疑惑の彼方に慈愛の微笑
「……」
「……」
数秒の沈黙の後、正也は差し出した手を引っ込めた。
(し、しまったなあ……握手の習慣がなかったんだろうか。だとしたら僕は、いきなり女の子の手を握ろうとした危ないお兄さん、ということになってしまうんだけども……)
握手に応じる様子の無い少女に、正也は不安を掻き立てられる。右手をポケットに突っこんで、所在なさげに視線をあちこちに巡らせる様は、不審者の見本の様だった。
(それともやっぱり、跪いて手の甲にキスすべきだったのか? いやいや、それこそ不審者、それこそ事案になってしまう……)
どうしたものかと逡巡していると、痺れを切らしたのか、少女の方が口を開いた。
「……ラヴィニア・バニ・ルナティクス」
「え?」
「ラヴィニア・バニ・ルナティクス……私の名前だ」
顔つきも、声の調子も、かなり剣呑な色を滲ませていたが、それでも少女は胸を張り、正也に自身の名を明かした。
「ありがとう、教えてもらえて嬉しいよ。コミュニケーションの第一歩だね」
少女が名乗ってくれた事に、正也の顔が綻んだ。
元々、正也は感情が掴みやすい。特に喜や楽の感情は分かりやすく顔に出る。仕事上、顔色が暗くならないように気をつけてはいるが、生来人懐っこく、明るい性格をしていることも大きい。
が、優しげな笑み程度で解きほぐせるほど、少女の警戒心は弱いものではなかった。
「……それで、質問の続きだが。おまえは一体何者だ?」
鋭い目を正也から外すこともなく、少女―ラヴィニアはさらに問い掛ける。
「んー、どこから話せばいいかな。乱暴に言えばこの街、古見掛市で小さな事務所を営んでる一社会人、かな。仕事の内容は、犯罪に巻き込まれた人達を支える、と言えば間違ってないと思う」
「本当に大雑把な説明だな。まあ、今事細かに説明されても困るが。つまり、市井に生きる善良な市民、と言いたいのだな?」
「君のまとめ方も大概だとは思うけど、間違ってはいないか。一応は善良な市民を自称してるよ」
「そうか。では次の質問だが、ここはどこだ? 何らかの施設の一室なのはわかるが」
「古見掛市中央病院、この街が運営している病院の病室だね」
「病院、病室だと?」
ラヴィニアの片眉がピクリと跳ねた。
「何故、そんな所に私がいる? そうだ、私はどういう経緯でここにいるんだ?」
「……君が、昨夜に白装束の集団に襲われていたことは、覚えてるかい?」
正也は僅かに表情を陰らせ、遠慮がちに尋ねた。
「……覚えている。途中、気を失ってからはさっぱりだが」
ラヴィニアは平静に答えたが、表情の険しさだけは目に見えてひどくなった。
「ごめんね、嫌な事を思い出させて。僕はその現場に居合わせた、というより、君が襲われているのを見て、慌てて駆け付けたんだ。幸い、親切な人たちも駆け付けてくれたおかげで、白装束の連中を追い払う事ができたんだ。で、そのまま君をここに運び込んだ、というわけ」
正也としては、事実を簡潔にまとめたつもりだったが、その言葉を聞いた途端、少女の顔にありありと不信の表情が浮かんでいた。
「待て。さっきおまえは、善良な市民を自称していたな」
「したけど?」
「おまえがその白装束と無関係の人間だと仮定して、善良な市民は、あんな危険な連中に関わろうとはしない。まして、追い払っただと?」
「僕一人じゃない。親切な人達に助けてもらってだよ」
「同じこと……いや、むしろ一層胡散臭い。そんな酔狂な強者がそうそう居てたまるか」
「う~ん、そう言われてもなあ」
ラヴィニアの目つきがじわじわと鋭さを増しているのを感じ、正也は難しい顔で頭を掻いた。どうやらラヴィニアは、正也が白装束の仲間、もしくは同類という可能性を憂慮しているらしい。
(まいったな。冷静で賢い子みたいだけど、悪く言えば疑い深い。ある意味、都合のいい理想郷なこの街の事を話して、果たして納得してくれるかどうか)
正直な所、正也はこの少女を納得させられる説明を出来る自信がなかった。
正也はこれまで、大勢をこの古見掛市に案内している。そのほとんどは犯罪や弾圧、迫害によって故郷を失った人々だ。単純に犯罪被害者、という場合もあるし、〈普通〉と違う為に恐れられ、あるいは嫌悪されて追われてくる場合もある。そういう人々に古見掛市への移住を提案、補佐するのが正也の本業ではあるのだが。
「う~む……」
例えばこれが、藁をも掴む程に追い詰められている者なら、「保護してくれるコミュニティーがある」と言えば、こちらの話を鵜呑みにしてくれることが殆んどだ。こういう場合ならば、事実を淡々と説明すればいいだけなので、相手を納得させる労力は少なくて済む。とりあえず街に連れて来て、ゆっくりと現実を受け止めてもらえばいい。
だが、十分に知性も理性も発達し、それがきちんと機能している相手に説明するのは些か骨が折れる。
行政も企業も、ご近所さんでさえ一丸となって力になってくれる街だから、などと馬鹿正直に話せば、良くてペテン師扱い、悪ければ病人扱いだ。
それでも、そんな空想妄想、絵空事を大真面目に話し、どうにか納得してもらうしかないというのが現実だ。せめてラヴィニアの素性やバックボーンが把握できれば、ある程度は話しやすくなるのだが、現状で尋ねていいものか迷う。
「うむむむむ……ちょっと待って、どうにか納得してもらえる説明を……」
「いや、いい。ややこしい話はまとまってからにして、私をここに運び込んだ理由を教えてもらおうか」
本格的に考え込む正也を制し、ラヴィニアが別の話題を促す。
「うん? さっき話した通りだけど」
「あれは経緯だ。今聞いているのは理由、目的だ」
ラヴィニアの言葉に、正也はキョトンとして首を傾げた。
「いや、怪我人を病院に運ぶっていうのは、それほど特別な理由はいらないと思うけど……」
「ちょっと待て。まさかとは思うが、善意などと言い出してくれるなよ?」
ラヴィニアの眉間に、一気に深い皺が寄る。
「善意というか、習慣というか……」
正也は内心、まずい、と感じた。
この少女が今までどういう社会、世界で生きて来たのかは分からない。しかし少なくとも、〈善意〉の行動に、疑いや裏を感じるには十分な環境に居たようだ。窮地に陥った時、笑顔で美味い話を持ってくる人間の信用ならなさを、しっかりと理解しているらしい。
「百歩譲って、怪我人を病院に連れていく事まではいいとしても、得体の知れない集団と戦う事になってまで、実行するような善意があると?」
「この街に限って言えば、ある。というより、お手伝い感覚でそういう人助けができるのがこの街だ。別段リスキーでもない。迷った人に道を教えるぐらい気軽にできる、おかしな街がここだよ」
「この街の住民は善人揃い、強者揃いだと、おまえはそういいたいのか?」
いよいよ険しくなるラヴィニアの声に、正也は内臓が胃酸で解け落ちそうなストレスを感じた。
自分の話が胡散臭いことは百も承知だ。百も承知だが、他に説明のしようがない。もっと要領のいい人間ならば、話を聞いてもらえる程度に、ごまかしやはぐらかしも使えるのだろうが。
生憎と正也は、腹芸が恐ろしく苦手な人間でもあった。相手の情報をある程度揃え、事前に準備をしておけば、ある程度は口も回るのだが。
「えーと、そのだね……」
話せば話すほどに、ラヴィニアの疑心を凝り固まらせている現状に、真っ白な頭で立ち向かうが、既に口からはまともに言葉が続かなくなってきている。
(ど、どーするかな。なんだか、もうドツボに嵌りきっている気が……)
脳細胞を超スピードで空回りさせているその時だった。
「そうか、わかった」
ラヴィニアが穏やかな声で呟いた。
「へ?」
見ればラヴィニアは、暖かな眼差しをこちらに向け、慈悲に満ちた優しい笑みを浮かべていた。宗教画であれば、間違いなく後光が差しこんでいるだろう、穏やかな笑顔だ。
何がどうなったのか、先程までとはまるで別人、別次元の表情。
「あの、ラヴィニア……?」
困惑し、リアクションの取れない正也の直ぐ傍に歩み寄り、呆けた顔を見上げ、両肩に手を置く。
まるで子供を諭すように、優しく掛けられた声。
「今はとにかく休め。おまえが親切な病人なのか、間の抜けたペテン師なのか、それは分からないが、どちらにしても思考力が極端に落ちている。ゆっくり休んだほうがいい。少なくとも根は真面目そうな人間が、混乱しながら必死に言葉を紡ごうとしているのは、見ていて心苦しい」
まさかの気遣いの言葉だった。