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太郎の夢

桃が夜中に目を覚ますと、部屋の隅にボーっと小さな人影が見えた。

「誰?」

人影は懐かしそうに桃をみた。

「太郎ちゃん?」

桃は自信がなかったがそういった。

人影はうなずくと言った。

「約束を実行してくれない?」

約束?

桃は最初何のことか理解できなかった。

太郎とどういう約束をしたっけ?

太郎が小さい時桃の家に来たときのことをいろいろ考えてみる。

なかなか思い出せなかったが、ふと最後の日に太郎とある約束をしたことを思い出した。

「もしかしてあのこと?」

桃は太郎の人影に聞いた。

太郎の人影は小さくうなずくとそのまま消えてしまった。


次郎が小学4年になる春休み、家族で沖縄旅行に行った。病弱な太郎が南十字星を見たいと言ったからである。

小さかった次郎には、太郎の病気も、南十字星も全然理解できなかった。

ただ、沖縄に飛行機で行くということではしゃいだ。

次郎は学校の友達に、飛行機に乗ることを自慢した。同級生も、飛行機に興味を示し、飛行機は乗り物の中で一番安全だとか、経験していないのに、いかに快適な乗りものであるか得々と説明し、みんなで大いに盛り上がった。

家族の、どちらかというと悲痛な面持ちの中で、次郎だけが一人で喜んで沖縄に向かった。


飛行機は次郎の予想とは違う乗り物だった。思っていたより狭く、当時は窓の日よけがおろされ外が見られず、圧迫感があった。

また、空調がうるさかった。太郎は気圧を調整するためだといったが、何のために気圧を調整するのか理解できず不安になった。

風が強く、搭乗している最中から翼が揺れ、飛行機が壊れないか不安になった。

なかなか出発せず、狭いところで長く待たされた。

いざ、出発というときになって、飛行機が急に加速し始めた。それは、思っていた以上で、座席に体が押し付けられ、自由が失われた。

ごとごと車輪がなり、機体ががたがたゆれ始め、今にも分解するのではないかと思われた。

横をみると、両親は空ろな目をしているし、その先に座っている乗客は観念したように目をつぶっていた。

これは何かまずいと感じた瞬間である。機体がぐっと上の方に持ち上げられ、車輪の音がなくなると同時に、機体が右に大きく傾いた。

予想もしない展開であった。飛行機というのは上に向かってまっすぐ進むものだと思っていた。次郎にはどうしても上空に向かっているより、落下しているようにしか感じられなかった。

思わず次郎は、「お兄ちゃん」と言った。

次郎の気持ちを察したのか、太郎は黙って微笑み、大丈夫だといって次郎を安心させた。

太郎の言う通り、幸い飛行機は墜落せず、そのままあっという間に旋回を終えると雲の上に出た。スチュワーデスがひさしを開けてよいとアナウンスをし、次郎はようやくその雲を見ることができた。


その件があって以来、次郎は大の飛行機嫌いになった。勝手におおきな期待をもちすぎたために、その反動も大きかった。

一人、はしゃいでいた次郎が急におとなしくなったものだから、次郎の家はまるでお葬式に行くような感じになった。


太郎は星が好きだった。

雑誌の付録についていた簡単な望遠鏡で、太郎は飽きもせず、月を見ていた。

次郎も見せてもらったが、月のぼつぼつが見えるだけで、一回見れば充分だった。

もともと体の弱い太郎は、本を読んでばかりいて、学者肌だった。

太郎は、おれは天文学者になるから、次郎は宇宙飛行士になって、宇宙を調べてこい、とよく言った。

勉強より外で遊ぶことが好きな次郎は、その話に乗った。

よし、おれは宇宙飛行士になると宣言し、外にいっては、ろくでもない石ころを拾ってきて、今回の回収物はこれであります、などといって太郎に渡した。太郎はその石を捨てもせず、大事に箱にしまった。

太郎が病弱になるにつれ、両親の思いは太郎のほうに向かっていった。

両親が次郎に何かをしてくれたという記憶はあまりない。冷静に考えてみれば、食事を与え、学校に行かせてくれたのだから何もしない、ということはなかった。しかし、子供にしてみれば、もっと直接的なものが欲しかった。何を決めるにも、まず太郎の意向が優先され、物を買うにも常に太郎に新しいものが与えられた。一時は自分が健康であることをひがんだ。病弱であれば、太郎と同じように扱ってもらえると思った。


ある日、父親の幸一がすごい天体望遠鏡を買ってきた。そのときは本当に学者用の望遠鏡ではないかと思った。

雑誌の付録の望遠鏡とは比較にならなかった。学校にもこんなすごい望遠鏡はなかった。望遠鏡の一つ一つの部品が鉄製で、大きく重たかった。

非常にメカニックで望遠鏡というより、何か特殊な機械と言ったほうが良かった。

幸一はそのとき、給料三か月分の望遠鏡を買ったのである。

雑誌の付録の望遠鏡が、月に向かってのぞくのに対して、この望遠鏡はどういうわけか筒の横から見るようになっていた。

そのこと自体が、この望遠鏡を高級なものに感じさせた。

学校の友達に自慢すべく、望遠鏡を色々調べようとしたところ、幸一からさわるんじゃないと、非情な言葉を浴びせられた。

幸一は言い訳がましく、この望遠鏡は重たいから危ない、危ないから近寄るなと言った。

しかし、小学4年生でも訳はすぐわかった。

高価だから、下手に触られ壊されてはたまらないのである。

付録の望遠鏡は最初組み立てればそれでおしまいだが、この望遠鏡はそうはいかなかった。付録の望遠鏡なら家の適当な窓から外を探せばすぐ月は見えたが、この望遠鏡は図体がでかいので、窓から外を見ることが出来ない。従って観測するためには庭に出す必要がある。家の中で組み立ても、重すぎてそのまま外に出せない。観測するにはその都度、庭で組み立てる必要がある。また、観測が終わったら夜露や雨にさらすわけにも行かないので,又,分解して家の中にしまうしかない。


これには幸一も困ってしまった。

太郎は小学6年生で病弱。組み立てるには力不足だった。

次郎は病弱ではなかったがちびで、背が届かなかった。第一壊す可能性がある。

幸一はいつも帰りが遅く、帰ってからでは夜中近くになってしまう。

そこで、幸一は、望遠鏡を組み立てたまま収納できる物置小屋を組み立てた。

その物置は非常にこっていて、屋根だけが開閉できるようになっていた。

片方を蝶つがいで止め、片方は鍵で止められるようになっている。

あけるときはその鍵をはずし、屋根を持ち上げれば望遠鏡の上1/3くらいが出るようになる。屋根の蝶つがいのほうにはバランス用の重りがつけられ、屋根をあけるときに、小さな力でも開けられるようになっていた。


新しい望遠鏡を買ってしばらくの間、次郎もいろいろなものを見せてもらった。

月はぼつぼつが大きくなっただけで面白くなかった。

よく見ればクレーターの見え方が全然違うので観測の楽しさが大きくなるのだが、次郎はそこまでの興味がなかったので、単純にそう感じた。

星雲といわれるものは写真と違ってぼやっとしているだけで、全然面白くなかった。

唯一、土星と木星がきれいだった。

雑誌の付録でみる土星や木星は、豆粒のように小さく、ぼやっと見えるだけだった。

しかし、この望遠鏡で見ると、同じ豆粒の大きさでも、くっきり見え、まるで宇宙にポカッと浮いているように見える。立体的に見えてくる。倍率を大きくすると土星のカッシニの隙間が見えたが、次郎はそのポカッとした感覚がすきで、わざと倍率を低くして見た。

まるで宇宙にいるみたいだった。宇宙から土星や木星を見ている気分だった。俺は宇宙飛行士になるとそのとき固く決意した。


しかし、太郎のお気に入りは雑誌の付録の望遠鏡だった。幸一をがっかりさせたくなくて、太郎は庭の望遠鏡を時々見ていたが、幸一がいないと、太郎は付録の望遠鏡で、飽きもせず月を見ていた。確かに手軽さにおいては付録の望遠鏡の方がまさっている。

幸一も次郎も、もしかすると太郎もおおきな勘違いをしていたのかもしれない。

太郎は天文学者でも、星好きでもなく、ただのロマンティストだったのかもしれない。

月を見ていても、月を見ることが目的ではなく、月を見ながら色々空想することが目的だったのかも知れない。

しかし、そのときは誰も気がついていなかった。


太郎は南十字星が見たいといい始めた。

その理由や目的はほかの人にはわからなかった。ただ、幸一にとっては太郎がそれを見たいというだけで十分な理由になった。

日本で南十字星を見るには沖縄に行かなければならない。

そこで沖縄旅行になったのである。


沖縄には知人の紹介で、民宿にとまった。

そこの民宿には桃ちゃんという次郎と同い年の女の子と竹ちゃんという2歳年下の男の子がいた。

次郎は竹ちゃんと早速仲良しになった。

次郎は竹ちゃんのような弟分が欲しかった。竹ちゃんは年下だから、次郎は思いっきり兄貴づらが出来た。優秀な兄を持った次郎が始めて持てた優越感だった。

一方竹ちゃんにしてみれば、兄貴のような存在が欲しかったに違いない。両者の思惑が一致し、二人は意気投合した。

次郎は太郎や家族の都合を考えずに、竹ちゃんと遊びまわった。


南十字星が見えたのか、見えなかったのか、次郎にはわからない。

もともと南半球でないと見えない星座だから、沖縄でも地平線ぎりぎりにしか見えない。

いくら沖縄の空気がきれいでも、条件が余程よくないと見えないはずである。

太郎は桃ちゃんと二人で、よく、海辺を散歩していた。

竹ちゃんと遊びから帰ってくると、迎えに行くよう家族に言われ、次郎は竹ちゃんと二人で太郎を海岸まで迎えに行った。

太郎はぼんやり薄暗くなった地平線を見ていた。

そして、その後ろで桃ちゃんがだまって同じ方向を見ている。

雑誌の付録の望遠鏡で月を見ている姿と同じだった。


あとから考えてみると、太郎にとって南十字星はどうでも良かったに違いない。

病弱な太郎にとっては、何か目的が必要だった。

多分、死期をすでに悟っていた太郎は、人生の将来に目的をもてずに、目先に目的をもたざるを得なかった。

それがたまたま南十字星だった。

「見える?」

と次郎が聞くと、

「多分、あれ」

といって太郎は地平線をさした。

白鳥座のような、おおきな十字を想像していた次郎には、なかなか十字の紋章が捕まえられなかった。

南十字星は一部しか見えなかったせいか、太郎の指差す方向にある星は、いかにも貧弱な星の固まりだった。

寒くなると白鳥座が見えてきて、太郎は懐中電灯を星空に映してこれが白鳥座と説明してくれた。白鳥座の十字は圧倒的な大きさと美しさを誇っていた。まったく素人の次郎でも、その偉大さは圧倒されるものがあった。

しかし、今は懐中電灯もなく、圧倒的な大きさを誇る十字もなかった。

なにか、期待はずれな結果に、太郎が落ち込んでないか、戸惑ってしまった。太郎はそれでも満足なようで、竹ちゃんが帰ろうよと言うまで、じっと地平線を見ていた。


一週間ほどその民宿に世話になり、次郎たちは東京に帰った。

帰る前の晩だった。

例によって太郎と桃ちゃんが二人で地平線を見ていて、次郎と竹ちゃんで二人を迎えに行った。

「次郎、おまえ、桃ちゃんと結婚しろ」

太郎は突然次郎に向かってそういった。

みんなびっくりして、太郎の顔を見上げた。

一番状況のわかっていない竹ちゃんが真っ先に賛成した。

「それがいい。次郎ちゃん。お姉ちゃんと結婚しなよ。」

次郎が桃ちゃんと結婚すれば、次郎が竹ちゃんの親戚になることだけはわかったみたいで、竹ちゃんは真っ先に賛成した。

次郎はなんて言って良いかわからなかった。

4年生の小学生が結婚という言葉からわかることといったら、一緒に暮らすことくらいで、それ以上、結婚の意味することは理解できなかった。

それともうひとつ、結婚とは好きな人同士がするということじゃないか?

桃ちゃんは確かにかわいいし、気持ちのいい子である。しかし、沖縄に来て、朝から晩まで竹ちゃんと一緒に過ごし、桃ちゃんとは、まともに話したことすらなかった。そんな相手と結婚しろとは、一体、太郎は何を考えているのだろう。

もし、太郎が桃ちゃんを好きなら、自分で結婚すればいいのになぜ、次郎に押し付けるのだろうか?

次郎が黙って下を向いていると、桃ちゃんが突然ボソッと言った。

「いいよ」

またまた、次郎はびっくりして桃ちゃんの顔を見上げた。でも肝心の桃ちゃんは次郎ではなく、太郎を見ていた。

次郎たちが迎えに来るまでに、話はまとまっていたかのように、二人は目を合わせて笑っていた。

「二人とも幸せになれよ」

太郎はそういったが、次郎ははめられたのかと思った。

「みんなには内緒よ」

桃ちゃんは竹ちゃんに半分怖い顔で言った。

竹ちゃんは様子が飲み込めず、桃ちゃんの勢いに押されてそのままうなずいた。

この約束は4人だけの秘密となった。


東京に戻ると、新たな目標を見出せない太郎はどんどん衰弱していった。

次郎と太郎は同じ子供部屋に寝ていた。

次郎は夜9時には寝るが、太郎は10過ぎまでおきていて、寝る前に必ずお手洗いに行く。

そのお手洗いに行く足音が日に日に弱まっていくのがわかった。

9時に寝床に入って、すぐに寝入ってしまうのだが、太郎の体が弱くなるにつれ、太郎がお手洗いに行く時必ず目がさめるようになった。

みんなを起こさないように、そっとお手洗いに向かう。しかし、体が思うように動かないので、むしろ不自然に足音は大きく家の中に反響した。

その不自然な音を聞くたびに、次郎は怖くなった。いくら、小さい次郎でも事の重大さが次第にわかってきた。

このままでは太郎は死んでしまう。

どうしよう、何とかならないのだろうか。

でも、両親が太郎の病気のことを知っているのはあたりまえだし、その両親が手をうてないことは、どうしようもないことだ。

何回となく両親に太郎の病気のことを聞こうとした。

しかし、両親に聞いてもどうしようもないことはわかるし、また、聞くことが両親を余計追い詰めることだということも、小さいながら次郎にはわかっていた。

そういう閉塞状態で、毎晩次郎は太郎の足音に目を覚まし、その足音に恐怖を感じ、心を震わせていた。


しばらくすると、太郎は完全に寝たきりの状態になり、入院した。


母、知子は太郎と一緒に病院に行き、四六時中、ずっと看護をした。

従って家には幸一と次郎の二人が残された。

買い物や洗濯は主に幸一がした。

食事は出来合いのものを幸一が買いだめし、夜はほとんど次郎一人でそれを食べた。

掃除は次郎の担当だったが、掃除機をかけるのが関の山で、家は埃がそこらじゅうに溜まっていった。どうしようもない状態になると、仕方なく、幸一が時々掃除を手伝ってくれた。

休みの日は太郎の病院に幸一と見舞いに行った。

太郎は目を動かすのも難儀な状態になっていった。最初は次郎たちが行くと、目を向けて笑ってくれたが、その内に目も向けなくなった。

来たのがわからないのか、わかっていても、目を向けられないのか、あるいは関心がないのかわかりかね、次郎は太郎に声をかけられなかった。

幸一はそういう状態でも太郎の顔に近づき、挨拶をし、そのあとに次郎に挨拶をするよう指示した。

そういうときの太郎の表情は無表情だった。

無表情な太郎の顔を見ることは、次郎には苦痛だった。

気持ちがどんどん遠くなっていった。

太郎はまだ生きていて、目の前にいるのに兄弟らしい会話も出来なかった。

知子も幸一も何かしら動いていた。知子は幸一や次郎の為にお茶を入れ、幸一は持ってきた花をいけるために花瓶に水などを入れていた。

次郎だけが何もすることがなく、ただ太郎の無表情な顔を見ていた。


しばらくいたあと、お別れを言って家に帰る。病院から帰る時に、もう一度振り返ると知子は相変わらず、何かの整理をしていた。


沖縄から帰って半年たって、太郎は亡くなった。

学校の先生や太郎の同級生が葬式に来た。女の子の中には泣く子もいた。

同じ小学校でも知らない人たちが涙しているのを見て、次郎は不思議な気がした。太郎にも次郎の知らない世界があるのだなと、妙な関心をする。

学校の先生や同級生達もみんな、両親には挨拶するが、次郎のことは気がついていないのか一言も言わず、通り過ぎた。

太郎は悲劇の主人公だったが、次郎は悲劇の主人公の弟にもなれなかった。


太郎が亡くなって、家の中から一切の笑いが消えた。

もともと厳格な知子は、テレビで裸の場面が出るとチャンネルを切り替えたが、それからはテレビでお笑いの画面が出ると、テレビ自体を切ってしまった。

そんなこともあり、次郎の家では次第にテレビを見なくなった。テレビに関して同級生と話をあわせることが出来なくなった。

笑いが無くなると家族の会話は事務的になり、この家には感情があるのか疑問に思えた。

テレビを見る習慣が消え、少しは勉強に身が入るかと思ったが、何もする気が起きず、だらだらと小説ばかり読んでいた。

本の好きな太郎のおかげで、小説は山ほどあった。太郎がいるときは興味が全然なかったのに、太郎がいなくなると、どういうわけかそれらの本が急に読みたくなった。

試験の前日になっても勉強もせず、本ばかり読んでいた。

そういう、しまりのない生活が始まって、しばらくした後、知子が新しい自転車を買った。

知子は買い物をするのにいつも自転車を使っていたが、病院通いをしている間に、自転車が完全にさびてしまった。

知子は修理するより買ったほうが安いからと誰に説明するでもなく、言い訳がましく言った。

幸一も次郎も知子が自転車を買おうが買うまいが関係なかったし、理由に興味を持っていたわけではなかった。

ただ、自転車を買った日は暑くて、夜遅くまで、窓を開け放し、家の中のドアを開け放しにしていた。

次郎は相変わらず、小説を読んでいた。

気がつくと、からからいう音が聞こえてきた。

すぐにそれが知子のこいでいる自転車の音だとわかった。

スタンドを持ち上げ、後輪を宙に浮かし、ペダルをこいでいる音だ。

厳格な知子がそんなことをするのは意外だった。

自転車を買ってもらって、うれしくて仕方ない少女のように、夜そっと自転車をこぐ知子が気になった。

自転車を買ったことがそんなにうれしかったのだろうか。

あの歳で、自転車くらいでうれしくて夜一人自転車をこぐだろうか。

いや、いつも笑わない厳格な知子の、心の奥は実は少女のような気持ちが残っているのだろうか。

それとも、今のこの状態から、気分転換にどこかすてきな高原にでも出かけることを夢見たのだろうか。

あるいは太郎が生きているときに家族で自転車をこいでいたときを思い出していたのだろうか。

感情のない家庭を一番重荷に感じているのは、実は知子だったのだろうか。

静かな夜に時々、思い出したように自転車のからからする音がしばらく続き、次郎は本を読むことを忘れ、その音に聞き入った。


大学生になって、次郎はひとり旅を始めた。

日本はどこに行っても、景色は同じで、旅の目的はいつのまにか、どこかに行くことから、人との出会いになっていた。

一人旅だと車中や旅行先で色々な人と友達になれる。

また、一人旅が多かったので、そういう連中とも旅をした。

一晩一緒に過ごすと長年の友達になったような気になる。

コンビニでバイトを始めたのもその旅の資金を稼ぐためだった。

一人旅だと好きに行動できる。


広島の原爆記念館に行った時である。

春先に行ったので見学客には学生の集団が多かった。

彼らはかわいそうとか、気持ち悪いとか、怖いとかいろいろの感想を言い合っていた。

うるさいな、と思いながら写真の数々を見ていた時である。

その集団が途切れ、気づいてみれば次郎はまわりには誰もいなくなった。

一人でその写真と対峙していた。

あっと思った瞬間、それらの写真が次郎を襲った。

今まで気持ちが半分学生たちにいっていたものが、全ての神経をその写真たちに掴まれてしまった。

半ば金縛りにあったような状態になり、その写真から訴えてくるものに押し倒されてしまった。

悲しみ、恐怖、孤独、絶望

それらの感情が写真から一気に次郎の心に流れ込み、しばらく次郎はその場を動くことができなかった。

不思議な感覚だった。

一人で見るということがこれほど孤独な作業とは思わなかった。

仲間と写真を見ても、多分こういう感覚には陥らなかっただろう。

仲間の方に注意が半分言った分、写真から受ける印象も半減してしまう。

しかし、たったひとりでみるとすべての感情をその写真から受け取ってしまう。

写真、音楽、映画を本当に鑑賞するのは一人じゃなければいけないと次郎は思った。


旅をして、帰ってみると家に見知らぬ女の人がいた。

次郎はいつ帰るとも、連絡していなかったから、知子は買い物に出かけていたらしい。家にはその人しかいなかった。

「次郎ちゃん?」

その人は次郎を見るなり、そういった。

赤の他人に、しかも、自分とたいして年の違わない若い女の人にそう言われて次郎はたじろいだ。

「桃よ、桃よ」

桃という名前を聞いて、すぐに彼女が誰か思い出した。

太郎と沖縄に行った時の民宿の女の子だ。

しかし、何でという思いも同時に湧く。

次郎も驚いたが、彼女も驚いていた。

だいぶ次郎の格好が、想像していたのと違っていたようだった。

次郎は小さい時はちびだったが、中学生くらいから急に背が伸び始めた。ちびのイメージしかない桃には全然予想できなかったに違いない。

知子は桃ちゃんの家には毎年年賀状を送っていた。沖縄のことは知子にも一生の思い出になったらしい。

あそこに太郎と行ったことの事実を消さないために毎年出しているといったら、言い過ぎかもしれないが、もう行かないかもしれない沖縄の人に、毎年出して、先方が迷惑しないか心配だった。


「お久しぶり」

そういって彼女はにこっとした。

その笑顔は、底抜けに屈託のない笑顔だった。

「どうしたの」

ようやく次郎はそう聞いた。

「ちょっとね」

訳のわからない返事を彼女はした。

「とにかく入って」

桃はそう言った。

自分の家に、赤の他人から入ってといわれ、次郎は違和感を持ったが、それに従った。

自分の部屋に入り、荷物を置いて普段着に着替えると、居間に戻った。

すでに、勝手知ったわが家という感じで桃ちゃんはお茶を入れてくれた。

「どうしたの桃ちゃん」

同じことを次郎は聞いた。

東京に就職口でも見つけたのか、用があってたまたま遊びに着たのか、いずれにしろ、そんなことだろうと思って、質問した。

「うん、次郎君と結婚しようと思って」

彼女は突然そんなことを言い出した。

「結婚?」

オウム返しにいった。

「そう、結婚」

彼女はうなずいた。しかし、次郎が唖然として黙っていると補足した。

「だって、約束したじゃない」

いつ約束した?

次郎は心の中で自問した。

そんな記憶はきれいに消えていた。

「やだな、帰る前の晩にみんなで約束したじゃない。」

みんなといわれ、かすかに記憶がよみがえった。そうだ。そういえば最後の晩に、みんなでそういう話をしたような気がする。

でも、何年前の話だ?

桃ちゃん自身が次郎の顔を見てすぐにわからなかったように、次郎も桃ちゃんを見たとき、全然わからなかった。

大人になって姿形まで変わったのに、子供のときの約束だけが生きているなんて、そんな非常識なことを本気で言っているのだろうか。

理解しがたく、次郎はいつきたのとか、さしさわりのない話をはじめ,時間を稼いだ。

しばらくし、知子が買え物から帰ってくると、知子は説明をする代わりに、自分の部屋に連れて行き、一通の手紙を渡した。

それは沖縄でお世話になった民宿の方、つまり桃ちゃんのご両親からのものだった。

「ご無沙汰しております。

毎年年賀状を頂き、ありがとうございます。

ところで、突然のことですが、お願いがございます。

娘の桃がそちらにお伺いしたいと急に言い出しております。数日そちらで面倒を見ていただけないでしょうか。

桃は次郎さんとの約束を果たしにそちらへ向かうということです。小さいときに次郎さんと結婚の約束をしたというのですが、私どもには状況がつかめません。本人に確認したところ、次郎さんと電話や手紙でのお付き合いはなく、娘の一方的な思い込みのようです。

突然小さいときの約束を果たしに行くというのは正気の沙汰ではありません。

私どもが引き止めなければならないのは重々承知しておりますが、桃は一回言い出すと聞かない子でして、どうにも説得できません。

次郎君の気持ちを確認し、次郎君がいやだといったらすぐに帰るように、それだけは約束させましたので、何卒、桃の勝手なお願いを引き受けていただけますよう、お願い申し上げます。

次郎さんには迷惑をおかけします。その場でもちろん追い返してもかまいません。

ただ、出来ればよく話を聞いていただければ幸いです。」


その手紙を読むと多少状況が飲み込めてきたが、それでも常識はずれな彼女の行動は理解できなかった。

彼女はおととい着ており、すでに二晩止まっているという。

幸一はしばらく泊めるように知子に言っており、知子も桃ちゃんの気持ちがはっきりするまで置いておくつもりだといった。

「良く二人で話してね。」

知子はそういった。

「何を話すんだよ」

次郎はびっくりして聞いた。まさか、結婚の日取りとかそんなことを話せというのではないだろう。

「ばかね。相手を傷つけないよう、良く話して帰しなさい。」

そう言われても、人を説得するのは苦手だった。

口は達者ではなかった。

いつも言いくるめられる方だった。

第一なんていえばいい。

約束を果たしに着たとか、結婚しましょうとか、とんでもなく、考えが飛んでいる相手に何を話せというのだ。

次郎が桃ちゃんを説得することなど不可能なことなのに、なぜ、次郎の両親はそれをやらせようするのだろう。


その晩久しぶりにみんなで食事をした。

幸一は沖縄の話をなつかしそうに話した。

桃ちゃんも笑顔でそれに答えた。

幸一は桃ちゃんが気に入ったらしく、機嫌が良かった。知子は幸一ほどすべてを受け入れがたく、笑うといっても愛想笑いだった。

「次郎、あした東京見物でもつれていったらどうだ」

突然幸一はそういった。

「え、東京見物?どこ連れて行けばいいの」

灯台元暗しで、東京のことはさっぱりわからなかった。

第一スカイツリーなんて上ったことがない。

上野の動物園も行ったことがない。

東京に住んでいても、東京のことは何も知らなかった。

「あの、もし良かったら映画につれていってくれません?」

次郎が困っていると、桃ちゃんはそういった。

聞けば見たい映画が、有楽町の映画館で上演しているとのことだった。

「そうだな、有楽町はわかりづらいからつれていってやれ」

幸一がそう言った。

勘弁して欲しかった。

有楽町なんていったこともない。わかりづらいところなら、方向音痴の次郎だって迷ってしまう。

東京の人間が迷ってはしゃれにならない。

「おやじ、そんなにわかりづらいなら、自分でつれていってくれよ」

次郎は心の中でそういった。

「ごめんね。次郎ちゃん」

桃ちゃんはそういうと、また、にこっと笑った。

「ちっとも悪いと思っていないじゃないか」

そう心の中で反論し、次郎は言った。

「うん、いいよ」


結局、そういうことで彼女と映画を見に行くことになった。

映画はごく普通のラブストーリーなのだが、不覚にも次郎はその映画を見て泣いてしまった。

桃ちゃんも泣きながら次郎の顔を見て笑った。


映画の感動が二人の心を何か一つにした。映画の感動は共有されると、桃ちゃんに急に連帯感を感じるようになる。

映画を連れて行くことがいやでたまらなかったのが、映画館を出るときには次には何を見に行こうか一生懸命考えている始末だった。

二人はすっかり意気投合し、レストランに入った。

入ってしばらくは映画の感想で盛り上がった。

その映画で出た男優の作品は初めてだったが、桃ちゃんは何本か見ており、そのいくつかの作品を紹介してくれた。

次郎もすっかりその男優のファンになった。気がついてみると、あるき方、表情の仕方を真似ていた。その男優はがっちりした体格だから、線の細い次郎がしぐさを真似たらおかしなことになっているに違いなかった。

しかし、そんなことおかまいなしだった。

一段落して話が切れた。

次郎はやはりあのことを話さなければと思った。

「桃ちゃん、本当に結婚しに来たの?」

「うん、なんで?」

彼女はまた、にこっとして笑った。

なんでっていいたいのは次郎のほうだった。

「だって、付き合ってないのに急に結婚って言うのはおかしいよ。」

「でも、みんなで約束したじゃない」

確かにあの夜4人で約束した。でも、小学生の何もわかってないときの約束じゃないか。

「あの時は、なんとなく約束したけど、もうだいぶ時間がたっているし、第一小学生だったから」

「でも、なんで約束を守るのがおかしいの。小学生の約束は守らなくてもいいの。時間がたてば守らなくてもいいの」

「え!」

次郎は心のなかでそう叫んだ。

確かにいっていることは間違ってないけど大人からそういう言葉が出てくるとは思ってもみなかった。

桃ちゃんはあのときのままである。まるで小学生からちっとも成長してない。

「桃ちゃんのいうことは間違ってないけど、時間がたてばいろいろ変わるから、約束を実行できないこともあるよ。」

「例えば?」

「例えば、、、、」

そういって次郎は言葉をつまらせた。

頭の回転はいい方ではなかったから、気の利いた言葉がでてこない。

「他に好きな人でも出来たの?」

桃ちゃんは鋭く突っ込んできた。

「いや、別に」

話が変な方向にずれそうだった。

「ねえ、次郎ちゃんの家って何か暗くない?」

急に桃ちゃんは言った。

確かに暗いことはわかっている。太郎が死んでからあの家で腹のそこから笑ったことはない。

しかし、それを桃ちゃんに言われたくなかった。

「それは多分、次郎ちゃんが幸せじゃないからよ」

「何それ?」

次郎は思わず聞いた。

次郎は特別自分が不幸だとは思っていない。確かに彼女はいない、変な奴に付きまとわれているが、適当に勉強もしているし、適当に旅行をしてエンジョイしている。ほかの人に比べれば恵まれている。

それに、赤の他人にそういわれるのは、心外である。

「ねえ、二人で幸せになりましょうよ」

「何をいいだすんだ、桃ちゃんは」

次郎は心の中で叫んだ。

せっかく親密になった雰囲気が少しずつ崩れていくのがわかった。

この人の思考にはついていけない。

自分の家の悪さを他人に指摘されるのは不愉快である。しかも、突然来た赤の他人に言われればなおさらである。

その赤の他人はその雰囲気を打破するために、自分と結婚して幸せになりましょうといっている。とても信じられない論理展開である。

どこでどう展開が結びつくのだろう。

答えようもなく黙っていると突然桃ちゃんが話題を変えた。

「ねえ、寅さんの映画みにいかない」

「え、映画ならさっき見たばかりじゃない」

「一日二本見るの疲れる?」

「いや、そうじゃないけど」

感動した映画の余韻をもう少し楽しんでいたかった。

それとせっかく生まれた桃ちゃんとの親密な気持ちもこれ以上壊したくなかった。

実は寅さんは余り好きな映画ではなかった。

映画館で見たことはないが、テレビで放送されたものをみても全然面白くなかった。

知子がいればすぐテレビを切られてしまうが、いない場合でも30分もみれば飽きてしまう。

「ねえ、いきましょ」

次郎の返事も待たず桃ちゃんは立ち上がった。

次郎はますます不愉快になった。

桃ちゃんはマイペース過ぎる。次郎が余り賛同していないというのは、次郎の表情からわかるはずである。

次郎の表情が乏しいとしても、話の流れから普通の人ならわかるはずである。

しかし、桃ちゃんはそんなこと全然気にしなかった。

唯我独尊、独善的、悪く言えば「あほ」である。

でも、ここで彼女とけんかするわけに行かなかった。何せ彼女は次郎の家に泊まっている。

彼女と喧嘩別れしようにも、分かれるわけにいかないのである。

しぶしぶ次郎は寅さんの映画を見に行った。

映画館は渋谷のリバイバル館で上映されていた。次郎たちは有楽町から渋谷に向かった。

最悪なことにその映画館で上映されている奴は、先日次郎がみた全然面白くない寅さんだった。

いや、つまらないはずだった。

テレビで見て、なんでこんなのがシリーズとして続いているのか理解できなかった。

ワンパターンだし、失恋を主題にして趣味がいいとも思えなかった。

そもそも、失恋なら悲しいはずなのに、あまり悲しくなく、何かばからしい。

感動する要素もなく、おかしくもなく、見るに値しない映画のはずである。

ところが、次郎は映画が始まった途端げらげら笑い出してしまった。

映画の中盤に入ると、笑いすぎておなかが痛くなってしまった。

そして、笑う以上に涙も出てきた。

これは笑いすぎて出た涙だし、ほろりとさせられて出た涙でもある。

映画は一人で見るものだという主義は、桃ちゃんで破られてしまった。二人で見るのもいいもんだと思った。しかし、多くの人と見る必要性は感じなかった。

でも、寅さんは多分、二人で見てもこんなにはおかしくないだろう。

みんなに釣られて、次郎は笑った。

次第に次郎は主体的に笑い、次郎の笑いがみんなの笑いを増幅させた。寅さんがこんなにも面白い、すばらしい映画だとは予想もしなかった。

少なくとも寅さんという映画にかんして言えば、大勢で見たほうが良い。

いな、大勢で見ないと充分に楽しめないものがあるということが良くわかった。

よく考えれば、物事には二面性があり、やはり一人で見たほうがよいものもあれば、大勢で見たものがよいものもある。

しかし、そのときはそう考える余裕がなく、なんとなく、自分のポリシーが桃ちゃんのペースで崩されていくような感じを受けていた。


一日の中で感激して涙を流し、笑って涙を流し、久々に充実感を味わって家に帰ってきた。

太郎が死んでから、ここまで楽しい日を過ごしたことがなかった。

結婚したいとは思わなかったが、幸せになりましょうということが、後ろめたさはあるにしろ、魅力を感じ始めていた。

ただ、家に帰った途端、次郎は現実に戻された。

ひとつはこの家では腹のそこから笑ってはいけない、暗黙のルール。

それと、もう一つは、もともと今日出かけたのは彼女とよく話し合うことだった。

話し合うということは桃ちゃんの言っていることが如何に、唐突で無謀で、意味のないことかを理解させ、彼女を沖縄に返すことだった。それを次郎はすっかり自分が楽しむことで忘れてしまった。


「どうでした、映画は」

夕食の用意をして待っていた知子が聞いた。

「はい、本当に今日はいろいろなところに連れて行ってもらって、楽しかったです」

同意を求めるように桃ちゃんは次郎を見た。

次郎が連れて行ったというより、君が勝手にあちこち行きたいと歩き回ったのじゃないかといいたかったが、次郎はそういわなかった。

「うん、まあまあだった」

知子の前ではこれが精一杯だった。

家に帰ってきたのが遅かったせいもあり、平日にもかかわらず、幸一と4人で食事をした。

幸一は桃ちゃんが本当に気に入ってしまって、桃ちゃんの話を真剣に聞いて、我が事のように喜び笑っていた。

知子は笑うのを拒むように、顔をこわばらせていたが、幸一や次郎や桃ちゃんが腹のそこから笑うので、つられて笑い出した。

寅さんの映画のようだった。

その夜は何年ぶりだろう。

本当に家族みたいな雰囲気で夜を過ごすことが出来た。

桃ちゃんは本当に不思議な子だ。

普通、無視されればそれを察してしゃべらないものだ。

意地悪く返事をされれば、頭に来て黙ってしまうものだ。

でも、桃ちゃんはそういうことされても、全く気にしない。

逆になんでと聞いてくる。

そうこられると無視したほうが戸惑ってしまう。

彼女と映画に行ったとき、大なり小なり次郎はそういう態度をとってしまった。それはあまりに彼女が次郎と違う考え方で理解できなかったからだ。

しかし、こうして初めてといってもいいくらい家族のだんらんを得ることができると、桃ちゃんのそういう態度が一概に否定できなかった。


「庭にある小さな小屋はなんですか」

話が一段落して、桃ちゃんが質問した。

知子の顔が一瞬もとの顔に戻った。

「太郎の望遠鏡」

次郎が答えた。

「へえ、太郎ちゃんの望遠鏡。見えるの?」

「ああ、見えるよ」

次郎は知子の視線を多少感じながらもそう答えると立ち上がって望遠鏡のほうへ向かった。

目配せして、ついてこいと桃ちゃんに合図したので、彼女も立ち上がった。

知子は別に嫌がっているわけではなかった。ただ戸惑っていた。こういうときにどういうリアクションを取るべきか。

いや、もう、何もリアクションする必要なんかないんだ、次郎は知子にそういいたかった。


うまい具合に木星が見えていた。

小屋の屋根をあけ、望遠鏡をセットするとそのたびに桃ちゃんはすごい、と歓声を上げた。

ガイド鏡で木星を視野に入れ、赤道儀のスイッチを入れた。ブーンと静かにモーターの音がなり、望遠鏡は木星を追尾し始める。

接眼鏡をのぞくと低倍率にしているせいで、一発で木星は主鏡の視野の中に入った。

次郎のお気に入りの画像だ。

暗い視野の中にひときわ輝いて木星がぽっかり浮かんでいた。

四つの月が木星を包んでいた。

縞も数本小さな木星に見え、さらに大赤斑点が薄く、小さく見えていた。

桃ちゃんにその映像を見せた。

「すごい」

桃ちゃんはごく自然にそういった。

そういわれて、次郎は得意な気分になった。

桃ちゃんとは話が合うかもしれない。

その日初めてそう思った。

桃ちゃんはしばらくそのまま木星を見ていた。よほど気に入ったのだろう。

「こんなきれいな星を見るとなんとなく太郎ちゃんが星を好きになる理由がわかる気がする。」

ぽつっと桃ちゃんは言った。

「違うよ、それはぼくのお気に入りで、兄貴のお気に入りは雑誌の望遠鏡で見る月なんだから」

次郎は夜空の星を見上げながら心の中でそう言った。

懐中電灯を出して星空を照らした。

懐中電灯の光はひとつの筋となって夜空を照らす。

あれがしし座、おとめ座、それとさそり座の心臓、と懐中電灯で夜空を示すのは、夜空が自分のものになったようで気持ちが良かった。

「へえ、次郎ちゃんも詳しいんだね。」

感心したように桃ちゃんは言った。

「ああ、何せぼくは宇宙飛行士になるつもりだったからね。」

そういうと桃ちゃんは真剣な顔で答えた。

「そうなんだ」

あわてて次郎は答えた。

「冗談、冗談、小さいときに太郎が天文学者、ぼくが宇宙飛行士になるって役割を決めたんだ。そのときの話さ」

そう答えると桃ちゃんは、又まじめな顔で次郎を見るといった。

「なればいいじゃない」

そういわれると、また、顔がこわばった。

今さっきは気が合うと思ったが、そういわれるとやはりダメだ、ついていけないと思った。

「そんなに簡単になれないよ。」

宇宙飛行士は桃ちゃんが思っているほど簡単ではない。飛行機のパイロットはかなり優秀な人間がなる。

パイロットというのは操縦だけでなく、航空力学などかなり多方面に渡って勉強しなければならない。ましてや宇宙飛行士などは宇宙の知識とか生理学とかジェット機のパイロットと比較にならないくらい知識を詰め込まなければならない。

万が一、そのような知識を習得するだけの能力と根性を持ち合わせたとしても、運がなければ宇宙船には乗れない。

だけど、そこまで桃ちゃんにいうのは面倒くさかった。

「まあ、機会があったらがんばってみるよ」

あいまいに次郎はそう答えた。

「そう」

桃ちゃんも今度は深く追求しなかった。

「実はね、次郎ちゃんがお医者さんになったんじゃないかと思ってたの」

話は急に別な方向に行った。

「なんで」

次郎は桃ちゃんの質問がわからないわけではなかったが、話を途切れさせないためにわざと聞いた。

「別に理由なんかないけどなんとなくそう思ったの」

テレビみたいに兄貴を病気で失った弟が、病気と戦うために医者になることを、どこか思っていたとしたら、それはやはりテレビの見すぎとしか言いようがない。

本当に最近はみんなテレビの見すぎだと思う。

新聞の読者欄を見ると、何々を見て感動したとか、勇気づけられた、とか書いてあるが、だったら何で世の中もっと生き生きとしてないのか?

単にテレビを見て自己満足しているだけじゃないのか?

テレビのバラエティ番組でタレントが苦労すると自分も苦労した気になり、そのタレントが何かを達成すると自分も達成した気になる。

ドラマでヒロインが失恋すると自分も失恋した気になり、肉親を失うと自分も肉親を失った気になる。

そしてヒロインがそれらを克服すると見ている自分も克服する気になる。

でも、あんたの恋人はあんたの横にいるだろう、あんたの家族は元気でいるだろう。

もっと現実の恋人や肉親を大切にしろ、聴衆者欄をみるとそういいたくなる。

でも、それをいったら我が家がテレビを見ないことの裏返しになるから言わない。

太郎がなくなっても、医者になるという発想が湧かなかった。太郎は自分の手の届かない世界で病気になり、病気と戦い、死んでいった。太郎の死が自分の将来の職業に影響を及ぼすことはなかった。

「桃ちゃんはどうなの。なにになるつもりなの。というか何しに東京にきたの」

質問ばかりされるのはたまらないので、桃ちゃんに質問した。

桃ちゃんは驚いたような顔をしていった。

「何で東京にきたかって、それは次郎ちゃんと結婚するためよ」

当然という顔と、何でそういう質問を今更するのという驚いたような顔をしていった。

そのためにきたというのは知っているのに、話の流れを変えるために質問したのは失敗だった。

今日くらいは楽しい気分を壊さないで、そのまま寝たかったが、いつかは話をしなければならない問題だった。

「桃ちゃん、それは無理だよ。第一ぼくは学生だし」

相手を説得するときは言葉は少ないほうがいい。言い訳がましくいろいろ言うとどれか反論され、結果、全体がおかしくなる。

「大丈夫、私が養ってあげる」

予想もしないパンチだ。なんであんたが養うんだよ。第一俺は両親の世話になっているし、仮にこの家から出てアパート暮らししたとしても、東京でアパート代とか生活費、学費を桃ちゃん一人で稼ぐのは不可能だ。

どういう計算をしているのだろう。

裏のない、いい子というのは今日充分にわかったが、どこか抜けているんじゃないかという不安はぬぐいきれず、今の発言でますますそれは大きくなってしまった。

どう説得していいかわからない。下手なこというと、例えば生活費とか学費が大きすぎて無理だというと、水商売をやると、いいかねなかった。

相手を追い込むというか、相手にとんでもないことを言わせないために、言葉は慎重に選ぶ必要があった。

「両親が許してくれないよ」

次郎の言えたのは、しかし、その言葉だった。わかっていても、出た答えはその程度だった。

もう、桃ちゃんの答えは想像できた。

「大丈夫、私から説得するから」

説得できるかどうかより、そんなこと言い出したら、親から大目玉を食らうのはわかりきっていた。あんた、いったい何説得してきたのよ、って。

「だって、桃ちゃんとは全然付き合いなかったし、急に言われてもその気になれないよ」

そういうふうに、本当のことを最初から言えばよかった。

結婚する気がない。

あったとしても、それは桃ちゃんではない。

へんに相手を傷つけないようにしたので、話が変な方向に行ってしまった。

これで彼女はわかってくれるだろう。

「だって、次郎ちゃんとは小さいときから付き合ってたし、確かに時間は短かったかもしれないけど、今日一日一緒にいて、ちっとも昔とかわってないわ」

昔と変わってないといわれ、一瞬次郎の気持ちは昔に飛んでしまった。

昔と変わってないというけど、昔の事なんか覚えているのだろうか。

昔の桃ちゃんはどうで、今とかわってないのだろうか。

次郎は敵の手中にはまったのかもしれない。

次郎の目が一瞬泳いだのをみのがさず、桃ちゃんはたたみかけてきた。

「人が好きになるのは時間の長さじゃないでしょう。」

その言葉に我に返って、まじまじと桃ちゃんの顔を見た。

確かにいっていることは確かだ。

でも、極端すぎないか?

二人のケースにその言葉は当てはまるのか?

「わかった、もう部屋に入ろう」

時間の無駄だった。桃ちゃんと議論しても相手を説得する自信がなかった。

正論を言ってもだめ。

相手にNOと言わせないような議論を試みたが、次郎の力不足でそれもだめ。

後は、幸一にびしっと理屈抜きで言ってもらうしかない。


部屋に戻ると幸一は、居間でお茶を飲みながら新聞を読んでいた。

「どうだった。」

幸一はそう聞いた。

主語を抜かすな!次郎は心の中で叫んだ。主語を抜かすと桃ちゃんは自分勝手なことを言い出す。幸一は桃ちゃんのことを全然わかってない。

「はい、決りました。」

幸一は目を丸くした。

「え、何が決ったの?」

幸一は天体望遠鏡が、星がどうだったか感想を聞いたに過ぎない。

しかし、桃ちゃんとは別の話をしていた。

「やっぱり、結婚することにしました」

やっぱり、と思った。

次郎が体の冷えるのを心配して、話を打ち切り、家の中に入ろうと反論しなかった。そのことを彼女は了承したととった。

「そう」

幸一はぽつりと言った。

目を丸くしたのは次郎だった。

理屈では彼女を説得できない、ここはびしっと力ずくでも否定してもらわないと困る。

「親父」

次郎は目配せした。

調度そのとき、知子も台所からきた。

「まあ、それもいいんじゃないか」

幸一はお茶をすすりながら言った。

「ちょっとまってください」

知子が慌てていった。

「桃ちゃん、実は実家からお手紙を頂いているの」

お袋は沖縄の実家から手紙がきていることをあかし、暗に桃ちゃんの行動がみんなに心配をかけていることをほのめかした。

「ご心配をおかけしているみたいですが、二人のことは二人でよく相談しましたから」

「おおー」

次郎は思わず心の中で叫んでしまった。

何も相談してないじゃないか。何も決ってないよ。決っていると思っているのは桃ちゃんだけだよ。

「いや、みんな良く聞いてくれ」

幸一が話を元に戻した。

「おれも、桃ちゃんがきたときはびっくりした。急に着たんだから。しかも、結婚するために来たというじゃないか。」

「でも、次郎。付き合ってみたらどうなんだ。」

幸一の話は予想しない方向に向っていた。

「桃ちゃん、はっきり言うと、今は結婚するには早い。桃ちゃんはその気になっているが、次郎にその気は全然ない。」

そうだ、親父そのくらいびしっといわないとだめだ。

桃ちゃんはと思い、彼女を見ると今までになく真剣な表情で幸一を見ていた。

「でも、次郎」

おや、っと思った。なんだ、話の向きが又変わるのか。

「桃ちゃんはいい子だ。付き合ってもいいんじゃないかとお父さんは思う。」

幸一はそこで言葉を切ってしまった。

みんなが次郎の顔を見ている。

次郎が何かいわなければならない。冗談じゃないよ。勘弁してくれ。

「でも、付き合うにしても桃ちゃんは沖縄だからそんなにあえないじゃない」

話をそらそうと次郎は努力した。

「だから次郎、東京で働く」

桃ちゃんは真剣なまなざしで言った。

「でも、アパートはどうするんだよ」

次郎は必死に抵抗した。

「見つけるわ、でも、その間しばらくここに泊めていただけませんか。なんでもしますから」

桃ちゃんも必死に幸一と知子に訴えた。

「お父さんはかまわない。知らない東京に放り出すより、この家にいるほうが安心だろう」

なにいってるんだよ、親父。それじゃ、実質桃ちゃんはこの家の住人、というか俺の嫁さんになるよ。

祈るような気持ちで次郎は知子の顔を見た。

知子は困ったような顔で言った。

「お父さんがそれでいいなら、かまわないけど」

最後の砦が崩れた。

これが太郎の話だったら、絶対お袋は反対するくせに、太郎がなくなってから世の中どうでもいいって感じになっている。

「じゃ、よろしく。次郎君」

そういって桃ちゃんは満面の笑みで握手を求めてきた。

「信じられない」

次郎はそういうと2階の自分の部屋に向った。


しばらくして、桃ちゃんは湯上りの格好で次郎の部屋のドアをノックし、お先にといって、風呂が空いたことを告げた。

風呂上りの桃ちゃんは色っぽかった。

目のやり場に困りながら、次郎はその後風呂に入り、そそくさと出てまた、自分の部屋に戻った。

夜がふけてもなかなか寝付けなかった。

今日はいろいろなことがあった。今日の一日はここ数年の出来事が一度にきたような気がする。

デートなんかまともにしたことがなかった。

それがデート初日でまるでお見合いみたいに今後しばらく付き合うことになってしまった。

無論、次郎は了承していない。

しかし、他の三人はもうすっかりその気である。

桃ちゃんを説得して沖縄に返すはずが、次郎は説得させられて結婚させられるかもしれない。

あまりに急展開で気持ちがついていけなかった。

窓の外を見ると月が上っていた。

月を見るとまだ、太郎のことを思い出す。

太郎は黙ってただ月を見ていた。太郎は何を考えていたのだろう。

好きな人はいたのだろうか。

その人の事を考えたりしたのだろうか。

多分、太郎はロマンティストだからいろんなこと考えていたのだろうな。

月をじっと見ていると、なんとなく心が落ち着いてくる。

満月だと人の顔のように見え、それが穏やかに自分を見ていてくれるように思う。

今日の月は満月に比べると少し欠けているが相変わらず穏やかに次郎を見ていた。

しばらくするとドアをノックする音がした。

誰だろうと開けてみると、そこには桃ちゃんがいた。

「ちょっといい?」

ささやくように言った。

「ああ」

それだけ言うと次郎は桃ちゃんを自分の部屋に入れた。

桃ちゃんは風呂上りのナイトガウンを着たままの格好だった。

「今日は色々ありがとう」

夜中のせいか桃ちゃんは声を落としていった。

次郎はなんとなく夜中に自分の部屋に女性がいるだけで緊張した。

次郎のあそこは不覚にもしっかり立っていた。

それを悟られないよう、椅子に座り何事かと桃ちゃんに聞いた。

「いろいろお世話になったし、無理なこといって申し訳ないと思って。」

そういうと桃ちゃんは部屋の電気を消した。

そして、ナイトガウンを脱ぎ捨てた。

月明かりがさす中で桃ちゃんの裸体が浮かび上がった。

その美しさに驚いた。

月明かりのコントラストに強調されたせいか、胸のふくらみが際立った。

何も隠さず、桃ちゃんはしばらくそのままの形で立っていた。

次郎といえば、美しいと一瞬感じたがそのあとどうしていいかわからず、何もしないで桃ちゃんを眺めていた。

こうなったらやはり男としては、何か行動しなければいけないのだろうか、などと訳もわからず立ち上がると、しびれを切らした桃ちゃんが歩み寄り、二人は立ったままぐっと接近した。

桃ちゃんのいい香りがした。

まいったな、女性経験がない次郎はそう思った。とにかくなんとかしなくちゃ。

桃ちゃんを抱きしめ、口付けをすると、二人は自然とベッドに倒れこんだ。どうしよう、頭が真っ白になった。


桃ちゃんは突然沖縄にいこうと言い出した。

「ねえ、沖縄にいこうよ」

「え、なんで」

「だって、帰ってほしんでしょう」

何を考えているのかわからない。でも、沖縄に帰えるのも悪くはないと思った。

とにかく帰ってしまえば、こちらとしては当初の目的は達するわけである。

沖縄に二人で行って、付き合うにしても今回はそのまま次郎だけ帰れば、桃ちゃんもそう、何回も東京にこられるわけではないだろう。

そのほうがお互い冷却期間が置けていい。

桃ちゃんと付き合う、付き合わないはとにかく時間をかけて考えたほうが良い。

「いいよ」

次郎はそう答えて賛同した。


次の朝、早速次郎は両親に桃ちゃんを沖縄に送ってくると報告した。

「付き合うという話はどうなったんだ」

幸一は驚くと共に心配げに言った。

「結論は急がなくてもいいんじゃない?今回は桃ちゃんも帰るって言うから送ってくるよ。そのほうが、冷却期間も置けていいじゃない。」

幸一は完全に納得しかねていたが、特に反論できる根拠もなく、しぶしぶ了承した。

そう、幸一にしてみれば何で急に桃ちゃんが帰ると言い出したのか、それと、なんで息子がそれを送りにわざわざ沖縄まで行かなければいけないのか納得できなかったに違いない。

一人旅で小遣いを使い果たした次郎は沖縄までの旅費を幸一にせびった。

それも、幸一の戸惑いを大きくした。これが太郎だったら無条件にお金を出すのに、次郎にはそれなりの理由が必要だった。


久しぶりの飛行機だった。

小さいころの思い出がよみがえった。

あの時飛行機嫌いになってから、なんとなく、ジェットコースターみたいな激しいものまで嫌いになってしまった。だから、久々の飛行機は、緊張感をもたらした。

桃ちゃんは沖縄に帰ることになってからむしろ、落ち着いておとなしくなった。

突拍子もないこともいわなくなった。

ごく普通の女の子に戻った感じである。

帰る前に桃ちゃんはお袋と新宿にいき、お土産を買い込んできた。

高層ビルの最上階のレストランにいき、食事をしてきた。

桃ちゃんは高層ビルが風で揺れていることを興奮げに話した。

なれない人は酔ってしまうそうである。

次郎などはその話を聞いているだけでよってしまいそうだった。

地震があったとき、揺れることによってエネルギーを吸収する話は聞いていたが、まさか風で揺れるというのは知らなかった。

そんなところで仕事とか宿泊が出来るのだろうか。

船が揺れるならまだわかるが、あんな高いところで揺れたらとても落ち着いて仕事なんか出来ないんじゃないかと思った。

いくら耐震設計になっているといっても、どんどん高層ビルが建つと共鳴運動が起きて予想もしない振幅運動が発生するかもしれない。そこまでは誰もテストしていないだろう。そんなところに就職する気はない。


飛行機は大型化し、初めて乗ったときと違ってゆったりしていた。

相変わらず、なんでこんな重いものが空を飛ぶのか感覚的に理解できなかったが、大人になったせいか子供のころの恐怖は感じなかった。窓のひさしも離着陸のときは開けておいて良かったので外で何が起きているのか不安を感じることはなかった。それと離着陸の時にフライトシミュレータのように空港が見られ、思わず興奮してしまった。


空港につき、バスに乗りながら景色を見ていると、桃ちゃんが言った。

「家についてもびっくりしないでね」

何を言っているのかわからなかった。

二回目の沖縄といっても、何も覚えていなかった。桃ちゃんの家について何を驚くのだろう。

高速道路でも通って、立退き料で大きな家でも建てたのだろうか。逆にあの家のままでかなり古くなってしまったのだろうか。

いや、みんなふけたから驚くなというのだろうか。

それは次郎でも同じだ。小さいときとはだいぶ変わっている。こちらより向こうの方が驚くだろう。


桃ちゃんの家に着くと、家族総出で出迎えてくれた。最初は驚くこととは、このことかと思った。確かに東京ではこういう迎え方はしない。何か大げさで、驚くと同時に恐縮してしまう。

昔の記憶はよみがえらず、まったく知らない人たちが笑顔で出迎えてくれると、笑顔がこわばってくる。

「どうもお世話になりました」

桃ちゃんのお母さんが申し訳なさそうに次郎の荷物を預かろうとした。

「いえ、その節はこちらこそお世話になりました。」

一応の挨拶をし、次郎はその申し出を断ったが、桃ちゃんが部屋に持っていくからといって再度次郎の荷物を預けるよう促した。

一応、民宿だからいいかなと思い、次郎は自分の荷物をお願いした。

荷物を預けたら、その中に入っているお土産はいつ渡せばいいかなと考えていると、出迎えの中に竹ちゃんがいないのに気がついた。

いくら、様子が変わったとしても、竹ちゃんは次郎より年下である。

そんな若い青年はこの中にはいなかった。

「竹ちゃんは?」

次郎が桃ちゃんに聞くと桃ちゃんは奥の部屋といった。

「行ってみる?」

桃ちゃんがそう聞くので、何のことかまだ良くわからず、ああ、とあいまいな返事をすると桃ちゃんは自分の荷物も玄関において次郎の手を引っ張り、奥の部屋に連れて行った。


部屋を空けると一人の青年がベッドに寝ていた。

「次郎ちゃんよ」

桃ちゃんはそういって次郎を青年に紹介した。

驚くなというのは竹ちゃんの事だった。

異様に青白い顔でその青年は次郎の顔を見た。

一瞬、太郎の顔がダブった。

太郎とまったく同じ様相をしていた。

「どうも」

それをいうのが精一杯だった。

「こんにちは」

竹ちゃんは弱弱しい笑顔で挨拶した。

「あのね、次郎ちゃんと婚約したのよ」

突然桃ちゃんはそういった。

「え、本当」

竹ちゃんは驚いたような、しかし、喜びを隠せない様子で言った。

驚くこととはこのことかと思い直した。

こんな病弱な竹ちゃんは想像していなかったし、その彼の前では、桃ちゃんに反論するわけにはいかなかった。

「まあね」

それが精一杯だった。

確かに驚きの連続で言葉はあまりでなかった

「お茶入れてくるね」

桃ちゃんはそういって部屋を出た。

「沖縄はもう暑いね。」

普通だったら元気?って聞くだろう。しかし見るからに竹ちゃんは元気ではなかった。

とっさに思いついた言葉を言った。

「東京はまだ寒いの」

「暖かくなり始めたというところで、本当の暑さはやはり、梅雨があけないとこないね。」

ふ~んといったまましばらく沈黙が続いた。

突然、竹ちゃんが聞いた。

「本当に結婚するの?」

竹ちゃんだっておかしいことはわかっていた。何年も会っていないのに、数日で結婚まで行くなんてあまりに突拍子もない話だ。無理がある。

でも、竹ちゃんには本当のことを言おうと思った。

「結婚というと、実は僕自身もまだ決心がついていない。でも、付き合ってもいいなとは思っている。それは本当だ。で、なんとなく期が熟せば結婚するかもしれない。でも、結婚することを決め付けないで、とにかくこのことを大切にしたいと思う。」

本当にここ数日のことだが、次郎の心は確実に変わりつつあった。

「僕はむしろ感謝している。こういうことがなければあんなきれいな人と結婚できないかもしれない。竹ちゃんのお姉さんが本当に僕のことを好いているのか、あるいは僕の兄貴のために結婚するのか、あるいは竹ちゃんのために結婚するのかわからないけど、でもあの人が本当にいい人だということはここ数日の付き合いで十分わかったから、この機会を生かしたいと思っている。」

それは次郎の本心だった。自分の両親に反発し、桃ちゃんに反発しながらも、一方でそういう気持ちが芽生えてきたことは否定できなかった。一生に一度の人生だから、運命的な人と一緒になりたいという思いは、完全には消えていなかった。でも、冷静に考えて、その運命的な人と一緒になれても幸せになれるか自信はなかった。臆病というか、打算的というか、次郎は未知の人に対して絶対幸せにする、あるいは幸せになるなんて言い切れる自信がない。桃ちゃんが目の前に現れると、きゅうに現時的な考えに次郎は支配されていった。

竹ちゃんはその話を聞くと満足そうにいった。

「でも、ぼくのこととは関係なく、姉貴は小さいときから私には許婚がいるとは言っていたよ。」

それには返事が困って、ただ苦笑いを返すだけだった。思い込みが激しいのか、恋に恋をしているのか。

それとも、ひょっとして太郎貴との約束をずっと守りつづけているのだろうか。そこまで純粋なのか、あるいは太郎の刷り込みがそこまで強かったのか。


その夜は、桃ちゃんの親戚の人まできて、全員で食事をした。最初はさしさわりのない話をしていたが、酒が進むにつれ、その中の一人が急に仮祝言を上げようといいだした。

次郎がびっくりしていると、親戚の人はそうだそうだと騒ぎ始めた。

桃ちゃんのお母さんが、次郎ちゃんのご両親のこともあるから、そんな勝手なことはできないとその場を何とか押さえようとしたが、お酒の入っている人たちは、何も本当でなくてもよい、形式的でいいと譲らなかった。

そのいいあいが続いて収拾がつかないでいると、なんとなく次郎がなにか言わないと収まりがつかない雰囲気になった。

「私はかまいません。皆さんがご迷惑でなければ上げさせてください。」

次郎の一言でその場は一気に盛り上がり、よし決まった、いいことは早くやろう、明日の午後一で、と話は勝手に進んでいった。


次郎はお酒が飲めなかったので、途中で退席させてもらって、桃ちゃんと二人で久しぶりに海岸のほうに行った。

「ありがとう」

桃ちゃんがそういった。今まであれだけ強引に話を進めたのそんなこと言うのが何かおかしかった。

「桃ちゃんのほうこそいいの?」

次郎は桃ちゃんの本心が知りたかった。

「なんで?」

桃ちゃんは何をいまさらというような顔をした。

「だって、急にきて結婚しようというのはあまりに乱暴だし、君が本当に僕のことを好きだとは、今でも信じられないよ」

桃ちゃんは南十字星を探すように南の夜空を見た。

「じゃあ、なんで私と結婚してもいいと思ったの」

次郎の本心はいいづらかった。桃ちゃん自身に何かを引かれるのは事実だったが、そういう漠然とした気持ちと、次郎にはもっと大きな理由があった。

それは両親のことだった。

桃ちゃんが来て、我が家の雰囲気が一変した。桃ちゃんの枠にはまらない行動とその性格に我が家の凍りついた雰囲気は、崩壊しつつあった。

特に知子のかたくなな気持ちが大きく揺れていた。

幸一はその状態を一番感じ取り、桃ちゃんが今すぐにでも我が家に住むことを望んでいた。

太郎の死以来、心から笑うことのなかった我が家に桃ちゃんは風穴を開けてくれた。

しかし、それが大きな理由だとしたら、それは桃ちゃんに失礼なような気がした。

やはり、結婚するからには相手が好きなことが一番の理由でないといけないと思った。

ただ、好きになれそうな気がした。

ある意味、天真爛漫すぎる性格が、何もかも変えてくれそうで、それに魅力を感じていた。

次郎の人生が変わりそうな気がした。

人はそんな、相手を当てにするようなのは無意味というかもしれない、そんなのましてや、恋ではないというかもしない。

でも、人を好きになると自分自身に自信がわくのも事実だろう。

次郎は桃ちゃんを得て、何かができそうな気がしてきた。

「君のその破天荒なところかな」

まさか君のそのむちゃくちゃな性格とはいえなかったので、難しい言葉を出して煙に巻いた。

「なにそれ」

案の定、桃ちゃんはわからないといった顔をした。

「君こそなんで僕と結婚しようと思ったの」

次郎は話を自分のことからそらすために質問した。

「わからない」

桃ちゃんはそういった。

そりゃないだろうと思った。

こっちは真剣に考えて、結婚にいろいろ理由付けを、ある意味無理やりしているのに、何の理由もなく、結婚するのか。

「竹ちゃんがあういう病気になったのは太郎ちゃんと同じ年だったの。闘病生活はずいぶんたつわ。」

太郎のときは知子が実質一人で看病していたが、多分、竹ちゃんのときは桃ちゃんも苦労したのだろう。

「太郎ちゃんがうちに来たときは次郎のお母さんが、健康って本当に大切ねって言って、本当にそうだとみんな思った。お父さんは世の中、誰かはあういう病気になる人がいる、たまたま太郎ちゃんがそれに当たってしまったのだから、自分たちはむしろ太郎ちゃんに感謝しなければいけないとも言っていた。」

「お父さんやお母さんは人が生きている限り、誰かは病気になり、誰かは交通事故にあわなければいけない。だからそれを太郎ちゃんが引き受けてくれているんだ、っていってた。」

「でも、実際自分の子供がそれを引き受けてしまったときは、そういう穏やかなことは言ってられなかった。」

「竹ちゃんを動揺させないために、本人の前では明るく振舞っていたけど、実際にはなんで竹ちゃんが病気にならなければいけないのか泣いていた。」

「でも、しばらくして落ち着いてくると自分自身でいった言葉を受け入れざるを得ないとわかってくるのね。つまり、誰かが病気にならなければいけないってことを」

「私もお父さんやお母さんと同じ気持ち。最初はなんで竹ちゃんが、っていう気持ちだったけど、その事実は受け止めなければいけないと思った。そして、竹ちゃんが一番喜ぶことは何かって考えたの。」

「そして、得た結論は竹ちゃんに遠慮しないことだと思ったの。竹ちゃんに遠慮することっていうのは、自分が幸せになること。竹ちゃんが不自由だから、最初、自分が幸せになってはいけないことだと思ったけど、それは決して竹ちゃんを幸福にはしないことだって思うの。」

そういわれてみれば、次郎と結婚するという話を聞いたときの竹ちゃんの顔が浮かんできた。

その顔は本当にうれしそうな顔をしていた。そこにはねたみもひがみもなかった。

たとえ自分が不幸であっても、他人が不幸になっても自分は幸福になれない。

竹ちゃんはすでにそれを悟っていたのだろうか。

いや、多分そこまでいっていないだろう。

でも、明るいニュースは竹ちゃんにとっても楽しいのだろう。

「帰ろうか」

十分だと思った。何で突然桃ちゃんが次郎の家に来たのかは依然、なぞだが、それを解明してもあまり意味がないような気がした。


翌日仮祝言が終わると、次郎たちはまた東京に戻った。ゆっくりしていけばといったが、桃ちゃんは帰るといって東京に戻った。


二人で東京に戻ると、幸一は太郎と次郎の部屋を改装してひとつの部屋にした。自宅で実質同棲生活を始め、卒業と同時に二人は正式に結婚した。

竹ちゃんの病気は幸いにも奇跡的に治った。誰もがだめだと思っていただけに、喜びはいっそう大きかった。

竹ちゃんがもう大丈夫とわかったとき、一抹の不安が次郎の心で沸いた。

桃ちゃんが仮に竹ちゃんのために結婚したとしたら、この結婚は意味を失うのではないだろうか。でも、竹ちゃんが健康になっても、結婚生活に変化はなかった。桃ちゃんはあいも変わらず、マイペースでみんなを引きずりまわしていた。

桃ちゃんが我が家に来て一番大きな影響はやはり知子だった。

桃ちゃんが家に定住してからも、知子はなかなか心から笑おうとしなかったが、ある日とうとう心のそこから笑った。

あまりに笑ったので涙が出たくらいである。

知子は自分が涙が出るくらい笑ったのに、気がつくと、急に泣き出した。

そのときは次郎も幸一もいったい何がおきたのか、すぐにはわからなかった。が、桃ちゃんが歩み寄ると感謝するように知子は桃ちゃんを抱きしめた。知子の心が氷解した。知子やようやく自由になれたのだった。

桃ちゃんを感謝の念で見つめざるを得なかった。桃ちゃんは太郎だった。

太郎が帰ってきた。そのとき次郎はそう思った。


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