into the キャンバス
「一昨日Googleで引っ張ってきた」
「あ。すげぇ、衛星写真もある」
年季の入った六人掛けのテーブルには、光が拡げた2枚の地図と宿の口コミをコピーした1枚のテキストがある。
隣りの賢翁が身を乗り出すと、箱型の椅子はギシリと重く軋んだ。
「近辺に定食屋の情報は無し。泊まるところは2食出してくれるらしい」
「素泊まりも良いんでしょ?食糧はスーパーで買おうよ」
「じゃあ、素泊まりで」
美術室には、2人以外に人が居ない。
カーテンの隙間から真っ直ぐ日の射すこの場所は、美術部の部長である賢翁の根城だった。
「電車賃……いくらだっけ」
「俺が持つから良いって」
「でも」
「しつこい」
そっと窺う様な賢翁の言葉を光は遮る。
「それよりスケッチの道具とか揃えとけよ。1日中描く勢いで持ってこい」
「え。それ真に受けて良い?」
「言われなくても朝から夕方まで描いてるだろ」
「でも……光はどうすんの。ホントに1日中描くよ?」
「こっちで勝手にやってる」
「……さいですか」
この調子だ。
賢翁はずっと遠慮気味に接している。
金を工面して貰っていることに負い目を感じているのかもしれなかった。
「……俺も、ちょっと違う世界見てみたかったから。別にお前の為だけって訳じゃない」
「そう、なんだ」
「俺はただ星見ただけで『はい、終わり』のタイプだから、1つ形に残しそうなお前を連れていった方が良いだろうと──まぁ、要は星見るだけじゃ金がもったいないと思ったんだ。それだけ」
我ながら苦しいフォローである。
賢翁に気を遣わせないように、と言ったが……何だか言い訳みたいだ。
日頃いかに人に気を遣っていないか、よく分かるザマだ。
「それより、何持ってくか書き出しとけよ。お前抜けてるから」
「ひどっ。俺そんな馬鹿じゃないもん」
「さっき俺呼んでたのに気づかなかったのは?」
「俺ですごめんなさい」
賢翁は耳が痛いと言いたげに、苦い表情で鉛筆を取り上げた。
全く……。
光が持っていく物を言って、賢翁が箇条書きしていく。
明日行くというのに何故だろう。
現実味が無いというか……。
修学旅行の時だって何となく"明日行く"という感覚はあったのに。
「──こんなもんか。1泊2日だし」
「うん。思ったより少ない」
朝描いていたデッサンの余白に書き連ねられた持ち物リスト。
替えのTシャツ類・虫避けスプレー・タオル・歯ブラシ・食料(主にお握り)と、書き出してみると意外に少ない。
そこに光のトランプと賢翁のスケッチブック・画材道具が加わっても、大した荷物にはならないのだ。
「えっと、まず色鉛筆ー。鉛筆ー……これでいっか」
「鉛筆5本も持ってくのか?」
「まぁ1本だけでも濃さは変えれるけど、あった方が描きやすいかなぁ」
「へぇ……」
先ほどデッサンで使っていたBの鉛筆も色鉛筆のケースに仕舞う。
「何か現実味が湧いてこない」
「俺もー」
「お前もか」
「だって光が急に決めるんだもん」
賢翁が苦笑気味に答える。
「俺そもそも旅行とか高校生でも計画出来るもんなんだ〜って、そっから現実味無かったし」
「そうか……」
言われてみれば、発案者の光も元々そこまでの行動派ではない。
賢翁なぞ修学旅行すら行っていない訳で。
……まさか「賢翁のために」と突発的に立てた計画が、本当に実行出来るとは。
今更ながら、そして我ながら驚くべきことである。
「他の使えそうなの見てくる」
賢翁は他の画材を探しに美術準備室へ行ってしまった。
──遠退いていた蝉の声が、湧きだすように美術室に響いた。
忘れ去られていたカーテンが視界の隅で、緩やかにはためく。
身体を包む様に撫で去って行く生温かい風を今になって意識した。
騒がしいのに、静かな空間。
不思議だ。
賢翁が居なくなった途端、こんなにも雰囲気が変わるなんて。
光は立ち上がって、壁際に寄せられたキャンバスの群れを見に行く。
適当に置いて行ったようで、ある程度固まっているがバラバラの向きと位置で置かれている。
おのおのに色を乗せ始めたキャンバス。
その中にぽつん、と取り残された真っ白いキャンバスが1つあった。
丁度日の光が当たる角度にあって、目に眩しく映る。
様々な色がある中でその白が異様に目立った。
光は何気なくそのキャンバスのザラザラした表面に指を滑らせる。
これは、賢翁のキャンバスである。
彼のキャンバスは2ヶ月以上、手を付けられていなかった。