契約の前には十分な説明と合意を
十月二十一日 十三時七分 古見掛市中央病院 病棟
「本当に、構わないのか?」
「もちろん。君が嫌じゃなければだけどね」
病室のベッドに並んで腰掛け、おずおずと問うラヴィニアに、正也は笑って答えた。
「すまない。別に、この街の人々を信用しないわけではないんだ。事実、大勢が私を救う為に戦ってくれたからな。だが……その、おまえ以上に信頼のおける人間を、私は知らないんだ」
「さらっと嬉しいことを言ってくれるね」
異郷の地で、他に知り合いもいないのだから、当然と言えば当然なのだが、こうして信頼を言葉にしてもらえるのは嬉しいものだ。
頬をぽりぽりと掻き、正也は照れくさそうにはにかむ。
「オッケー。君の身柄、本条正也が引き受ける」
真っ直ぐに張った胸に、正也は右の拳を打ちつけた。
ラヴィニアの身柄引き受けを申し出たのは、単純に自分の職業とラヴィニアの境遇の相性がいいこともあったが、何よりこの少女ともう少し共にいたいという、正也にしては珍しい、私的な思いが絡んでいた。
少なくとも、ラヴィニアがこの街の暮しに慣れるまで彼女に付き添い、様々なことを教えながら生活を支える存在が必要だ。これは正也の日常的な業務で慣れている。違いは、身柄引き受け人である正也が常時ラヴィニアの側にくっつくことぐらいだろう。
早い話、ラヴィニアを正也宅に居候させ、共に生活しながらこの世界の知識を教えていくことになる。
「感謝する。自分の行き場は自分で見つけるべきだとは思うんだが、今おまえの側を離れてしまったら、そこを見つける前に心が折れてしまいそうでな……」
心底情けなさそうに俯くラヴィニアに、正也はあえて明るく笑いかける。
「そりゃそうだよ。あんまりあっさり自立されたら僕の立つ瀬がないじゃない。なんなら、そのまま僕の側に根を下ろしてくれても……いや、むしろ下ろしてくれたら嬉しいね」
そう言ってラヴィニアを見やった正也は、そのままぴくりとも動けなくなった。
すぐ隣に座るラヴィニアが向けてくる視線が、怖ろしくまっすぐに正也の瞳を捉えていた。困惑を多分に含んでいるが、そこから滲み出ているのは期待の感情だった。
「それは、どこまで本気だと思っていい?」
「……えーと、側に根を下ろす云々の所かな?」
こくりと頷く。
「ふむ」
先程は冗談めかして言ったが、本当に冗談を言っているわけではない。ラヴィニアもそれをある程度は理解しているから問うたのだろう。
本条正也は、ラヴィニア・バニ・ルナティクスを側に置く意思があるのか否か。
短期的な身柄の預かりではなく、今後長期に渡って、もしくは恒久的にだ。
答えは是だ。
無論、性格や価値観にあまりにも不一致が生じ、共同生活が不可能になる可能性は十分にあるし、その時は互いの関係は終わりを迎えるだろう。
出来ればラヴィニアが新しい生き方を見つけ、正也の元を巣立っていくのが最も望ましい。
しかし、もしラヴィニアが正也の元で新しい生き方を見つけたら。
(僕の感情も考えれば、それが一番嬉しい事じゃないか)
ラヴィニアにとって何が幸福かは分からないが、正也の側に幸福を見出してくれるなら、正也にとってもそれは過分な程の幸福ではないか。
「君と一緒なら毎日楽しそうだからね。これから君がどういう道を行くかは、ゆっくり選んで行けばいい。それが定まるまで一緒にいられたら嬉しいし、もし、そのまま僕と一緒に歩んでもらえたらこれ以上の光栄はないね」
どこか不安そうな色があったラヴィニアの顔に、さっと明るい光が差した。
「だから、後は君がどうしたいかだね」
「経過はどうですか? 三重の意味で」
ニヤニヤとした笑みを浮かべて病室に入って来たドクトルに、正也はあからさまな警戒の視線を向けた。
「……どういう意味かな?」
「まずは、本条お兄さんのお身体の調子はどうですか、という意味。もう一つは、ラヴィニアお姉さんの精神状態はどうですか、という意味。最後に、お二人の仲はどこまで行きましたか、という意味です」
あどけない顔立ちに、少しばかり意地の悪い笑みを浮かべている様は、本来ならどこか可愛らしいとも思えただろう。実際、朝の時点ではそうだった。
しかし、正也はその笑顔の裏に暗い感情が蠢いている事に気付いた。顔は確かに笑っているのだが、どうも目が笑っていないように見える。
「何の、話だ……?」
正也同様、警戒心を剥き出しにしたラヴィニアが慎重に尋ねると、どこか影のある笑顔でドクトルは笑う。
「この病院、噂は瞬時に広まります。皆さんお話好きですし、特に色恋沙汰に関しては瞬間的かつ詳細に。私みたいに、もう長らく恋人の一人もいない職員や患者さんは少なくないですから……」
強烈なプレッシャーと共に、しかし声色だけは穏やかに問うてくるドクトルに、二人は少なからず恐怖を抱いて後ずさる。
「さ、さあ。仰る意味がよく分からないなぁ。ね、ラヴィニア?」
「う、うむ。どんな噂か知らないが、たかが噂に何をそんなに怒っている?」
「彼氏いない歴■■年の私が、院内でお二人が仲睦まじくしている様子を詳細に聞かされたんですよ!? ジェラシーを抱いてはいけませんか!? いいえ、いけないわけがありません!」
手にしていたバインダーを握力だけでへし折り、ドクトルは涙目で絶叫する。
「「ひっ」」
禍々しい迫力を前に、二人は思わず抱き合って竦み上がる。
そんな二人を見て、ドクトルは唐突に口元に手をやった。
「ぷっ……! ぷふふぅ……!」
耐え切れない、といった様子で吹き出し、身体をくの字に折って笑う。
「ご、ごめんなさい。お二人の様子が可笑しくてつい……」
肩を震わせて必死に大笑いを堪えるドクトルの様子に、二人は深い溜息を吐く。
「冗談なら時と場所を選んで欲しいなぁ。一応、僕は患者なわけだし」
「本当に医師か? 本人がいるかどうか照会した方がいいと思うが……」
初対面のあのいい子そうな印象はもはや欠片も残ってはいない。
少々冷たい二人の視線に、ようやくドクトルはばつが悪そうに咳払いして態度を改めた。
「え……えー、それではもう一度治療に関して話し合っていきたいと思います」
正也とラヴィニアは一瞬視線を交わしたが、とりあえずこのまま話を進めることにする。
「それで、契約に関して詳しいことはわかりましたか?」
「あー、それに関してなんだけど……」
また視線を合わせた二人は、今度は頷きを交わしてドクトルの方へと向き直る。
「治療はしない方向で行きたい。私達は、正式に主従契約を結ぶことにした」
「僕たちの契約を完了させれば、この症状もなくなるはずだしね。一応、先生には、出来れば立ち合いをお願いしたいんだけど……」
ドクトルはその言葉を受け、しばらくぽかんとして二人の顔を見ていたが、やがてまたニヤニヤと笑みを浮かべ始めた。
「ふふ。まあそうなるとは思ってましたけど、まさかこれほど短時間で決断するとは思っていませんでした。噂は大間違いでもないみたいですね」
くすくすと嗤うその様子に、正也は若干躊躇いつつ口を開く。
「その、どういう噂が蔓延っているのかな?」
「んー? そうですね。お二人が展望席で抱き合っていたとか、中庭で手を繋いで歩いていたとか、待合室で威風堂々と唇を重ねていたとか、そんな感じです」
「ほ、ほとんど捏造じゃないかむぐっ!?」
「ラヴィニア、待った!」
慌てて否定するラヴィニアの口を、正也が掌で塞ぐ。
「ほとんど、ということは抱き合ってたのは本当なんですね? 私が見た時よりも関係が前進しているようで何よりです」
完全にはめられた。
恐らく噂そのものは別段尾ヒレ背ヒレ付いていなかったのだろうが、真偽の程を完全な確信まではしかねていたのだろう(九十九パーセントは確信していただろうが)。
大げさな尾ヒレ背ヒレをでっち上げ、まんまとラヴィニアから自白させた、およそ医師とは思えぬその所業に正也は戦慄さえ覚える。
「さて、それじゃあそろそろ真剣に本題に入りましょうか」
「最初からそうしてくれるとすごく助かったんだけどなぁ」
ラヴィニアを解放し、正也は溜息を吐く。ラヴィニアはラヴィニアで胡散臭げな視線をドクトルに向けたままだ。
「では、一応の確認を行いますが、契約の条件、手順といったものをお聞きしてもよろしいですか?」
そんな二人の様子を気にも留めず、ドクトルは問診票を手に取った。
「条件がそのまま手順の様なものだが……」
どこか言いにくそうにラヴィニアが答え始める。正也も契約の詳細は聞いていないので、ドクトルと一緒にラヴィニアの説明に耳を傾ける。
「まずは奴隷の側……私が服従の意思を示す必要がある。これはあくまで形式的な物で、それらしい動作、行為を行えば成立するはずだ」
正也は昨日ラヴィニアが行った行為、足の甲への口づけを思い返した。
「そこにお姉さんの意思がなくても、ですか?」
ようやく声色に真剣なものを滲ませ、ドクトルが問う。
「ああ。もとより、奴隷とはそういうものだろう? 本人の自由意思など関係はない。私が望んで契約する今回を除けばな」
僅かに自虐的な表情を浮かべ、ラヴィニアは笑う。
「本条お兄さんは、傅くに足る人だと判断されたんですね?」
「私も短くない時を生きてきた。その間、傅こうなどと思える者に出会ったことはない。私が服従と奉仕を誓えると思ったのは、本条正也ただ一人だ」
さらっと当然の様にとんでもない言い回しをする。が、いちいちそこに突っ込む程には正也もドクトルも野暮ではなかった。
「ラヴィニアがそう言ってくれるなら、僕は主人として全力でそれに応えるだけだよ」
その言葉に、ラヴィニアは微かに嬉しげに、ドクトルは微笑ましげに頷く。
「それと、もう一つ条件があるのだが……」
今度は明確に言いにくそうにラヴィニアが口を開く。顔は固定しているが、目があっちこっちに泳いでいる。
重苦しい話ではなさそうだが、かといって気楽に聞ける話でもなさげ。どういう心構えをすればいいか分からないままに、正也は視線で続きを促す。
「その、なんだ。これはあくまでも私の種族に由来する条件であって、他意は一切ないし、この条件は他種族との契約時にしか必要ないから、私自身はまだ未経験だということをあらかじめ理解して欲しい……」
「う、うん」
「はい♪」
正也はきょとんとしつつ、ドクトルは何故か満面の笑みを浮かべてそれぞれ頷く。
ラヴィニアは数秒間難しい顔をしていたが、やがて覚悟を決めた様に瞑目して頷き、口を開いた。
「契約時に……その、ある程度の性的な接触が、必要に……なって……だな……」
 




