーに行く暇も余裕もなく、疎遠になっているままだったのだ。
彼女は現在吉祥寺に住んでいるため、新宿へは電車で約十分。陽も暮れてきたし、今日は夫から遅くなると連絡が入っている。懐かしのバーテンに会いに行くついでにお酒で心地よく酔っ払ってこよう。
そう思い立ち、外出用に服を選び、薄すぎない化粧をして家を出た。そして、今に至るというわけだ。
アルコールが全身に回り、とにかく心地よい。
通っていたときから数年経っているため酒量も減ったかと思いきやそんなこともなかった。
とにかく、今日は酔うのだ。夫のことなんか今くらい忘れて、強い酒をどんどん流し入れて。
酔っ払った私を見れば少しは光一も心配してくれるかもしれない。そんな、浅はかな願いも込められていた。
「同じのもう一杯」
この台詞が何度目かはもう忘れたが、少なくとも十は越しているはずだ。チラリとバーテンが視線を寄越す。「これ以上は危ない」と警告された気がしたが、紗織が微笑んで首を振ればバーテンはまだ余裕があると感じたのか同じものを作り目の前へ置いた。
それを更に数回繰り返し、紗織はまたグラスを追いやろうとした──その時。
「水を」
不意に横合いから声が入った。
バーまで来て水を注文するとは考えられない。何事かと左を見れば、見知らぬ男が心配そうな目で彼女を見つめていた。
「何か?」
アルコール混じりの溜め息をつきながら紗織は投げやりな声で言った。
「お酒はほどほどになさった方が」
礼儀正しいようなきちんとした声が私の耳に届いた。そこでバーテンが水の入ったグラスを男の前に置けば、彼はそれをずいっと私の前に勧めた。
「飲んでください」
紗織は酔いもあったせいか、少々きつい目で目の前の男を睨むようにした。顔立ちは凛々しい。紗織よりも若い印象を受けるが、紗織自身童顔と言われてきたのでよくは分からない。きちっとしたグレーのスーツを着ていて、しかし緩められたネクタイは彼がこの場所で気を許している証のように思えた。
「私は水を飲みに来たわけじゃないですから」
そう否定すれば、彼はさらに真面目な口調で続けた。
「でもそんなにテキーラを飲めば酔っ払って帰れなくなりますよ」
なぜこの人、私の頼んだものを知っているの?
それが伝わったのか、彼は苦笑して照れたような顔で紗織に言った。
「あなたみたいな綺麗な人がカウンターでテキーラばかり注文していれば自然と人の目も集まると思いますけど。全身から色っぽい雰囲気が出ているのに溜め息はとても重いんですよ。話しかけたくてもできない」
「でもあなたは話しかけてるじゃないですか」
「そう。このまま飲み続ければあなた倒れて帰れないままですよ。だったら誰かが止めた方がいいでしょう。バーテンも止める機会を逸してたみたいだし」
そう言えば、バーテンは陳謝をこめてその男に頭を軽く下げた。
「別に私がいくら飲もうとあなたに関係ないわ。自分でセーブすることくらいできる」
いつの間にか敬語をつけるのを忘れていた。
「そのセーブを超えようとしてたのが今のあなたでしょう」
言い当てられて、紗織は押し黙った。
同時にどうしようもなく惨めな思いが彼女の心に溢れる。夫に浮気されて辛くて逃げようとしてそれすらも許されないの?どうしてこんな初対面の人に酒量に口出しされないといけないの。
私、今日悪いことなんて何もしてないのに。
何も。それなのにどうして邪魔をするのよ。
「もう、放っておいてよ…」
安定した声で言い放とうとしたのに、出たのは情けない掠れた声だけだった。それがまた紗織を惨めにさせる。
「辛いことから逃げるのはいけないこと?ずっと文句も言わずに我慢してきて、その鬱憤晴らしにお酒を飲んじゃいけないの?今日くらい酔っ払って忘れたいのよ。放っておいて。放っておいてよ…」
涙が一筋、頬を伝う。
私、なんでこんな見知らぬ相手に涙なんか見せなくちゃいけないの。恥ずかしい。そう思いそばにあるペーパーと取って素早く目に当てる。でなければメイクが落ちてさらにひどい有様になってしまう。
男は慌てた様子を見せたが、すぐに立ち直って
「ごめんなさい。泣かせるつもりはありませんでした」と謝った。
「でも心配なんです。僕で良かったら話、聞きますから。だから今日はお酒はやめて水にしてください」
半分以上、懇願口調だった。
本当は紗織も分かってはいた。ただ飲むだけでは忘れられないのは。それでも何かに依存しなければ心が壊れそうだった。彼にそう諭されて、彼女は押さえていたペーパーをそっと外した。
「…ごめんなさい。私もきついこと言ってしまって」そう言い、目の前に置かれた水を飲む。
冷たい水が、私の正気を呼び覚ますようだった。
それが気持ちよくて水をがぶりと飲んだ。アルコールとはまた違う爽快感だ。
それを見て彼は安心したようだった。遠慮がちに、私に話しかけてきた。
「…僕で良かったら、話、聞きますけど…」
紗織はちらりと彼を見やった。誠実そうな瞳の傍ら、その中に何やら無視できないものが存在しているような気がした。
つまらない話だと思うけど、と彼女は前置きをしてから話し始めた。
一通り話し終えて紗織は息をついた。左隣のこの男に全て吐き出したおかげで心の負担は多少なりとも軽くなったように感じられた。男は眉を顰めていた。彼女の夫の非人道的な行為に嫌悪感を示したのだろうか。
「うん、まあ、こんなところ」
そう呟いて自嘲ぎみに微笑めば、男ははっとした表情を浮かべる。彼女の顔をまじまじと見つめた後、首を横に振った。
「ひどい人ですね」
「でも、元はといえば私が悪いから」
「体の相性が合う合わないは誰にでも起こりうることだし、それを理由に別の人を作るのは違うと思います」
「それもそうだと思うけど。それって要は体の相性が悪くても好きなら浮気はしないってことでしょ。私の夫はそれを犯してるのよ。つまり私のことはもう好いてくれてないのよ、多分」
今までも幾度となく彼が浮気する理由を考えて、必ずこの答えに行き着いた。いちいち悲しいと感じることもなくなったから、声に出すのも辛くない。
無機質な声だった。
沈黙が流れる。店内に響くジャズが心地よかった。
返事が途切れたのにふと隣を見て紗織はどきりとした。
彼の視線が強く紗織に注がれていたのだ。それは彼女へのいたわりなどではなく、あたかも誘っているかのように熱いものだった。それに触発されるかのように紗織の瞳も熱を帯び始める。男がぽつりと呟いた。
「あなたの夫は愚かだ」
いつの間にか敬語ではなくなっていた。
「こんなにもきれいな人が愛してくれてるのに、浮気だなんて」
「俺なら、絶対にそんなことしないのに」
その瞳に苦悩が現れている気がして、紗織は落ち着かなくなった。自分の代わりに彼が苦しんでいる、そんな想像をして。
男は紗織と目線を合わせて、そっと同じことを囁いた。
「俺なら、そんなことしない」
彼の手が紗織のそれに優しく、ゆっくりと重ねられた。彼女の手もそれを受け入れる。
彼の目はそれ以上に何かを訴えていた。紗織も、薄々ではあるがそれを認知していた。知りながら、彼の手を拒否しなかった。
紗織の心が手から伝わってくる彼の暖かさに浸されていく。それは思考を直に鈍くさせて、彼女を痺れさせていく。鈍く、鈍く。
いや、それでも。
心のどこかで小さく、だが力強く自分の声が囁いた。
紗織はもう片方の手で男の手を外した。そうすることで浸っていた熱も痺れも取れたようだった。瞳にはどこか諦めにも似たものが漂う。
「その気持ちは嬉しい。でもあなたにそんなことさせられない。私もそれに付き合えるだけの余裕はないみたい」
しっかりと目を見据えて言えば、男は残念そうに笑う。
「…そうですか」
言葉は敬語に戻っていた。男は席を立つ。
紗織へ手を差し伸べる。
「そろそろ帰りましょうか?途中までなら手を貸しますよ」
水も飲んだし、自力で帰れる。
そう伝えようとして立ち上がれば体がぐらりと傾く。男は紗織の腕を掴んだ。
「ほら。飲みすぎですよ」
紗織は彼を軽く睨むようにして、マスターに会計を求めた。
彼女の歩き方は自身の予想に反して頼りない。
男の言う通り、手のみならず肩まで貸してもらっている始末である。名前も知らない人間にそんなことをしてもらうのは気が引けたが、実際彼の補助がないとまともに歩けないのは否めない。
そうか、名前すら知らないのだ。私に手を重ねて「自分は浮気をしない」と告げたこの男は。
「…ねえ」
「はい?」
「名前、なんていうの?」
「…朝倉です」
「そっか、朝倉さんっていうんだ」
「あなたは?」
「…紗織。上野紗織」
そう答えれば朝倉は、
「きれいな名前だ」
と言って照れたように笑った。
信号待ちをしながらそんな話をしていると、向こうの歩道で同じく信号待ちをしている人混みの中に見知った顔を見つけて、彼女の顔は一気に青ざめた。
目ざとくそれに気づいた朝倉はどうしたんですか、と尋ねる。
次の瞬間、紗織は酔っていたとは思えない足取りで彼の腕を引っ掴んで今来た道を戻り始めた。
実際、彼女の酔いはこの瞬間冷めていた。
なぜなら、あの人混みの中に夫と同じ顔を見つけてしまったからだ。そして彼に腕を絡ませる女の姿も、彼女は同時に捉えていた。
小道に入り、信号を渡ってくる二人を窺う。
朝倉も紗織が見ている二人が分かっているのか、彼女の反応を見守っていた。
…やはり、そうだ。
人の多い新宿の道路を歩く夫は家にいるとよりもずっと笑う頻度が高かった。その笑顔のなんと幸せほうなことか。紗織は愕然とした。浮気相手とはいえ、あんな表情をするくらい、夫は隣の女に気を許しているの。浮気の徹底的瞬間を見てしまったことで、紗織の足元が再び崩れ落ちていくような気がした。
「朝倉さん…」
絞り出した声は激しく震えていた。
「どこか。どこかに連れて行って…。もう、見たくないわ」
朝倉は紗織を凝視した。紗織は頬に涙を流していた。気丈に振る舞っているように見えたものの、やはりその傷は深いようだ。朝倉は思わず紗織を抱きしめた。ふわり、と香水の香がした。朝倉もバーでまるっきり飲んでいなかったわけではない。彼もまた、酔っていたのかもしれなかった。彼は紗織の涙と美しさと色気にこの時既にほだされていた。こんな清らかな人を捨てるとはやはり愚かだ───と朝倉は紗織の夫を心中で罵った。あなたが捨てるなら、自分が拾う。彼女に決して、寂しい思いなどさせない。
抱きしめられた紗織は震えた。
視界の中から、夫と女が消えた。辛くて、悲しくて、悔しくて目に涙が溢れる。朝倉の身体に紗織はしがみつくようにする。そんな彼女を朝倉はあやすように背中を優しく叩いていた。
そのまま、数分が経った。抱き締めているから表情は分からないが、鼻を啜る音はしなくなった。
少し落ち着いたか、と思う辺りで問いかけてみる。
「どこに行きたいですか」
「どこか…どこか、泊まれる場所がいいわ。今日は家に帰りたくない」
彼女の声はどこかまだ不安定で、完全にはこの衝撃から立ち直れていないことが窺えた。
「分かりました。でも、辛いと思いますけど、旦那さんに連絡は入れて下さい。友達の家に泊まるでも、口実は何でもいいから」
そう諭せば、彼女は頷いた。携帯を繰っているのを確認し、朝倉は安堵した。
「適当なホテルを探しますから、待ってて下さいね」
そう告げて、朝倉も携帯で泊まれるところを探し始めた。
「良かった、空いてて」
ほっとしたように朝倉は言った。
こんな夜遅くからホテルを探して空室が見つかるのかと不安だったが、運良くそれが見つかったので、そこにしたのである。
二人は今、その部屋の中にいた。紗織はベッドに腰掛け、辺りを見回している。朝倉は、その近くに立っていた。まさかラブホテルに決定するわけにもいかず、きちんとした誰でも泊まれるようなビジネスホテルよりは内装のきれいな場所にできた。
「ありがとう、こんなきれいなところ」
そう紗織が感謝すると、朝倉はポケットからおもむろに携帯を取り出し、彼女の前で振って見せた。
首を傾げる彼女に、朝倉は穏やかな声で提案した。
「そのお礼といってはあれですけど…。良かったら、連絡先、交換しません?」
「え?」
「また辛くなったら、あのバーで僕にぶちまけて下さい。自分でよければ、話を聞くくらいならできます」
紗織は瞠目した。なぜ、彼はこんなにも自分に気を遣ってくれるのだろう。人の愚痴を聞くだなんて、相手が友達でもなければ面倒くさいだけなはずなのに。それとも、まだ別に何か目的でもあるのだろうか?先ほど、店で口説かれた時のような。そう考えても紗織は嫌悪感を感じなかった。だってあの時、自分は彼を半分以上受け入れていた。自制心が働き、彼にやめるよう告げたが、もし彼に無理やり迫られれば自制心はあっという間に敗北してしまうのかもしれない。
「いいですよ」
そう答えれば、彼はぱっと顔を明るくした。
その様子を見るだけで彼女も嬉しくなる。
とりあえずメールアドレスと電話番号だけ交換すれば、彼は嬉しそうに携帯を見つめている。
紗織も、連絡先を交換してびっくりしていた。フルネームは「朝倉深月」。何と彼は紗織の四歳年下だったのだ。
「じゃあ、僕はもう帰りますね」
くるりと背を向けて、そう言われる。
「え、帰るの?」
思わず口を突いて出てしまった。次の瞬間、紗織は口を押さえた。これじゃまるで、誘ってるみたいだ。純粋に疑問に感じただけなのだが、この状況の中でそれはまるっきりそういう風に取られてしまっても仕方ない。朝倉は振り向いた。目をぱちぱちと瞬かせる。
「あ、その、いや…」
必死に弁解を試みるが、うまく言葉にならない。
そんな様子を見て朝倉はくすりと笑った。
「出て行ってほしくない?」
「へ、いや、あの…っ」
朝倉は紗織のもとへ近寄り、耳に口を近づける。
「大丈夫、最初から出てく気ないから」
「…はっ?」
思わず顔を朝倉の方へ向けてしまう。至近距離に顔があって、その近さに頬が熱くなる。
朝倉の手が後ろに回される。そのまま優しい手付きで紗織の髪を梳き始めた。
「どういう反応するかなって、言ってみただけ。こんな可愛い人置いて、帰れるわけないでしょ」
その囁きはひどく甘く聞こえて、彼女は心が疼いていくのを感じる。「可愛い」だなんて言われるのは久しぶりで何だかくすぐったい。
朝倉は再び、両腕で紗織を抱き締める。髪を梳く手はまだ止まらない。彼女自身の甘い香りに混じって、仄かに酒の匂いがする。それは朝倉を惑わすには充分だった。
「俺がこんなに親切にしてるのは、あなたに惚れたからだよ。好きじゃなかったら、こんなことしない」
「……」
「旦那さんじゃなくて、俺を選んで。そうすれば、たくさん幸せにしてあげられる。あなたの旦那さんへの未練も断ち切ってみせる」
何か言わなければ。そう思っているのに、紗織は縛られたように声が出せない。
「あなたが好きなんです。あなたが、他の人のものだなんて考えられない。全て、自分のものにしたいくらいなのに」
次々と紡がれていく愛の旋律に心が溶かされていく。紗織は目を閉じる。この人の溢れる気持ちを、受け止めてよいものか。それをすれば私も、夫と同じになる。浮気をする女になってしまう。
それでも。浮気をしてでも、今私は、誰かから愛されることが、必要なのかもしれない。愛されることで、心の均衡を保とうとしているのかもしれない。
彼を利用することになるのだろうか。いや、彼の言葉で胸が疼き、欲しいと願ってしまった心は彼を利用するだなんてことは、きっとない。
朝倉の瞳を覗き込みながら、紗織はそっと彼の名を呼んだ。
「深月、さん…」
深月の目が驚きに見開かれる。そして彼も相手の名を呼ぶ。
「紗織さん…」
深月はこの気持ちが彼女に届いたことを知った。
信じられないが、心は深い喜びに震えていた。
「紗織さん…」
もう一度、名前を呼んで首筋にキスを落とす。
ぴくり、と紗織は反応したが、それだけだった。
何回も首にキスをした。この状況が本物かどうか、一回ずつ、確かめるように。紗織の息遣いが徐々に速まるのを感じた。それがさらに深月を興奮させる。首から唇を離し、彼女に口づける。紗織はうっとりと目を閉じた。心が急いて唇を貪る。彼女もそれにおずおずとではあるが、応えてくれていた。
もっと、もっと欲しい。深月の唇はその欲求に忠実に答えた。その舌で紗織の口を開かせるようにし、中へ入れた。彼女の体温が直に伝わる。歯を表から裏までなぞり、最後に彼女の舌を絡め取る。彼女が苦しいのか、小さく喘いだ。それでも深月は止まらず、彼女の舌の感触をたっぷり感じた。彼女もだんだん積極的になってきて、自分の唇で深月の下唇をついばむ。さらに再び舌を絡ませ合う。あまりの気持ちよさに紗織は全身の力が抜けていた。今は完全に深月へ預けている状態だ。その深月がキスを止めたかと思うと紗織の身体を軽く押した。もちろんのこと、その身体は羽根よりも軽くふわりとベッドに沈みこむ。深月は彼女の身体を覆うようにして、再度深い口づけを始める。
「深月さん…」
喘ぎながら相手の名を呼べば、彼は紗織を見た。その瞳には、彼女に対する欲情が色濃く現れている。自分も今、こんな目で相手を見つめているのだろうか。
「ごめん…。苦しかった?」
「ううん。…気持ちよかった」
「もう、止まれない。あなたを、全て自分のものにしたい」
そう告げられた紗織は相手を見つめた。
しかし彼女は少し怯えていた。夫とのセックスレスを自分のせいだと思っていた彼女は彼とのそれでまた、同じことになってしまわないか不安だったのだ。
「私…もしあなたを満足させてあげられなかったら」
「俺がセックスが良くないからってあなたを嫌いになるとでも思ってるの?馬鹿なこと言わない。それに…」
と深月は言葉を切った。笑みを浮かべる。それはバーで見せていたものとは違って、色気のあるものだった。
「こんなにキスが気持ち良くて、セックスが気持ち良くないわけないだろ?」
次の日の夜、紗織はお風呂に浸かりながら昨夜のことを思い出していた。湯の中で自然と身体が丸まってしまう。そんな自分に恥ずかしくなって、顔を半分沈める。
深月とのセックスは最高だった。今までの体験全てと比較しても。あんなに激しく求め合ったのは初めてで。雷光のように身体を貫いた快感は今思い出しても紗織の奥を熱くさせる。
一方で、やってしまったという自覚もある。いくらあの時酔っていたとしても(しかし昨夜は冷静だったと思う)、ストレスを打ち明けただけの男と関係を持つのはやってはいけないことだったのではないだろうか。でも、あの気持ちよさと引き換えならばこの罪悪感は安いものだと心の内の自分が叫ぶ。
セックスレスによる不満が一気に満たされたことで紗織は安心しているのかもしれなかった。
一夜を明かしたあと、二人は「また会おう」と言って別れたのだが、自分から連絡する勇気は、出なかった。相手からすぐ連絡が来れば自分に本気であることが知れるだろう。そうでない場合は、一夜のお遊び。自分から連絡して拒絶されるのは嫌だった。しかし相手からそれを受けたのなら、紗織は拒否できないことを誰よりも知っていた。
そして三日後。昼間、テレビを見ているときにそれは起こった。
紗織は自分の携帯が震える音を聞いて、どきりとした。たかが三日、されど三日。紗織は彼から連絡が来るのを密かに心待ちにしていた。彼であるかは分からないけれど、昼間にかけてくるあたり、何となく深月である気がした。携帯の表示を見れば、「朝倉深月」。紗織は躊躇なく携帯を手に取り、耳に当てた。
「…紗織さん?」
耳に流れ込んでくる声はあの日と同じもの。
「深月さん」
そう返せば、深月はほっとしたように笑う。
「良かった。もしかして遊ばれてただけなんじゃないかって、あの後思ってて」
どうやら考えていたことは同じらしい。確かに夫の浮気を話す女はそう思われても不自然ではない。考えようには誘ってるとしか思われないかも。それでも紗織はそんなつもりで打ち明けたのではないし、もっと言えば迫ってきたのは確実に深月だろう。
そう打ち明ければ、そうなんだけど、と返ってきた。
「いや、大人の余裕でそれすらも受け入れてたとか」
「ありえない。私に限って、それはない」
否定する紗織に、深月は笑った。
「だよね。変な勘ぐりしてた」
「…それで?」
「…今度会わない?」
やはり来たか、と妙な緊張を覚える。
「いつ?」
いつ、と答える時点で会う事自体には了承してしまっていることに気づく。
「今すぐにとは言わない。紗織さんにも紗織さんの生活があると思うし、ベストタイミングって時に知らせてほしい。何というか、今じゃなくてもいいと思ったんだけど、連絡しないで変な誤解させるのもどうかと思って…」
どうやら彼なりに考えてくれた連絡らしい。
たどたどしく言葉を紡ぐ深月に、思わず紗織は笑い声を漏らしてしまった。
あの夜の彼と、随分ギャップがあった。
「夜の顔とは、けっこう差があるのね?」
笑いを湛えたままそう言えば、低い声が彼女の耳に届く。
「俺をからかってるの?」
「そうかも」
「次会ったら真っ先にベッドに連れ込みそう」
その声にひどく反応してしまう自分は、よほどの重症だ。
「それでも、構わないわ」
気づけば、大胆な発言をしていた。
内心、焦ってしまう。いや、それでも本気に構わないのかもしれないけど。
「…そうしたいとこだけど、遠慮しとく。俺はあなたに惚れたのであって、最終的な目的は肉体関係を持つことじゃない。いや、それもあるけど、俺はあなたの心が欲しい」
「欲しい…って?」
「言葉通り。俺を好きになって」
不意打ちの直球に紗織は言葉を返せない。
「急にそう言われても無理でしょ?だからデートを重ねて、俺を知ってほしい。それでもし合わないと思ったなら、もう会わないって約束する」
彼の声色はとても真面目で、どれだけ紗織に本気かを示しているかのようだった。
「…分かった。会うわ。来週の土日、夫が会社の人達と温泉に一泊してくるの。その日なら…」
運良く、とも言えないがたまたま夫が家を空ける日があった。
「土日って…。まさか、泊まるつもり?」
深月がそう楽しげに呟く。紗織は、はっとした。
「土曜日」とさえ言っておけば日帰りデートの意になるだろうが、土日と言ってしまっては完全にお泊まりの意味である。深月を求める自らが露見したように感じ、恥ずかしくなる。
「ち…っ、違う!土曜日!」
弁解してみても、彼は素知らぬ振りだ。
「そんなに泊まりたいの?」
「違う!」
「そう否定されると逆に辛いけどね」
さらりと言われて、対応に困る。
「どっちよ!」
つっこめば、深月はふ、と笑う。
「ごめんごめん。最初から泊まるつもりだったよ、俺も」
というかあなたに会って何もしないで帰すのは生殺し。
そう言われた紗織は赤面して何も言えなくなってしまった。相手は年下なのに、いいようにからかわれてしまっている。
まあとにかく、と深月が続ける。
「来週の土日ね。待ち合わせは…アレクシリアホテルのロビーでいいかな?」
アレクシリアホテルと言えば、お偉い方々や有名人がプライベートで使用するホテル、とのイメージがある。一般人には敷居が高すぎる場所、なのだけれど。ラフな格好はしていけないな、と苦笑しながら紗織は言った。
「分かった。時間は?」
「10時」
「了解。じゃあ、また」
そう告げれば、少し名残惜しそうな彼の声が返ってきた。
「早く会いたい。またね」
電話が切れた。次に会う約束を取り付けてしまった。一回会っただけなのに、深月の声を思い出せば出すほど気持ちが逸るのはなぜ。心がこんなに穏やかなのは何故なの。
一流ホテルのロビーなら、服装もそれなりに選ばなければいけない。それも彼の計略なのかなと思いつつ、クローゼットへ向かう紗織の唇は嬉しげに弧を描いていた。
初めて出会ってから、早半年。
紗織は未だ深月との逢瀬を重ねている。
大抵、一月に二、三回のペースだ。
多いと五回以上になることもある。
深月の存在は月日を経るほどに大きくなり、紗織にとっては無くてはならないものになっていた。
お互いに愛を求め、与えあう。
世間から見れば非人道的だと罵られる関係かもしれない。それでも一度得てしまって心の安らぎはそう簡単に手放せるものではなかった。
平日の昼間。リビングでテーブルに肘をついて頬を預けるその姿はどこか気怠げにも見える。午前中の家事を終えた後の専業主婦によく見られる光景かもしれない。
携帯が震えた。携帯は彼との関係を保つ上で必要不可欠のものになっていた。最初のデートの時からずっと。
画面に表示される名前を見て紗織は口元を綻ばせた。それは履歴画面いっぱいに埋められている名前だ。携帯を手に取り、耳へ持って行く。流れ出る声は彼女の心に安寧をもたらす唯一のものだ。
「紗織?」
「うん?」
「今大丈夫?」
彼は関係を始めた半年前から変わらず、電話での第一声は詩織の周囲を確かめるものだ。彼女がリビングに一人でいたとしても、関係なくなっている。
「うん」
「今度いつ会える?」
ああ、また、彼に会える。早く、早く会いたい。
自分の中を愛情と快感で満たしてほしい。
飽きるくらいに。
「───今からでも」
どうでしたでしょうか?
なんというか最後は詩織の視点からのみ、話が進んでいて、深月からのものが書けずに反省しています…。それでもこの二人はきちんと愛し合ってます。詩織が軽く深月に依存しかけてますが、深月もとても彼女を愛しています。
最後の補足ということで、伝えさせていただきました。
それでは、長ったらしいにも関わらず、ご一読下さった皆様、本当に本当にありがとうございました!!