空腹と恥辱、あと苦痛も
「さて、それじゃあどうしよっか? 言っちゃあなんだけど、この街は僕の庭みたいなものだからね。行きたいところがあれば案内するよ」
実に楽しげな様子の正也に、ラヴィニアは頭を抱えたくなった。
「この街を出る、と言った筈だが。忘れたか?」
「もちろん覚えてるさ。でもそれまではきっちりエスコートするよ。ちょっと休憩したり食事したりは必要でしょ? その時は遠慮なく言って欲しいな。案内はもちろん、ご飯ぐらいなら奢っちゃうよ」
よもやこの男、単に遊びのつもりで付いてきたのだろうか?
そんな疑念が頭をもたげる程に、正也は絶好調だ。
「ハア……」
再び深い溜息を吐く。口下手なのか達者なのか、誠実なのか軽いのか、どうにも掴み難い性格の様だ。
と、苦虫を二、三匹まとめて噛み潰したような表情を浮かべるラヴィニアの顔を、正也が不意に覗きこんできた。
「……なんだ?」
「不安かい?」
先程までの元気で楽しげな声ではなく、落ち着いた、柔らかい声色だった。顔からも笑みが消え、穏やかながら真剣みが感じられる。しかしどこか困っているようにも見える顔。
思わず、ラヴィニアは足を止めた。
この顔は、心配を秘めた顔だ。
「ぐっ……」
誰かが自分を案じてくれているとき、皆決まってこんな顔をしていた。少なくとも、自分の「知識」の中で、心配してくれている顔とは、こんな顔だった。
苦しい時、悲しい時は、誰かがこんな顔をして寄り添ってくれるものだ。
(もう少し信用のおける人間にこんな顔をされれば、縋りたくもなるのかもしれんがな……)
しかし生憎と、ラヴィニアは初対面に等しい人間を易々と信用できるほど無垢ではない。ましてや怪しげな勢力に属し、怪しい言動を繰り返す、怪しい人間ともなれば尚更だ。
それに、「知識」はあくまで知識だ。実際の経験が伴わないあやふやな知識だけで判断を下せるほど、ラヴィニアは大胆ではなかった。
「さてな」
正也をちらりと一瞥し、ラヴィニアはそのまま踵を返す。
「あ、ちょっと!」
何やら慌てた様子の制止の声を無視し、逃げる様にさっさと歩き出す。
それがまずかった。
「んぶっ!?」
最初に感じたのは、顔面に走る衝撃だった。次に視界が暗転し、そのくせ、その闇の中を蛍の様な光が舞い始める。
「あ……」
くらり、と頭が揺れ、同時に酷い痛みが顔から頭へと抜けていく。
「あーあー、言わんことでは……」
遠くで正也の声が聞こえた気がしたが、それも定かではない。ラヴィニアは明滅する視界に、街灯らしい柱を見ながら、仰向けに転倒した。
「わわわっ、危ない危ない!」
ぼすん、と今度は背中に軽い衝撃を感じた。
「ちょっと、大丈夫……?」
頭の後ろから掛けられる声に、反射的に飛び退きそうになるが、歪む視界と痛みに苛まれるラヴィニアは、自分の足が地に着いているかもわからなかい。倒れる直前、正也に抱きとめられたことを把握するのが精々だった。
「あらら。完全に伸びちゃってるよ……」
次第に遠のく聴覚に、困ったような声が響く。
(うるさい、誰のせいだ……)
ぼやける意識の中、ラヴィニアは精一杯の皮肉を吐く。
そこが限界だった。
目を回したラヴィニアは、一切の抵抗なく、近くのベンチへと正也に引き摺られていった。
「起きた?」
ベンチに寝かせたラヴィニアが、ゆっくりと目を開いたことに気付き、正也はその枕元にしゃがみ込んだ。
「……おかげさまでな」
あからさまに不機嫌そうに一言発し、ラヴィニアは顔を歪めた。顔面を片手で覆い、そのまま起き上がろうとする。
「つぅ……」
「無理しない無理しない。結構いい音がしてたからね。もう少し横になってた方がいいよ」
苦笑しながら制止するが、ラヴィニアはそれを無視して上半身を起こした。ただ、まだ痛みがあるのか、意識がはっきりしていないのか、ベンチに腰かけたまま、立ち上がろうとはしていない。
が、
「……屈辱だ」
ぼそりと、だが恐ろしく底冷えする声で、ラヴィニアが呟いた。顔を抑える指の間から覗く瞳に、冷え切った光が宿っている。
(怖っ)
弾かれた様に立ち上がった正也は、その迫力に気圧されながらも、ラヴィニアの隣に腰掛けた。
十秒ほどの沈黙。幸い、ラヴィニアからの拒絶は無かった。
口を開くか、ラヴィニアの行動を待つか。一瞬考えた正也は、結局自分から口を開くことにした。
「思ったんだけど、やっぱり多少はゆっくりすべきだと思うよ?」
「くどいぞ。この街は出る。そう私は決めたし、おまえも無理強いはしないと言ったはずだが?」
「別に出るなとは言ってないよ。でも、出た後の事を考えてる? それなりの下調べや準備をしてからでも遅くないんじゃないかな」
「……」
「僕のことを怪しむのも、不安に思うのも分かる。でも、だからって君一人で何でもできるってわけじゃないだろう?」
「っ……」
痛い所を突かれたのか、ラヴィニアは顔を歪める。
「君は賢い子みたいだ。その君が、孤立無援で地理もさっぱりの場所に、のこのこ出ていくリスクがわからないとは思えない。〈奴ら〉、まだ君を狙ってるんでしょ?」
「……だろうな」
「得体の知れない街から逃げ出したい一心で、明確な敵が待ってるだろう網の中に逃げ込むっていうのは、あんまり賢明じゃないと思うけどね」
「ぬ、ぐ……」
棘のある、というよりは、歯に衣着せぬ正也の物言いに、ラヴィニアが僅かに動じた。どうやら多少きつい言い方でも、正論ならばそれなりに効果はあるようだ。
行ける、と正也は踏んだ。
元より正也は、ラヴィニアを無理矢理に街の中へ繋ぎ止めるつもりはなかった。
幸い、明日も事務所は休業だ。やっていることは普段の仕事と同じだが、少なくとも明日一日は暇がある。ラヴィニアのエスコートを市外まで延長すればいいし、最悪、市役所に応援を要請し、こっそりと警護をつけてもらう手もある。
だが、それにしてもラヴィニアを無防備なまま、市外に出すことは出来なかった。
せめて市周辺の地理を把握して、万一の連絡手段ぐらいは持っていてもらわなければ、いくらなんでも無謀過ぎる。
どうにか街を出るまでに、それぐらいの下準備はさせておかねばならない。
「それに君、少なくとも昨夜から何も食べてないでしょ。今の季節のサバイバルは、あんまり快適にはいかないよ?」
「フン、馬鹿にするな。二、三日食べなかったところで死にはしない」
今度はさほど突かれても痛くない指摘だったのか、ラヴィニアはある程度余裕を取り戻して言った。
「それでも、やっぱり食べられないっていうのは辛……」
くきゅるきゅるきゅ~。
正也の言葉を、妙に可愛らしい音が遮った。
「え、なに?」
正也は慌ててポケットをまさぐり、携帯電話を取り出す。着信ナシ、音源は電話ではない。そもそもメールも電話も、ごく普通の電子音に設定してあるのだから当然だ。
次は周囲を見渡して奇怪な音の音源を探る。が、これまた怪しげなものは何もない。
「?」
正也は首を傾げながらも隣に視線を戻し、話を続けようとした。
「ぬ?」
そこに、何やら可愛い生き物がいた。
膝の上で拳をきつく握りしめ、全身をわなわなと震わせ、俯いた顔が耳まで真っ赤になった、愛くるしい少女。個体名、ラヴィニア・バニ・ルナティクスが鎮座している。
(待て、ちょっと待て。このリアクションは、まさか……)
辿り着いたのは、あまりにも無慈悲で残酷な結論。その結論を否定しようと、別の仮説を必死に組み上げる正也の耳を、おもしろい音が打った。
くるる、きゅうぅ……。
がばっと、ラヴィニアが自身の腹部を抑えた。
(おお、神よ……このタイミングで、何と残酷なことを……)
眼前で恥辱に打ち震える、どう考えても音源の少女に振りかかった試練に愕然としながらも、正也は内から迸る衝動と必死に格闘していた。
(ダメダメ、笑うな、笑っちゃだめだ! いかに最高の間を取って笑いの神が降臨したとしても、今笑っては、僕はとんだ外道に身を落としてしまう! だが、しかし……!)
腹の底から爆裂する笑いを必死に押しとどめ、表情筋を硬直させ、全身全霊で意識を切り替える。
(まさかこんな古典的な現象が……いや、駄目だ考えるな! いま僕が考えるべきは、如何にこの少女を傷つけずに事態を収拾するかだ! 思考を切り替えろ! 腹の虫ではなく、腹の虫に不意打ちを食らったラヴィニアの事を考えろ! どうだ、この羞恥に耐える表情! 可愛いと思わんか!? 僕もサディストなら、この泣き出しそうな顔の愛らしさに全神経を集中しろ! そう、これは高度な羞恥プレイ! 僕に求められるのは如何に彼女を守り導くかだ!)
一瞬という名の永遠、煩悩の神の力を借りた正也は、笑いの神の策謀を見事打ち砕いた。
あとに残った嗜虐心と庇護欲を心の反応炉に叩き込み、完全な精神状態を手にした正也は、慈悲に満ちた優しい笑みを浮かべていた。宗教画であれば、間違いなく後光が差しこんでいるだろう、穏やかな笑顔だ。
何がどうなったのか、先程までとはまるで別人、別次元の表情。
ラヴィニアの両肩に手を置き、優しくも頼もしい笑顔で正也は言った。
「遅くなったけど、お昼にしようか。ご馳走するから、付き合ってくれると嬉しいな」
ラヴィニアの目に、じわりと恥辱の涙が滲んだ。